茨城県友部町(現在の笠間市)で起きた女性教諭殺害事件について記す。
朝日新聞記者、テレビ朝日報道局次長などを歴任し後にノンフィクション作家となった足立東氏による『逆転無罪 友部小学校女教諭殺人事件の真相』(日本評論社)に依拠する。
教室の遺体
1964(昭和39)年11月30日(月)7時40分頃、茨城県西茨城郡友部町の友部小学校6年4組の教室で女性教諭の遺体が見つかった。
第一発見者はクラスで最初に登校してきたMくんで、宿直明けだった6年3組担任の福本一夫教諭(32歳)に「女の人が倒れている」と異変を知らせた。遺体は鼻から血を流し、顔はむくんで変貌していたが、同年春に赴任した6年4組担任の綿引俊子教諭(38歳)であった。即座に登校してきた生徒たちの入室は禁じられ、笠間署に通報された。
遺体は4組教室の廊下に近い机と机の間に仰向けに倒れていた。男性教員1名が宿直として泊まり込むことになっており、福本教諭も夜と早朝に定期巡回していたが、廊下を見回るだけで各教室内までは目を凝らしておらず、廊下からは死角で異変に気づいていなかった。
8時10分過ぎに校医が到着して検案したが、その場で死亡が確認された。右足にかなりの硬直が見られ、下顎付近と左頬につねったような紫色の斑点が確認された。校医の第一印象では、扼殺(手による絞殺)もしくは脳内出血かと目された。死体検案書には、死因を外力による脳部圧迫症、死亡推定時刻を29日午前9時と記入された。
8時40分には笠間署から「他殺体とみられる不審死」として県警本部に報がもたらされた。9時過ぎには県警捜査一課、鑑識課、水戸地検検事らも現地入りし、殺人事件と断定され、最寄り派出所に捜査本部が設置される。
地理など
友部町は県庁所在地の水戸から西へ約15キロ、1955年に周辺町村が合併してできた歴史の浅い町で、2006年に笠間市と合併してその町名は消えた。「友部」の名称は1895年(明治28年)に日本鉄道水戸線の駅設置の際に付近の村落の呼称に由来し、その駅名から町名へと採用された。
遺体発見現場となった学校は友部駅から南に延びる目抜き通りの商店街を抜けて200mほどの場所にあり、周辺は住宅や商店に囲まれている。当時は児童数891人で各学年は3~4クラス、教職員は校長の他、男性教諭9・女性教諭17の計27名とそのほか用務員、給食婦ら5名が勤めていた。
校舎は当時とは別の場所に移転し、かつての面影は児童公園に残された僅かな桜の木だけとなっている。下のリンク先・友部小HPでは在りし日の旧校舎の面影を垣間見られる。
下は1960年代の国土地理院航空写真で、北に列車切り替えし用の扇状の線路が見られる付近が友部駅、中央「+」印が小学校である。駅南や小学校周辺は住宅や店が密集しているが、周縁には田園地帯が広がっている。
現場と遺体の状況
遺体発見直後から校内は登校時刻を迎えて俄かに慌ただしくなり、警察の到着で物々しさを増した。
綿引教諭はこれまで休日出勤をしたことはなく、当初は30日早朝に出勤して亡くなったものと早合点していた。それというのも出退勤の状況を表す「木札」が被害者の分も出勤中を示す青札に切り替えられており、出勤簿には発見当日の「30日(月)」の欄に押印してあったためである。
たとえば押印だけならば、手間を省くために本人が事前にまとめて押していた可能性も否定できなくはないが、木札まで裏返されていたとなると犯人による捜査かく乱の隠蔽工作が疑われてくる。
また職員用下駄箱には被害者の内履き用サンダルが残っており、新校舎の通称「丸窓玄関」の児童用下足箱の上から焦げ茶色のハイヒールが見つかった。元々は4年生女子の下駄箱に入れられていたのを、登校してきた生徒が不審に思って棚の上部に移したものと分かった。被害者の外靴と断定されたが、綿引教諭が普段その昇降口から出入りすることはなかった。
校舎は平屋建てで、北側校舎に1~3年生教室、西側校舎に職員室や特別教室、6年1~3組までの教室があった。現場となった6年4組と4・5年生の教室は南側の新校舎にあり、建物は旧校舎から独立して渡り廊下でつながっていた。
新校舎は出入口が三カ所。旧校舎との連絡口となる西側出入口のガラス戸は外からの差し込み式のカギを必要とした。東側の生徒昇降口は内側から締めるねじ込み錠で外からの解錠は不可能だった。靴が発見された中央の丸窓玄関は北の校庭側に面しており、錠は締りが不完全で外側からガタガタ揺すると掛け金が外れてしまう状態だったことが判った。
