「群像」8月号、古井由吉「子供の行方」

 桶谷秀昭が『昭和精神史』(一九九二)だったか、その戦後編(二〇〇〇)だったかで書いていた。『きけわだつみのこえ』なんかを読むと、アメリカへの憎悪が無いことに驚く、という話である。一九四七年の出版だから当然のように思えるけれど、一九四三刊行の『近代の超克』や『世界史的立場と日本』でも、参加者はあんまりアメリカを主たる敵とは思っていない。また、こないだ書いたナターシャ・グジーの歌は、大阪大空襲の体験を語る講演会とあわせた企画だった。この講演でも、低空飛行の米軍パイロットの顔がはっきり見えたという生々しい話をしながらも、講演者は一切アメリカへの憎悪を口にしなかった。非難されるのは常に日本政府だった。いろんな理由があるだろう。私には分析はできない。とにかく、たくさんの例外はあるにせよ、戦争体験者の多くは、戦争を呪い、日本政府をなじりながらも、あまりアメリカを恨んでいない。私が空襲の体験者なら「例外」に属する発言者になると思うので、この傾向が不思議でならない。
 古井由吉は飽きることなく東京大空襲の記憶をもとに書き続けてきた。『行隠れ』や『栖』みたいのを好んできた読者としては、空襲の体験は彼の本質とは別の、生い立ちのたまたまの事情にすぎない、と思う癖が長くあった。今はこれが大きな間違いであることは認めざるをえない。「群像」八月号の「子供の行方」にも空襲の体験がつづられている。彼の多くのこの種の作品を読んで思うのは、やはりアメリカへの憎悪の無さである。彼の描く空襲は天災のようだ。それでいいんだろうか?戦争体験の深さを認めるようになってからは、これが気になるようになった。

 その時、母の胸が私の上に大きくのしかかってきて、私の体を地面に抑えつけた。空がガラス板のように細かく顫え出し、それから罅割れてザザザと崩れるように落ちてきた。母の手にじりじりと力が入り、私の顔を大きな膝の間へ押しつけていった。私は息苦しさのあまりその手を払いのけて顔を上げた。暖かく顫える暗闇が、生臭い喘ぎが私をつつんでいた。そしてその時、遠くから地を這って射しこんできた光の中で、私は鬼面のように額に縦皺を寄せた見も知らぬ女たちの顔と顔が、私の頭のすぐ上に円く集まっているのを見た。空一面にひろがって落ちてきた雪崩が、今でははっきりと一塊りの存在となって、キューンと音を立てて私たち目がけて襲いかかってきた。私をつつんで、女たちの体がきゅうっと締った。その時、私の上で、血のような叫びが起った。
「直撃を受けたら、この子を中に入れて、皆一緒に死にましょう」
 そして「皆一緒に……、死にましょう」とつぎつぎに声が答えて嗚咽に変わってゆき、円陣全体が私を中にしてうっとりと揺れ動きはじめた。

 「円陣を組む女たち」(『円陣を組む女たち』一九七〇所収)の最後である。戦争を知らない宇宙人がこれを読んだら、やはり天災の描写だと解釈するのではなかろうか。さて、「子供の行方」を読んだ古井ファンは全員が驚いてこの一節を思い出したに違いない。「子供の行方」にはこんな場面がある。

 頭上から敵の爆音にのしかかられて城の濠端を走っていた。死物狂いに駆けていたのが、背後の落下音に驚いて振り返った。振り返ったばかりに、道に焼夷弾が炸裂するのを目にした。立ちすくんだようでもう一発、もうひとつ手前に着弾するのを見た。近づいてくる。追いつめられた女たちが、疏水の排水孔だったのか、小さな水場のまわりにうずくまりこんだ。濡らした毛布のようなものをひろげて一緒にかぶった。直撃を受けたら、この子を中に入れて、もろともに死にましょう、と一人が叫ぶと、うずくまりこむ輪がじわじわと締まった。母親は姑と子供を一緒に逃がして夫の実家に踏み留まった。

 「円陣を組む女たち」のリアリズム版とでも言おうか。ここでは母と子は一緒ではない。「敵」という言葉がある。ほんとに「敵」と思って書いてるのだろうか。