戦時中、和菓子屋の名前に変えさせられたケーキ屋さん 「本当に悔しかった」

    静岡・三島にある老舗「ララ洋菓子店」。その歴史を紐解いた。

    「ララ洋菓子店」というケーキ屋が、静岡・三島にある。創業85年。戦前からケーキやパンを販売してきた老舗だ。

    太宰治も足を運んだというこの店は戦時中、名前を和菓子屋「菊屋」に変えさせられたことがある。「敵国語」だったことが、その理由だった。

    「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」視点から、小学校の道徳教科書の「パン屋」が「和菓子屋」に変わったニュースと、どこか重なるこの話。

    いったい、当時の日本ではどんなことが起きていたのか。そしてその店に関わる人たちは、いま何を感じているのか。

    最先端の文化を生かして

    「今回のニュースを聞いて真っ先に思い出したのが、祖父母のやっていた洋菓子店の話でした」

    実家であるララ洋菓子店で修行を積み、いまは神奈川県小田原市でパン屋「ポタジェララ」を営んでいる小澤ちひろさん(53)は、BuzzFeed Newsの取材にそう語る。

    「洋菓子店を和菓子屋の名前に変えさせられる。昔はそんなことがあったのかと驚いていたのですが、今回のニュースはまさに、おばあちゃんの言っていた通りだと……」

    小澤さんの話や資料をもとに、歴史を紐解いてみよう。

    ララ洋菓子店は1932(昭和7)年、小澤さんの祖父である菊川義雄さんが立ち上げた店だ。

    「誰にでも覚えやすいように」。それが、店名「ララ」の由来。

    和菓子屋の次男だった菊川さんは丁稚奉公に出され、若いころは東京で暮らしていた。三島の中心部・広小路に店を構えることになったのは、世界恐慌があったばかりの不景気な時代だ。

    当時27歳の菊川さんは、もとは銀座・三越で働いていた妻・千代子さんと2人で店を切り盛りすることにした。町で最初の洋菓子店は、自分たちが知る最先端の文化を生かした、挑戦だった。

    町の人が知らない「洋菓子」

    店では、当初からケーキやパンなどを売っていた。

    まだ、東海道線が通る前の話だ。町の人たちは、そもそも洋菓子が何かをわかっていなかった。

    小澤さんが千代子さんから聞いた話によると、「ベイクドアップル」を売っていたら、「りんごが腐っているよ」と言われたこともあったという。

    「大福はないのか、煎餅はないのかと聞かれることが多かったそうです。店をはじめた当初は、岡持(食べ物を持ち運ぶ箱)を手にお菓子を売り歩いていたと話していました」

    そうした甲斐もあってか、店はだんだんと盛り上がりをみせるようになった。

    町でコーヒーが飲めたのは、ララ洋菓子店だけ。だからなのか、併設された喫茶室には、画家や小説家などの文化人が入り浸るようになっていった。

    無名だった太宰治が、三島で小説を執筆していたころに通っていたとの逸話も残る。しかも、店頭に立つ千代子さんを見初めて、だ。

    店にも及んだ戦争の影

    ようやく店が回り始めたころ。町には、戦争の気配が近づいていた。

    ララ洋菓子店にも、それは及んだ。1937年、満州事変が勃発すると菊川さんは召集され、2年間中国に派遣されることになる。

    無事帰国はしたものの、息つく間もなく、1941年から1943年までは内地(国内)に召集された。生前の千代子さんは、「三島の女性史」(静岡新聞社発行)による聞き書きに、こんなことを語っている。

    戦争中に苦労したのは、夫が中国に行っている間に材料が手に入りにくくなり商売も不安定になったことです。

    そんな折りに菓子職人から「暇をもらいたい!」と言われたのには、つらかったです。「出征軍人の家を見捨てていいのか、よく考えてみて」と、強気で言い聞かせて思い留まってもらいました。

    奪われたネオン

    憲兵に店名を変えろと言われたのも、このころだ。

    憲兵からは「ララは敵国語であるから店の名はすぐに変えるように!」ときつく言われ「菊屋」に変えました。看板のネオンは引き抜かれました。

    物資は配給制度になり、砂糖などの材料は統制品となり商売は行き詰まりました。子どもを抱えて、夫の留守中なんとか続けていきたい気持ちで悲壮な時期でした。

    「菊屋」とは、菊川さんの実家である和菓子屋の名前だ。小澤さんは言う。

    「戦争の話になると、祖父母はいつものようにこの話をしていました。戦争から帰ってきた祖父も、店の名が変わっていたのが、本当に悔しかったんじゃないかな」

    けっきょく、材料不足で洋菓子づくりを諦めた2人。戦争が終わるまで、パン製造に切り替えて商売を続けた。

    地域に根ざすために

    戦後。再び「ララ洋菓子店」に名前を戻し、2人は店の再興をはかる。

    物資がないあいだは、闇市で材料集めに奔走した。徐々に女学生など地元の人たちが集うようになり、戦前の活気を取り戻した。

    1960(昭和35)年には店舗のリニューアルを果たし、数年後には、工場も新設。職人を30人雇うまでに店は成長を続けた。

    菊川さんは後継者を育てようと、パンや菓子の製造研修をたびたび開いた。静岡県の初代・洋菓子協会長になり、晩年にはその功績を称えられ、叙勲を受けたほどだ。

    小澤さんは祖父の話を嬉しそうに語りながら、こうつぶやいた。

    「祖父も私も、地域に根ざして仕事をしようと、洋菓子屋やパン屋をやってきたんです。そういうお店は、たくさんあるはず」

    今だからこそわかる悔しさ

    ララ洋菓子店は、いまや複数の店舗をもつ、三島では名の知れた洋菓子店だ。

    昭和30年代から2代目が販売を始めたベビーシュークリームは、「三島のソウルフード」(小澤さん)。お盆や年末年始に帰省する人たちが、わざわざ買いに来ることもある。

    地元を盛り上げようと、「三島めぐり」なる焼き菓子も販売している。

    「85年ですよ。二代、三代とうちのお菓子やパンが引き継がれているんです。そうやって育つのが、郷土愛だったり、国を愛する心だったりするのではないでしょうか」

    祖父母が戦時中に感じた悔しさが、いまならわかる気がするという。言葉に力を込める小澤さんは、こう続けた。

    「パンとかお菓子とか、おいしいものって、人を幸せにできる。だからこそ、夢をもってもらえる職業のはずなのに……」


    BuzzFeed Newsでは一連の問題への反応を「『えっ!いま戦時中?!』 道徳教科書「パン屋→和菓子屋」問題、ネット上で高まる批判」にまとめています。