第一発見者Mくんは職員室でカギを借り、西側出入口を解錠するつもりが「回さないうちに戸が開いてしまった、僕の感じでは鍵が閉まっていなかったように思う」と証言。実験によれば、戸をピタリと閉じきってしまうと鍵がうまく嵌らず、約5ミリの隙間を開ける程度に案配すると施錠ができた。
4組教室の窓はいずれも内側からねじ込み錠で施錠されていた。出入口は掛け金式の内鍵で発見時は施錠されていなかった。実験によれば、こちらも廊下側からガタガタ揺すると30秒ほどで掛け金を外すことができた。また生徒によれば4組教室の鍵は小さくて薄いうえに曲がっているので、「慣れている人でも暗くてはちょっと差し込めないと思います」と述べている。
被害者が6年4組教室に入るまでには、新校舎のカギと教室のカギの二重密室を解除せねばならなかった。しかしカギはいずれも職員室の所定の位置に残されていた。被害者は二度にわたって扉をガタガタと揺すって解錠しなければならない理由があったとでもいうのであろうか。
教室に置かれた教諭の机は荒らされた形跡なし。また机からは自筆と見られる3組担任福本に宛てたらしいラブレターの下書き便箋3枚が見つかった。
遺体の顔には薄くファンデーションが塗られており、着衣は28日と同じものを着こんでいた。身長は146センチ程で、頭髪に砂様のものが付着し、松葉が一本入り込んでいた。両目は閉じており、両眼瞼結膜に粟粒大の溢血点が確認された。口の周りに表皮剥脱、口唇部に小さな挫傷と皮下出血があった。金色ネックレスは前後が逆(繋ぎ目が正面向き)の状態で、下顎に表皮剥脱の痕があった。
両手にクリーム色の手袋をはめており、左手に血液が付着していた。格子柄コートはボタンが外れ、コートの下のチョッキの左から背にかけて血液が付いている。下半身はコートと同じ格子柄のスカートが捲れるなど着衣の乱れが認められた。陰部に被害者とは異なる7.2センチの陰毛が犯人の遺留物とみられたほか、マメ科の種子が見つかっている。外陰部は比較的綺麗な状態で、傷害の有無は不明とされた。
死体を動かすと首元と腰元から砂様のものが零れた。床には血液と失禁の染みが付いていたことから、殺害現場は4組教室と断定された。
茶色のビニール鞄の中のガマグチ財布には計190円の小銭が入っていたが、所持金額としてはやや少ない手持ちにも思われた。レースの編み袋には、紙包みの中に手付かずの折り寿司が割りばし付きで残されていた。友部駅前の寿司屋で購入されたもので日付は「11月28日付け」であった。
見立てと解剖
捜査本部では検証から、殺害現場は教室で、宿直員も騒ぎなどに気付いていなかったことから顔見知りによる単独犯行と推量した。28日(土)放課後に教室は施錠されていたと考えられ、本来ならば教室に入るために2つのカギが必要としたが、前述のとおり物理的にはカギなしでの解錠も不可能ではなかった。
犯人像としては「友部小関係者」、「前任地で交際のあった者」、「友部近辺に土地鑑のある物盗り、性犯罪者、素行不良者」が挙げられ、近郊三千戸以上のローリング作戦で一万二千人近くを対象とする大掛かりな聞き取りが行われた。
11月30日午後、司法解剖は新治協同病院大林三郎院長が執刀し、詳しい剖検書は年をまたいで1965年の1月15日の提出となった。
記者らが掴んだ情報をまとめると所見の概要は、
・被害者は肋骨複数本を折られており、抵抗して逆に犯人に押さえつけられるなどした結果とみられる
・口や顎、頸部に多数の傷があり、手掌などで圧挫した可能性がある
・瞼や肺に溢血点が多数あり、窒息死と認められる
・胃や十二指腸に食餌の痕跡なく、摂食後12時間以上経過しており、死斑、硬直状態から死亡推定時刻は28日夕方から29日朝までの間である
・膣内精液は約1ccで、死亡直前の性交はほぼ確実で事後に陰部を清拭したと思われる
というものだった。
しかしその後の捜査や逮捕者の自白などの影響により、剖検の内容は書き換えを余儀なくされた。
足取り
死亡した綿引教諭は友部町下市原の出身で、国鉄職員の夫、高校1年生の長女、小学6年生の二女と水戸市千波町舟付の戸建て住宅で暮らしていた。6畳間を知人の交通巡査Sに間借りさせており、当時は5人住まい。事件後Sは転出した。
夫によれば、11月28日(土)4時頃、夫婦は避妊具を使わずに性交をしたという。だが生体に残存する膣内精子は大半が体外に放出されるか、体内の酵素で分解されてしまい、20時間前の精子が残存していた可能性は非常に低いと考えられた。一家は6時頃に起床し、7時前に朝食を済ませた。教諭は死亡時と同じ服装を着込み、バスで水戸駅に向かい、水戸8時3分発、友部8時22分着の上り列車を使って出勤した。
彼女は事前に「29日に親類の結婚式があるから、28日は下市原の実家に泊まる」「29日はなるべく早く帰るつもりだが、向こうの都合によってはもう一晩泊まることになるかもしれない」旨を家族に伝えていた。
通勤時に同じ列車に乗り合わせた同僚によれば、普段と別段変わりない様子だったという。学校は通常の土曜であれば4時限目まであったが、この日は3時限目11時半には終了となる変則日課で、職員らは午後から笠間中学校で行われる講演会に参加することになっていた。
3時限目が終わると給食用のコッペパンが生徒に配られ、持ち帰って食べるように言い渡した。教諭は「食べられないから助けて」と言って自分のパンを児童に与えていた。
教室の戸締りは週替わりの当番制だったが、28日午後1時半頃に忘れ物を取りに来た生徒が職員室でカギを借りており、これが最後の教室施錠とみられている。
職員が昼食用にと駅前の寿司店から寿司折を4つ取り寄せており、その中のひとつを福本教諭に持たせており、それが綿引教諭の手に渡っていたことが後に判明する。捜査本部は被害者がコッペパンや寿司折に手を付けていなかったことから、最後の食事は28日に自宅でとった朝食と判断。「食後12時間以上経過」との解剖所見と照らし合わせ、当初は死亡推定時刻を28日18時から21時の間と発表した。
授業を終えた綿引教諭は、正午過ぎに町内の病院へ同僚の見舞いに訪れていた。前夜に小学校60周年創立記念行事の打ち上げの宴席があり、その帰りに5年1組担任の佐橋教諭がバイク事故を起こしていた。彼女は佐橋の妻に見舞金を渡して、程なく帰った。
12時30分頃には学校へ戻り、すぐに同僚2人と45分発のバスで講演会へと向かった。講演会はマイクの不調で聞きづらかったらしく一行は途中退席。15時頃、綿引教諭は同僚のひとりと水戸駅行きのバスに乗り込んだ。同僚は15時40分頃に石川町停留所で下車、そのあと16時頃に国鉄職員の知人が綿引教諭と水戸駅前ですれ違っており、生前最後の目撃情報となった。
上は現在の水戸付近の地図で、同僚が下車した石川町は左上の赤印、バスは西から東へ水戸市の中心街を抜けて千波湖の東に位置する水戸駅へ向かった。教諭の実家があった「舟付」の地番は残っていないが、バス停のあった駅の北口から南口へ出て、約1.5キロ南下した現在の「舟付坂上」バス停周辺とみられる。
家族関係と“取りっ子”
綿引教諭は両親と早くに死別し、親戚や兄姉に育てられた。1946(昭和21)年に女子師範学校を出た後、大原国民学校、大原中学校を経て大原小学校で教鞭を振るった(大原村は合併前に存在した友部町の一部。友部駅の北に位置する純農村地域)。48年4月に大原中の教頭をしていた親類の世話により、従兄弟の昌三さんと結婚した。
近しい人には「兄や姉はそれぞれの生活に追われて自分はあまり面倒を見てもらえなかった」「兄の戦死や事故死が重なり、嫁入り支度も碌にしてもらえなかった」と身の上を語り、「運勢が悪いのは実家の門が鬼門に当たるせいだと占いで言われた」と話したこともあった。
仲人だった親戚の土地に別宅を建ててもらって2児が生まれるまでそこに暮らし、1961年に水戸市千波の家を兄から譲り受けた。姉の家からコメの援助が受けられたため食費は多くかからず、夫婦の収入はそれぞれ手取りで約3万円とそれなりの稼ぎがあった(大卒公務員初任給が当時約2万円)。金は個別に管理し、それぞれ約30万円程の貯金があった。
夫・昌三さんの仕事は国鉄の荷扱い車掌で、連泊もあれば連休もあり、時間に不規則な仕事だった。若い頃は妻と衝突することもあったが、年を経て水戸に転居する頃には小言を言われても受け流すようになった。煙草は日に一箱、酒は飲んでもお銚子一本と決まりよく嗜む程度で、趣味も庭いじりや近くのグラウンドで野球や陸上を眺めるだけという、無口でおとなしい倹約家であった。
