『図書新聞』の書評です!

 前回のブログと重複しますが、4月28日付『図書新聞』に「シリーズ日本語の醍醐味」の2冊、坂口安吾『アンゴウ』と石川桂郎『剃刀日記』の書評が載りました。
 評者は著名なブックデザイナーの鈴木一誌氏です。
 前回「一部だけの引用は控えます」と書きましたが、図書新聞のかたから転載の許可をいただきましたので、このブログで紹介させていただきます。

「シリーズ 日本語の醍醐味」(烏有書林)を読む
無名の手わざからなる本づくりを目ざす記念すべきシリーズ
物質性の中心にある本それ自体を味わってほしいとの心意気


鈴木一誌


坂口安吾 著
●アンゴウ
12・20刊 四六判336頁 本体2200円
石川桂郎 著
●剃刀日記
12・20刊 四六判328頁 本体2200円


 二〇〇八年の創立というから新しい出版社と紹介してよいだろう、烏有(うゆう)書林から、「シリーズ 日本語の醍醐味」として、二冊の文芸書が刊行された。坂口安吾『アンゴウ』と石川桂郎(けいろう)『剃刀日記』である。

 発行元の名である「烏有」を漢和辞典で調べると、「いづくんぞ有らんや」と訓読され、「どうしてあろうか、あるはずがない」の意とある(藤堂明保編『学研漢和大辞典』)。つまりは、「全くないこと」を意味し、「烏有に帰する」などと使われる。「カラス」とも読める「烏」が、「ああ」といった感動詞としても使われる事態を、白川静は「もと烏を追う声であろう」と推測する(『字通』)。「烏有」がなぜ出版社名に選ばれたのだろうか。同社のホームページにはこうある。「ともすれば烏有となる著作を掬い上げる」「どこも出さない、商業ベースにのりにくい企画を形にする」「100年後に復刻される本を目指す」。

 四六判の上製本で仕上げられた『アンゴウ』と『剃刀日記』からは、静かな闘志が立ちのぼってくる。もちろん、糸かがりである。コート紙からなる白いカバーに白い帯と、簡素でありつつ、艶消し銀箔で刻印された題字が鈍い輝きを放つ。カバーをはずせば、しっとりとした手触りの紙クロス「ブラ」で覆われた表紙が現われ、表紙の題字と著者名がここでも銀箔で押されている。一般に、表紙はカバーに隠されて見えないから、辞書や豪華本ならばともかく、単行本では、コストのかかる箔押しは許されない。感じられるのは、カバーやオビなどを取り払い、物質性の中心にある本それ自体を味わってほしいとの心意気である。

 内部に分け入ってみよう。見返しは「タントG69」、本文用紙は、嵩高を好む風潮に背を向け、平滑性の高い「オペラクリーム」四六判ヨコ目六七・五キログラムと思う。花布(はなぎれ)と栞紐は、銀箔に調和する薄灰色が選ばれている。特殊な素材ではなく、ふつうの素材が慎重に吟味されているのだ。ふつうの単行本のようだが、「ふつうさ」のなかに強い意志が潜んでいる。本文組は、九・五ポイントの明朝体が四二字×一六行の体裁で組まれていて、これも「ふつう」なのだが、本文書体には、「技術と伝統を融合させたデジタル・フォントの到達点」とデザイナーがようやく気づきはじめた「筑紫オールド明朝」を確信をもって使っている。

 オビ文に「青い安吾がここにいる」とある『アンゴウ』は、作者の比較的若いころのおもに短編が多く集められたアンソロジーのようだ。一九四八年、四十二歳で書かれた表題作「アンゴウ」は、戦災で二児を亡くした男が、敗戦後間もなく、焼失したのと同じ本を神田の古書店で買い求める。暗号めいた数字の書かれた紙片が、ページのあいだに挟まっている。結末で明らかとなる暗号の正体が、読む者を哀切の深みに突き落とす。同年に書かれた「無毛談」も、日常と背中合わせにある生の深淵を描出する。

 『剃刀日記』は、俳人でもあった著者(一九〇九〜七五年)が、理髪業を営んでいた時期の体験をもとにした短編集である。図書館にもあまり蔵書されておらず、全体像を読みとるのがながらく困難だった作品だ。「死人の顔を一度剃ったことがあった」(「薔薇」)とあるように、読者は、剃刀の切れ味を媒介にした世界観察を味わうことになる。こんな文章もある。「神様からでもさずかる様に嫁いでくる者を、たとえ数日経たあとにもせよ店に立たせて知らない男の顔を剃らせる――考えただけでも嫌なことだと思った」(「転業半歳」)。あるいは、「薄紅梅の花びらのような唇に、そんな時涎のつゆのたまるのを見、M子の口は胃弱のひとの匂いがした」(「元旦の朝」)。

 『剃刀日記』が捉えるのは、「万人の顔形が違う様に、髪も鬚も皮膚すらも微妙なあいだで違い、こちらの技術も相応に変えてゆかなければならない」手わざの世界だ。理髪業を廃業した主人公は、「その腕が良ければいいで悪ければ悪いで、自分の理髪師としての腕が日増しにナマってゆく寂しさをひしひしと感じるのだ」(「転業半歳」)と記す。

 烏有書林の目ざすのは、無名の手わざからなる本づくりではないだろうか。じっさい、この二冊には装幀者の名前がない。ブック・デザイナーなどいなくともていねいな本ができていた活版印刷の時代を憧憬し、同時に、装幀家など不要となる未来を待望しているかのようだ。烏有書林の本にかならず挟まっている紙の栞には、「No paper, no ink, not a book」と刷られてある。電子書籍への反旗である。同社発行の高岡重蔵『欧文活字』とジャスティン・ハウズ『ジョンストンのロンドン地下鉄書体』でも、文字をめぐるドラマが味わえる。
(ブックデザイン)


(『図書新聞』2012年4月28日付、3060号)


 本を見ただけで、なぜここまで考えがわかってしまうのかと、紙の銘柄で若干のずれはありますが、それでも心の中を見透かされているようで、読んでいて少しゾッとしました。とくに「ふつうさ」のくだり。我も我もと派手に自己主張する本ではなくて、「ふつう」の本を作りたい、そう思っています。
(念のため、「装幀家など不要となる未来を待望」とは毛頭考えておりません。鈴木氏の『ページと力』は座右の書ですし、造本があまりにも美しい『生体廃墟論』は我が家の閉架図書です。装丁に関する思いは、「装丁山昧」の紹介文を読んでいただければわかっていただけると思います。)
 でも、一番感激したのは、ほとんど市中に流通していない、うちのような零細版元の本を、すべて読んでいただいていたことです。
 鈴木一誌様、改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございます。