原賠法をめぐる議論の混乱を憂う(下)

本当は2回で完結させるつもりだったのだが、予想以上に長文化してしまったので、前々編(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110414/1302933056)・前編(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110415/1303037424)に続き、もう少し書き残しておくことにする。

最後は国が被害者を救済してくれるのか?

今回の事故をめぐる賠償責任の議論の中でも、

「東電が(免責されたり、資力的に限界に達するなどして)被害者への賠償責任を負えなくなったとしても、最後は国が補償してくれる(or 補償すべきである)

という点においては、論者の意見はほぼ共通しているように思われる。

「東電は免責されるべきだ!」という発言を繰り返す経団連の会長にしても、「国の責任において補償すべきだ」という発言を必ずセットにしていて、決して「被害者に対する賠償が不要」などという考え方はとっていない。

だが、「立法論」としてであればともかく、これが「原賠法の解釈の帰結」として唱えられている考え方だとすれば、必ずしも本来の立法趣旨に照らして適切なものとはいえないのではないか、と思う。

原賠法第16条に基づく政府の「必要な援助」が、必ずしも被害者に対する“完全なる補償”を意味しないことは前回のエントリーで説明したとおりであるが、事業者が免責される場合の原賠法第17条の解釈は、もっと微妙な問題をはらんでいるからだ。

第17条は、

「政府は、第3条第1項ただし書の場合又は第7条の2第2項の原子力損害で同項に規定する額をこえると認められるものが生じた場合においては、被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする。」

という書きぶりになっている。

「必要な措置を講じる」という文言があることから、一見すると、第16条と同様に、事業者が責めを負わない部分について国が“原賠法に基づく必要な補償”をする、という規定であるかのように読めなくもないし、自分も最初はそう思っていた。

ところが、立法当時の議論を眺めていると、実はこの規定は、そのような“優しさ”とは全く無縁の規定であることを思い知らされる。

我妻栄博士のこの第17条に対する評価は、「国の措置は冷淡」というものであり、

この部分は事業者も責任がないから国家も責任がない、そして災害救助でやる。つまり伊勢湾台風と同じに取り扱うというのです。その点非常に残念で・・・」(「座談会・原子力災害補償をめぐって」ジュリスト236号17頁(1961年))

という発言を残されているし、竹内昭夫博士も、第17条の規定について、

「具体的な「天災地変又は社会的動乱」が「異常に巨大」であると認められるか否かによって、被害者に完全な賠償が行われるか、救助しか行われないかがきまることになる。」(竹内昭夫「原子力損害二法の概要」ジュリスト236号32頁(1961年))

という解説を加えられている。

そして、このような解釈が立法当時の通説だった、ということは、近頃話題の中曽根康弘科学技術庁長官の

「第3条におきまする天災地変、動乱という場合には、国は損害賠償をしない、補償してやらないのです」

という衆議院科学技術振興対策特別委員会での答弁にも明確に現れているのである*1

我妻博士らの回顧によれば、専門部会で「超不可抗力」の「免責」について答申を書いた時点では、

「事業者が免責される場合には、国が代わって補償する」

という精神があったようだが、それが現実の立法の過程で骨抜きになり、「誰も補償しない」という制度になってしまった、ということのようだ*2

こういった考え方を前提にすれば、国が第17条に基づき一定の「措置」を取るとしても、それは、原賠法に基づく射程の広い「損害賠償」ではなく、応急的かつ最低限な「災害救助」に過ぎない、ということになろう。

そして、この考え方による限り、農家が被った営業損害や風評損害のような類のものはもちろんのこと、避難所以外での避難生活で費やした実費ですら、全額は補てんされない、ということになりそうだ。


その意味で、経団連会長の発言には“二重の過ち”が存在する、といえるわけだが、件の会長(ないしその会長に入れ知恵した事務局員なり弁護士なり)に限らず、「免責」に否定的な論者の中にも、同様の誤解をしている方は多いように思われるので*3、議論をする上では気を付けたいところである。

おわりに

以上、立法時の議論動向等を紹介しつつ、原賠法の解釈について、いろいろと講釈を並べてみた*4

自分はあくまで、従来の解釈論をベースに、「3・11」後の議論についてあれこれ指摘してきたが、立法当時の「立法者意思」が絶対的な解釈、というわけではないから、文言上無理のない範囲で、より被害者救済のために実効的な解釈を行うことができるのであれば*5、それはそれで、意味のあることだろうと思う。

かつて、原賠法制定時(あるいは改正議論時)に関与した有識者の方々が憂いていた数々の問題が、今回の事故を契機に如実に顕在化しつつある、という現実をひしひしと感じている今日この頃ではあるが*6、それは、これまで解釈上の論点が顕在化するほどの「事故」を幸運にも日本国民が味合わずにすんでいた、ということの裏返しでもある。

この法律の解釈論について激しく議論されるのが、この国にとって最初で最後、になってくれることを願いつつ、一連のエントリーを締めさせていただくこととしたい。

*1:保険による填補も、事業者負担による填補も存在しないにもかかわらず、第16条2項に相当するような規定が存在しない、という事実も、このような解釈の妥当性を裏付けているといえるだろう。

*2:それゆえ、前々回のエントリーで触れた「異常に巨大な天災地変」該当性判断も、「一層限定的に・・・判断しなければならない」(竹内昭夫・前掲32頁)という解釈が有力にもなった。

*3:「免責反対派」の主張の中で有力な地位を占めているのは、「悪いのは東電なのに、何で国民の税金が投入されないといけないのか?というものだろうから。

*4:これまでのエントリーで引用した文献は、どれも、有斐閣のHP(http://www.yuhikaku.co.jp/static/shinsai/jurist.html)上で無料公開されている。有斐閣担当者の英断により、貴重な資料の数々に触れることができたことに感謝したい。

*5:例えば、政府が原賠法上の賠償にどこまで関与するか、という点など。

*6:今回の一連のエントリーでは大きく取り上げなかったが、今回のように大規模被害が生じる事態になってくると、「紛争審査会」に関し、「(答申の内容に反して)法律になったのは答申の行政委員会の仕事のうちの一番軽易な紛争に関する仲裁という仕事だけになってしまった」(前掲・座談会25頁)、という我妻博士の問題意識(被害者が個々に裁判所に訴えることによる混乱を避けるため、強力な準司法権限を有する行政委員会が賠償を実施する、という構想が崩れてしまった)も、リアルに意識せざるを得なくなってくる。「原子力災害なんてめったに起こらないだろうから、新たに行政機関を設置する必要性は感じなかった」という当時の行政担当者の考えも、当時としては(というか今年の3月11日までは)あながち間違いではなかったのだろうが、今まさに「国家的賠償紛争」の危機に直面している現状に鑑みると、いろいろ考えさせられるところは多い。

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