友部小の同僚は、彼女の口ぶりから夫婦仲はそれほど円満ではないような印象を受けていたともいう。だが娘たちから見た母親は、朗らかで勝気、憂鬱そうに沈む様子はまずなかったと言い、「2人の性格がまるで違うので夫婦仲は普通、私たちにとってはとても優しい両親です」と述べている。夜の営みが絶えていないことからすれば、おしどり夫婦とまではいかなくとも破綻するほど険悪でもなかったと想像される。
また「殺される2、3日前に、学校で大人のことは難しい、先生の間でお母さんを“取りっこ”している、と話していました」という娘の証言もあるが、“取りっこ”の具体的な内容は分かっていない。
職場関係
校長は「私的には分からないが、公的には模範教員だった」と評価し、熱意ある様子から卒業学年を任せたと述べている。6年4組担任の他、音楽部の副主任を務めており、会議での発言も活発で、いつも18時頃まで学校に残っていた。
校長の言葉に含みがあるのは、彼女が大原中学校に勤務していた当時、妻子持ちの同僚と不倫関係にあったことを聞き知っていたためである。相手男性は台湾からの引揚者で、彼女の義兄が口利きして教員になった経緯があり、家族ぐるみの付き合いがあった。そのうち男女の特別な間柄は近所でも周知の事実となり、相手の妻が中学へ押しかけたこともあった。相手が転任して関係は途切れたが、逸話はその後も付いて回った。教頭は彼女の異性関係を気に掛けていたが、赴任してからの半年余りは特に問題は見られていなかったという。
6年生のほかの担任3名は男性教諭だが、各人プライベートで飲みに行くような付き合いはなかった。だが隔週の金曜に4組の教室で学年会議が行われ、話し合いがまとまった後に親和会と称して「軽く一杯」酌み交わすというのが慣例となっていた。
同僚の女性教諭は「何事もよく気のつく人でした」と語り、夏に旅先で事故に遭って入院したとき、綿引教諭が病院に残って看病してくれたことを感謝している。
教務の男性教諭は、大原小在職時の綿引教諭を知る人物だがやや距離を置くようにしていた。というのも、職員間の派閥争いがあった折、「〇〇は教頭派」と名指しした匿名の怪文書が校長の手に渡って問題視されたことがあり、どうもその筆跡が綿引教諭のものらしかったというのである。
またその当時の出来事として、1959年頃に「時限爆弾騒ぎ」というのもあった。爆弾を仕掛けたとの連絡が入り、爆発などの実害は結局何もなくただの悪戯と思われた。だが後日、なぜか綿引教諭宛に「ああいう風なことがまた起きるぞ」と友部局消印のはがきが届いた。差出人などに思い当たる節もなく、警察に届けたが犯人は特定されなかった。
こうした風評の原因を男女関係のトラブルと見るのも軽率であろう。かつての教え子たちやその父兄など一方的に恨みを買う相手には事欠かない商売でもある。
11月27日(金) 創立60周年行事
11月28日(土) 午前のみ授業。昼過ぎに同僚をお見舞いしたあと、講演会に参加したが途中退席。
午後1時半頃、生徒が教室と新校舎出入り口を施錠。宿直は1組山地教諭。
11月29日(日) 親類の婚礼準備の予定だった。
宿直は3組福本教諭。
11月30日(月) 遺体発見。指導案の提出期限。
被害者が6年4組の教室を訪れた理由として考えられたのは、11月末が提出期限の「指導案」であった。12月上旬に県教委らによる視察が迫っており、そのとき披露する授業の見取り図となる指導案を30日午前中までに完成させていなければならなかった。
綿引教諭はこの指導案が未提出で、2科目分が書きかけの状態で教室から発見されている。11月27日(金)には60周年記念行事と夜には祝宴があり、28日(土)には午前の授業、午後には学外での講演会、さらに彼女に限っては29日(日)に親類の婚礼と予定が詰まっていた。
実際に休日返上で指導案を作成したという教諭もおり、綿引教諭も同じ目的で教室に入ったとも考えられるのだが、だとすれば宿直に声を掛けるなりして職員室にカギを取りに行くのが自然である。しかし2つのカギは職員室の所定の位置に掛けてあり、合鍵を用いた形跡もない。
疑惑の同僚
遺体発見から2日後、発見者のひとり福本教諭に関する有力情報が寄せられた。
ひとつは、福本教諭が28日午後に笠間中で行われた講演会に出席せず水戸に行っていたというもの。
