「建前(極力削減すべし)と本音(一定量までは許容できる)」は流石に狂訳ではないか?

http://www.foocom.net/column/editor/3837/
正直、こういう「煽り」って、やっぱ新聞社勤務時代に叩き込まれたノウハウなのか、個人の思考様式にまでなっているのか「ヨウ素摂取のため、おにぎりに海苔を巻く」情報の無責任と同等のバカバカしさを感じる。

 国や県が万一に備えて安定ヨウ素剤を備えることに意味はある。しかし、おにぎりに海苔を巻いても食べても摂取できる量はごくわずかでしかない。「おにぎりに海苔を巻くだけで、子供への放射能被爆被害が軽減される」という言い方を完全否定はできないが、その効果は限りなくゼロに近い。

 なのに、避難所で懸命に炊き出しをしている人たちが「おにぎりに海苔を巻けない。子どもたちを救えない」などと思ってしまったら、これほど不幸なことはない。海苔を探して回り、貴重なガソリンを消費したり体力を消耗したり、というような事態もあってはならない

そりゃあそうだけど、売り言葉に買い言葉で、思考実験とも言えるだろうけど、さすがにハァ?じゃないですか、これは。なんというか、そこまでして自説を補強したいんですかというか、どうしてそうまでもして非科学的であることを恐れるのですかというか、まぁこういう事を言い出すと勝手に内面読んでくれてありがとうって話なのかもだけど。

敢えて超訳するための言葉遣いなのかもだけど、「「感情を抑えて、少し理性的にならなくては」」というように、「理性」という単語を使えてしまう人がする科学に対する解説を信用していいのかとか、偏見を抱いてしまうのも私的事実なのでありました。

 が、これだけ発がん性について議論していても、緊急とりまとめにおいては「今回の検討では、低線量での発がん性のリスクについての詳細な検討は行えていない」と書かざるを得ない。それは、遺伝毒性発がん性についての毒性学的な研究の評価をしていないからだ。

この「毒性学的な研究の評価」の今後は、Radioactive Contamination of Food in Japan | 食品安全委員会 - 食の安全、を科学するでも書かれているようだ。ただ、いい加減な英語の読み方をして、「健康への影響を考えずにデタラメに決めた」と勘違いした人がネットを検索してみると某掲示板に少なくとも1名はいらっしゃったということは事実のようだ。

誤解で不安を煽るのには辟易したところではあったが、やはり不安であるのは私の同じであるので、そのような誤解で不安を感じずに済むような、生の文字列だけではなく、それが意味するところまでを説明するような発表も必要なのかもしれないと少し思った。

が、もともとは知っている人向けの情報源と言えばそのとおりでもあるので、ド素人相手に1から10までいちいち説明する義理などないわけではあるが、高度に圧縮された情報に誰でも辿り着けてしまう問題についても、考慮しなければならない時代なのかなとも思いました。

両論併記は矛盾を起こしているのだろうか?

 また、同じ文書で「放射線への曝露はできるだけ少ない方がよいということは当然のことである」と書かなければならない。遺伝毒性発がん物質の閾値についてまったく検討していない以上、食品安全委員会としては、これまでの「閾値なし」仮説を踏襲し、組織としてとりまとめに盛り込まざるを得ない。

 この矛盾。だが、食品安全委員会を責めることはできない、と私は考える。
 緊急時で、毒性学的な見地からリスク評価をする時間がなかったことはよく理解できる。この問題に挑みだしたら、情報収集にも審議にも極めて長い時間を要し結論はなかなか出ない。だから、毒性学的議論はばっさり切って、「実際上の人への影響」という疫学的な見地を中心に評価をとりまとめた。それは、極めて適切な判断だと思う。ただ、それが故に、一般市民には極めて分かりにくい両論併記的な評価結果になってしまった。

放射線への曝露はできるだけ少ない方がよいということは当然のことである」という文言が書かれた経緯をどう理解するのかという問題。

正直、私には、松永さんの理解の仕方がよくわからない。毒性学的ではなく疫学的な見地から暫定的に結論を出したことが、なぜ「極めて適切な判断」と言えるのか。

松永さんの話だと、「本当は閾値ありだけど、過去の都合上閾値なしでとりあえず話を進めなければならない機関としての大人の都合があるけど、科学的な毒性学的評価を現段階では下しえないから、止む終えなく閾値なしの疫学評価を使った」から「極めて適切な判断」――と、言っているようにも思える。

だが私には「どんな学に根拠をおこうが、国民の健康を守ることが至上命題なのだから、リスクを最小化できるように素早く判断すべきだ」という話で「極めて適切な判断」というだけなように思える。もちろん、科学の領域における議論に、松永さんが言うような経緯があり、それも影響してはいるはずだが、それで話をまとめてしまっていいのだろうということについて、その妥当性がよくわからない。

正直、なんでも官僚的お役所仕事のせいにしているテンプレ批判な人と同じようないい加減さを少し感じてしまった。

科学リテラシーとは何?

科学リテラシーとは、自分の知らない分野でもベースとなる部分を元に、知らない分野も理解しようとすることだと理解している。毒性学や統計学でなんでも理解してしまおうという態度がリテラシーなのかは、よくわからない。

結局、生体内での物質の挙動なんてものは、化学物質も放射性物質と同じ確率の問題も絡んでくるのかもしれない。少なくとも、放射性物質半減期は、大数の法則による近似って言っていいのかわからないが、放射線の出るタイミングはランダムな部分がある。

サイコロの6の目が6回連続で出ても直ちには半減期に違反はしない。ということなら、運の悪いやつは半減期で想定されるより多く被爆しても不思議じゃないってことになるのではなだいだろうか。

wikipedia:半減期にあるgifアニメを見てみよう。左は4個で1箱を4つ用意。右は400個で1箱を4つ。数が多い方では4つのマスはほぼ均等に半減していくが、数の少ない方は、ややランダム。

これは物理半減期ってだけだし、生理半減期(どれだけ体から排出されるか)も勘案されるだろうし、核種によって体の土の部分に影響が出やすいかなどももちろん考慮されて現状の規制値は出来ているはずだ。


で、思ったのは、ヨウ素131による甲状腺癌の増加は容易に観察されたという話についてへの繋がり。これだってあたりまえじゃないだろうか。ヨウ素半減期は短い。つまり、結果としては均等に半減期通りに放射線は放出される。他方で、セシウムは30年。ヨウ素と比べればランダムだろうし、一人だけ10倍の発がん率を受け手も、残りの多くが1倍とかそこらなら、均されて観測しにくくもなるのではないか。


これは極端な話だけど、極端でアンラッキーな人が1人いたっておかしくはない。私は3億円を当てた人を見たことがないが、実在してはいるんだ。

といっても、たまにWHOだかのチェルノブイリ報告を中途半端に持ち出して、想定されたほど支社は出ていないとか言っているお爺ちゃんもいらっしゃるけど、半減期の長い核種による健康への影響はもっと時間が経たないと出てこないのかもしれない。時間が経てば経つだけ、放射線による影響が見えてくる以上に、死への影響が見えなくなっていくのかもしれない。みんな運が良かったのかもしれない。実は考えられていたより安全だったのかもしれない。

あと興味深かったのは、遺伝毒性の発ガン物質と放射性物質による発ガンが、同じように、同じ「閾値なし」モデルで語ることができてしまった場合、その定性とは何に由来してしまっているか。(まぁ、毒性学では、定性毒性が認められた時点で、定量毒性の方が問題にはなるのだろう。)