また聞き込みで、28日23時半頃、建具職の男性が町内で福本らしい男を小型トラックに便乗させたというもの。その後、職人男性は「もう夜のお昼(午前0時)になっちまぁや。はあ、帰っぺ」と言って親戚宅を出たことを思い出したため、0時5分か10分頃に時刻を訂正した。後の首実検(逮捕前の面通し)でも、車に乗せたのは福本に間違いないと証言する。
地元酒店の店主は「28日夜、友部小に痩せ型の男先生らしい人が入った」との噂を耳にしており、話に聞いた男の特徴がどうやら以前学校に酒を届けたときに見掛けた福本に似ているという。後に誤解だったことが判明するが、捜査本部は28日夜に福本教諭が被害者と会っていたとの線で裏取りを進めていく。
福本本人は11月30日の最初の供述調書で、28日の行動について「笠間中の講演会に行ったがマイクの調子が悪くて会場を早く出た。笠間市内のパチンコ店で17時半まで遊び、18時の汽車で帰宅した」と述べていた。
講演会に出席した同僚らも同様のアリバイ証言をしていたが、執拗な調べが続くと「講演会の不参加を口止めされていた」と白状し、福本の虚偽が発覚。捜査本部は色めき立った。
福本一夫は友部町内の平町で36歳の妻、5歳の長女と3人暮らし。自身は前年の1963年4月から友部小に勤め、妻も同町立宍戸小の教諭をしていた。4年ほど前に結婚したが、妊娠が発覚して以後のこととされ、夫婦仲はよいとは言えず、彼は酒癖が悪いという。
勤務態度は精励で、頼み事には嫌な顔も見せずよく手伝い、器械体操を得意とし、性格はどちらかと言えば内向的で短気なところがあった。児童によれば、事件後に掃除の仕方が悪いとしてびんたを張られたり、女子も勉強のことで3人が頬を叩かれている。
父親は神官をしており、福本を土浦の師範学校へ、弟も大学へやっていることから経済的には不自由のない暮らしぶりだったとみられる。父が関西旅行をする際に旅費を援助したり、弟が帰郷した際に小遣いを渡すなど身内思いな面があった。母親は「土浦の師範に合格したのは、同じ高等科5、6人の受験者で一夫ひとりでした。親孝行で気の優しい自慢の息子」と語った。
6年2組担任の成川隆平教諭(34歳)は、福本と綿引教諭は親しげにしていたが男女関係を不審に思ったことはないという。だが事件後の福本は顔色が優れず、宿直の見回りでは木刀を手にするようになったと語る(事件後、宿直当番が二人一組とされた)。また綿引先生は何をしに教室に来ていたのかと話していたところ、福本は「指導案でもあるめえし、何かほかにあったんでは」と返したという。ほかの同僚からは、宿直時に福本がうなされていたとの話も上がった。
捜査本部は12月10日頃までに県鑑識課から被害者スカート裏地に付着した精液斑痕の血液型について知らせを受けていた。うち3個はA型、2個はAB型で、1個はA型と思量されるも確定できないと報告された。後に公判のための再鑑定が行われ、AB型を示すのは一箇所とされた。
被害者はA型、夫の昌三がB型、友部小の男性職員で唯一のAB型が福本、A型男性職員は間柄教頭、事件当夜の宿直だった6年1組担任で学年主任の山地春雄教諭(36歳)、2組担任の成川教諭の3人であった。
20日余りの捜査の結果、友部小の男性職員、前任地での交際相手、周辺での性犯罪前歴者、素行不良者ら180名がふるいにかけられ、福本と山地を除く全員がシロと判断された。
戦後の刑事訴訟法で客観的証拠なしには逮捕、起訴してはならないことが原則とされはしていたが、現場で犯人につながる遺留品や凶器といった強力な物証が出なければ、人々の証言に頼らざるを得ない。今日のように個人の同定・識別が可能なDNA型鑑定技術や防犯カメラもない当時、刑事裁判では「自白は証拠の女王」として依然として大きなウエイトを占めていた。
12月18日、事件当夜に水戸から友部方面に客を送ったタクシー運転手に再聴取が為された。当初の証言では、乗せた男女は農家風の男と若い女性工員風だったと言い、運行ルートも外れていたため、事件とつながりがないと見なされていたが、後に犯人と被害者だったとされる。何らかの誘導があったように思えてならない変遷である。
12月20日、6年生を受け持つ山地、成川、福本の3教諭は任意でポリグラフ検査を受け、その結果、山地、成川が帰された。検査で動揺の見られた福本への追及は厳しいものとなり、同日深夜、容疑否認のまま緊急逮捕された。
福本はそれまで講演会を途中で抜けて笠間市内でパチンコなどして午後6時頃に帰宅したとの証言をしていたが、午後5時過ぎに水戸市内で彼女と会ったと供述を翻した。
映画を見たあと、地下食堂で飲食し、9時半頃にタクシーに乗車した。車内で手を握られてその気になり、友部町下市原の彼女の実家近くで揃って下車。そのまま近くの裏山で情事を遂げ、実家へ送り届けた後、通りすがりの軽4輪ミゼットに便乗させてもらって自宅近くの高安自転車店で降りて歩いて帰宅したものとされる。
前述の建具屋の証言が正しければ、福本を車に乗せたのは0時過ぎで、男は勤め先の学校名まで明かして饒舌に喋りつづけたと言い、自転車店の前で降ろした時刻は0時15分頃のことという。
福本の妻は、夫は夜半になって帰宅し10分ほどで床に入ったと述べたが、正確な時刻までは記憶していなかった。だが公判の場で、寝付く前に時計の長短は直角を示していたような気がすると述べ、帰宅時刻を0時35分から40分頃と推測した。友部小に赴任して以来、そこまで帰りが遅くなったことはなかったという。
しかし捜査当局は、福本と綿引教諭の痴情のもつれを軸としつつ、以下のような筋立てをする。
タクシーを降りて、男女は裏山で体を弄り合ううち、被害者が平らな場所がいいとの理由から別の場所に移ることを提案。二人は人目を避けるために別行動で小学校へと向かった。被害者はカギを用いずに二重の密室を解錠し、福本は注意を払って職員室に忍び込み、カギを使って西側出入口から新校舎の6年4組教室へと向かった。しかしそこで痴話喧嘩がエスカレートして福本は扼殺に及び、現場を施錠しないままカギを職員室に戻して帰ったというものである。
綿引教諭の実家近くの裏山は落ち葉が堆積し、時季的に肌寒くはあったが情交を果たすには都合がよい場所とされる。屋内を望むにせよモーテルや連れ込み宿ならばともかく、徒歩20分もかけて宿直がいる職場で事を為そうという気になるベテラン教諭がいるものだろうか。背徳感に飢えた獣のようではないか。
本来ならば宿直当番は午後5時までに交代すれば問題なかったが、福本は生徒の制作発表準備を手伝うため、29日(日)は朝10時に登校して、そのまま一晩泊り、30日の事件発覚を迎えることとなる。少なくとも丸々一晩の猶予があったにも拘らず、男は遺体を教室から動かさなかったということになる。
逆転無罪
一審で被告側は、自白内容について取調の刑事による作話だとしてその任意性を争ったが、水戸地方裁判所は取調手続きに問題はなく、自白内容は真に迫ったものだと認定し、検察側の主張を概ね受け入れた。被告は教職という立場にあり道徳的・倫理的に大いに非難さるべきとしたが、被害者から情交関係をけしかけたきらいもあり、殺害という結果は本人も予期していなかった過失に近いと思量されて、11年の求刑に対して懲役3年を言い渡した。
供述の変遷、情交の事実、AB型精液痕の存在、判廷で反省や悔悟の情のない言動が判事たちの心証を左右したものとみられる。
二審・東京高裁は、原判決を破棄し、疑惑が完全に晴れたとは言えないものの有罪とするには証拠不十分のため無罪とした。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれたものの、アリバイなどで完全に疑いを排除しきれた訳でもないという「グレー」な決着であった。
死亡時期についての疑問や付着精液だけで犯行をも断定するには検討の余地が残される、と判断。また現金強取の疑いについても、日頃から生徒の支払いを立て替えるなどして不規則な出納状況であったことから被告人の所持金が被害者から奪われた金と断ずることはできないとした。
そもそも公判は検察側が有罪責任を立証する場であり、被告、弁護人が潔白を証明する必要はないのだが、被害者の夫・昌三さんは「中途半端で終わるのはやりきれない気持ち」とその決着に無念を語った。
検察側は上告を断念し、福本氏は逆転無罪が確定した。逮捕により懲戒免職とされていた氏はその後も4年半余りを県教委との話し合いに費やし、免職処分の取り消しを認めさせ、退職扱いとして恩給を受けることとなった。結果的に無罪が認められたとはいえ、事件がその後の人生に与えた影響は計り知れない。
もうひとりの同僚
『逆転無罪』の著者足立氏は福本が無実であるとの視点に立ちながら取材に当たってきた経緯から、事実と裁判的事実との間に越えがたい溝のあることをはっきりと悟らされたと総括している。客観的事実とされる物証でも作為や錯誤の入り込む余地があり、人のことばも常に真実ばかりとは限らない。
本件についても、死亡時刻を絞り込む「消化時間」に関して被害者が元々胃下垂で消化速度が人並みより遅かったとされるなど一般論と個体差の問題は現代の法医学でも残る問題であろう。死亡直前の性交の有無についても福本は既遂を主張し、検察側は未遂のまま殺害に至ったと判断した。AB型精液について福本本人のものかは技術的に断定しえず、A型とB型が混在した反応とも捉えられなくはないという。また肋骨4本の骨折についても相応の暴行があったとする自白もなく、倒れた被害者の上に犯人が覆いかぶさるようにして腹部に膝をついた際に折れた可能性が示されている。
司法解剖であっても死体から犯行のすべてが見抜ける訳でもなく、鑑定人の力量によって推定に違いが生じたり、裏付け捜査に引っ張られて変動することもある。男性の犯行とは言えてもその人相までは突きとめられないのが当時の科学技術の限界であった。
足立氏は捜査取材やポリグラフ検査、裁判記録を通じて「黒」を示す証拠や綿引教諭との不適切な交際は見当たらなかったとした上で、28日の宿直だった山地教諭の不自然さにも言及している。
6年2組担任の成川教諭の12月10日の証言によれば、「山地先生は福本、綿引両先生のやることについては別に反対せずにやっておりました」とこれまでの三者の関係に問題はなかったとしている。
一方で「山地先生ですが、職員室にお茶を飲みに来る回数が少なくなりました。冗談などをこれまで言った方なのですが、事件後はさっぱり軽口などを飛ばさなくなったのです。それに教室に引っ込みがちで、帰りを急ぎ、服の着替えが早くなりました。事件後は体育の時間に教室で過ごすようになり、顔色も優れません」とその変化を指摘する。
福本逮捕から一週間後の他の職員証言でも「新聞や世間の噂では学校内部の者だということが強くなって参り、私の考えも山地先生か福本先生の二人のどちらかの犯行ではないかと強く感じられました」と述べられており、学内でも宿直だった山地教諭への疑いは完全に払拭されていた訳ではなかった。
疑惑の第一の理由は、A型男性職員の中で犯行時刻とみられる28日深夜から29日未明にかけての明確なアリバイがないためである。
福本が綿引教諭と情事を遂げたとする深夜0時過ぎ、徒歩20分かかる小学校まで出掛けた理由があったとすれば、前述の指導案を取りに行ったか、あるいは宿直が山地教諭と知っていて何か用事があった可能性も排除できない。「実家に泊まってくる」という家族への口実も事前にその晩は男と過ごす約束があったのではないか。事の前後は定かでないが「先生の間でお母さんのことを取りっこしている」状況を自ら生じせしめ、その背徳に愉悦を覚えていたものかもしれない。
そもそも山地教諭が被害者の来訪や異変に一切気付いていないこと自体がやはりどこか不自然に思われる。たとえば綿引教諭が指導案を取りに学校に出向き、宿直だった山地教諭も手伝い等と称して一緒に教室へと向かい、やがて何がしかのトラブルが生じたと見る方がよほど自然ではなかろうか。仮に出退勤を示す木札や出勤簿の押印が犯人による偽装工作とすれば、29日宿直の福本より28日宿直の山地教諭の方がそのメリットは大きいとも言える。
スカート裏地から検出したA型を示す斑痕は、A型だった被害者の膣分泌液が反応したものだとして、犯人性を絞り込む証拠とはされなかった。だが被害者がA型だからといってA型男性の接触がなかった証明になる訳ではない。AB型の福本の他に、A型男性が精液痕を残したとも考えられるからだ。
また事件直後、山地教諭の右手薬指には血のにじんだ傷があったとされる。それだけで犯人と断定できるものではないが、被害者からの抵抗を受けて怪我を負った可能性もある。被害者の両手袋の親指と人差し指付近に付いた血痕について、警察は被害者の流血と判断したが、首にかけられた相手の手を解こうとしたときに付着したとも推測された。
さらに山地教諭の証言の移り変わりについて見ていくと、事件直後は福本と他の教諭と三人で講演会に出席したと証言していたが、12月20日のポリグラフ検査の後の取り調べに及んで「福本は突然水戸に行くからと言って、参加していたことにしておいてくれと念入りに頼まれていた」と白状した。そこには動揺と作為が隠されていはしまいか。
また28日の宿直当番で、午後6時半前後・午後8時半前後・29日午前6時40分前後の3回の巡回報告を記帳していたが、「実際には29日朝の巡回はしていなかった」と述べた。夜は職員室での作業を終え、午後9時40分頃に宿直室に入り、2度小用に立ったという。一度目は午後10時半頃、二度目は午前0時ちょっと前で、外の便所まで行くのは手間なので音楽室脇の戸を開けて石段あたりで立ち小便をしたというのだ。
12月24日の調書では、小用に立った時刻は午後10時半と11時半の二度で、音楽室脇の戸の輪錠はその都度かけていたと述べた。その間、職員室のある西側本館は全て施錠されており、「ガラスでも割らないかぎり入れません」とまで断言する。朝7時半頃に起きてからも外の便所へは行かずに廊下の手洗い場で用を足したことを明かした。
12月22日 福本、自白供述を開始
12月23日 福本、自白録音
朝刊で29日0時過ぎに福本を車に乗せた人物の証言が報じられる
12月24日 福本、弁護士と接見後に自白を翻し、殺害を否認
捜査本部、自白を開始した旨を報道陣に伝える
山地教諭、音楽室脇はその都度施錠していた、侵入は不可能と証言
記者が音楽室脇の侵入可能性を検証
12月25日 朝刊で福本一部自供の報道
山地教諭、音楽室脇の施錠に関して供述が曖昧に
足立氏の指摘によればこの12月24日にターニングポイントがあったという。20日深夜に逮捕されていた福本は「綿引教諭との情交」について明かしていたがその後は帰宅したと主張し、22日夜に至って警察の言いなりになるほかないとの心境に至り、23日には学校に忍び込んで落ち合った綿引教諭を殺害した旨の自白を録音を採取されていた。だが24日午前に弁護士と接見し、「裁判で一番大切なことは真実を述べることだ」と諭され、福本は殺害の自白供述を撤回していた。
しかし捜査本部は同夕、「逮捕以来初めて犯行の一部自供を始めた」として学校侵入があったことを仄めかしていると伝え、「殺人についてはまだ認めていない」と記者に誤った取調状況を漏らし、25日には新聞各社がその旨を報じていた。
24日夜、捜査本部のリークを受けて記者はすぐに友部小へと足を運んだという。24日の宿直は山地教諭であった。彼は音楽室脇の戸を開けて小用を二度したが、その都度輪錠を掛けていたため外部から職員室に忍び込むことはできない旨を説明した。記者は輪錠を外からは開けられないことを検証した。
すると25日になって山地教諭は、音楽室脇の戸を「施錠していたか断言できない」、今思えば「常より手応えがなかった」等とその内容を翻す供述を申告した。足立氏の推察では、24日の取り調べで「職員室には自分以外だれも立ち入れなかった」旨の証言をしたが、その夜の記者とのやりとりで福本が学校に侵入したと自供していることを知り、それに便乗しようと軌道修正したのではないかとみている。
一審でも被告人から山地教諭に激しい質疑が繰り返されたが、25日に施錠の証言を変えたのは後になって思い出したからだとしつつ、施錠の有無は確証がないとした。また手洗い場で用を足したことについて、前夜と同じく音楽室脇からであればまだ理解できるがそうしなかったのは理由はあったのかと問われても「横着した気持ちからじゃないと私考えております」と歯切れの悪い返答をしている。
今日のような科学捜査技術が確立されていれば真実が明らかにできていたかもしれない事件のひとつである。人々の生活環境の変化に伴って科学捜査の手法も進歩を遂げ、防犯カメラ記録や通信履歴からの行動解析など証拠の収集力も上がっているようにも思える。だがその反面で、山間や農村部など情報技術から隔絶された環境でスマートフォンを所持しない高齢者やこどもたちを発見するのは依然として困難を極める。またDNA型鑑定技術にしても、足利事件のような作為性、あるいは今市事件のコンタミネーション(試料汚染)のような人的ミスによって、「客観的ではない証拠」になりうる可能性が露見している。
早期逮捕、犯人への処罰を求めるのは誰しもが期待するところだが、拙速な予断は悲劇を広げかねない。裁判が騙し合いの場ではなく、真実追及の審理に生かされることを願う。
被害者のご冥福をお祈りいたします。