若い芸術家の肖像−『ブラック・スワン』感想

(Dir. Darren Aronofsky, Black Swan, 2010. アメリカ)

芸術と生と性の葛藤を描いた凄まじい映画だった。以下、ネタバレ感想。


物語は、二ナの夢から始まる。悪魔に誘惑され、悪魔の腰に足を巻きつけて踊る夢であり、「男性に誘惑されたい」というニナの願望を表しているように見える。ここで、ニナが王子に誘惑される白鳥として、十分な素質を備えていることが分かる。


問題は、白鳥にぴったりのニナが、その圧倒的官能性で王子を誘惑する黒鳥をも演じられるか否かである。ニナを次の公演の主役に抜擢した演出家トマ・ルロワは言う。「君は白鳥としては完璧だ。問題は、官能的な黒鳥を演じられるかどうかだ」。以下では、表現者としてのニナがどのように黒鳥を踊るに至ったか、その表現はなにを目指していたのかについて考える。


管理の対象としての肉体:


映し出される彼女の生活は、簡素なものである。母親と二人暮しのアパート、稽古場に通う地下鉄、稽古場…その三つをぐるぐる循環する生活。つまり、ニナは「友人と遊ぶ」とか「食事を楽しむ」といった、人生の愉しみをまったく排除した生活を送っている。


二ナの母親は彼女をそれはそれは甲斐甲斐しく世話している。すでに20代後半であろうニナを、12歳の娘のように扱っている。ニナは前々から自傷癖があり拒食症気味で、それを鋭く見抜いたルロワからは「自己破壊的」(self-destructive)と言われる。どうやらずっと昔から無意識のうちに背中を引っかく自傷癖があるらしく、そのせいもあり母親に監視されている。


ニナが激しく背中を引っ掻いていることに気づいた母親は、バスルームで彼女の爪を「パチン、パチン」と切る。その音が母親と二人でバレエ靴を手入れする際に鳴る鋏の「パチン、パチン」という音に重なる。この去勢するような切断の音は、母親の理想のバレリーナとなるためにすべてをコントロールされる二ナの生活を表している。彼女は母親によってきめ細かに手入れされ、刈り込まれる花壇の花のような植物的生活を送っているのである。


ニナも自らの肉体を徹底的な管理の対象と見なしており、爪にできた逆剥けを見ると、きちんとするまで剥がさずにはおられない。しかし、ほっといたらどこまで自分を傷つけるか分からない二ナの自傷癖は、どうにもコントロールをできない部分を持ちたいという無意識の表れなのかもしれない。


女たちの顔:

かつてのプリマドンナ、べス(演じるのはウィノナ・ライダー)の病室を訪ねると、憔悴しきった表情でベッドに寝る彼女の姿が二ナの目に映る。病室のべスは、口を半開きにし、頬はこけ、顔色は土気色で、死にかけのゾンビのような表情に見える。重要なのは、それが二ナの目に映ったべスであり、あくまでも二ナの主観での見え方であるということだ。


また、母親の部屋一面にはバレリーナの写真が貼られているのだが、ニナが部屋を覗くと、それがアウトサイダー・アートのような絵柄になり、ひくひくと引きつった笑い顔を見せる。暗い部屋で二ナの帰りを待っていた母親の顔が、病室のべスそっくりのゾンビのような表情に見えることもある。


母親もベスも、バレエを失うことにより、人生の喜びから除外された、ゾンビのような不気味な存在として、二ナの目には映っているのだ。彼女たちのようになることへの恐怖は、暗にニナの行動に影響を与えているように思える。彼女たちのようにならないように、ニナは自らの芸術を完成させることに固執するのではないだろうか。


ニナは誰を殺したのか:

ニナは自分の相手役の男性ダンサーが、舞台袖で若い妖艶なライバル、リリーに股間を撫でられているのを目撃する。嫌悪感にかられるニナ。黒鳥のメイク・衣装に変わるため、楽屋に帰ったニナを待っていたのは、黒いアイライナーを引きながら妖艶に微笑むリリー。「代わりましょうか?私の番よ(It's my turn.)」と言う。

激昂したニナは、リリーを壁に打ちつけ、そこに掛かっていた鏡を砕く。床の上で揉み合ううちに、相手の顔はリリーそっくりの表情を浮かべたニナ自身に変わっている。ニナは鏡の破片を握り締め、その邪悪な表情を浮かべたもう一人の自分の腹に突き刺す。ニナは黒い自分を壁に打ちつけると同時に、壁に掛かっていた鏡を砕き(両者の破壊が同時に行われたことが重要だ)、精神的に解放される。

「君の障害となっているのは、君自身だ(The only person standing in your way is you)」というルロワの言葉どおり、自らを抑圧していた彼女は、自分を鏡に打ちつけることにより、自己の殻を破る。鏡の中の自分を殺すことで、自らの新しい側面を誕生させるのである。その成果はすぐに黒鳥となって舞台に現れる。


ブラック・スワンは何だったのか:

ニナが演じたブラック・スワンは、ルロワが望んでいたような挑発的で官能的な黒鳥ではない。それは演じた自分さえも破壊せずにはおれない狂気の踊りである。*1「完璧さを感じた」と、ルロワに言い残してニナは死ぬ。一夜限りの上演で、おそらくは伝説となりながら。


『ピアニスト』との類似:

観ながら思い出していたのは、ミヒャエル・ハネケの『ピアニスト』だった。この映画のヒロインは、母と同じベッドで寝て、40代まで処女を貫いたピアノ教師であり、同じくステージ・ママの母親の夢を強要されている。*2やっと何歳も年下の教え子とのセックスで処女を失うものの、縄で縛られたり叩かれなくては感じないほどの冷感症になっていた。その教え子が同い年の彼女と笑いながら走り去っていく場面を目にしたこの芸術家も、ラストシーン、物凄い形相で短剣を自分の体に突き刺す。

ブラック・スワン』のニナも、「処女ではない」と言いながら、セックスそのものに魅力を感じられず、冷感症めいた女性である。彼女がオーガズムに達するのは、マスターベーションしているときのみである。ルロワ先生から誘惑者となるための手ほどきを受けるが、最後まで男性の誘惑者となることは拒否している。おそらく、彼女は芸術による表現を完成させることほどには、人生や伴侶との関係に魅力を感じていないということなのだ。このことは、彼女の表現に深みや情感をもたらさない原因として、ルロワに激しく非難されることとなる。


芸術と人生の対立:

ルロワもリリーも、役作りに悩むニナに、「少しは人生を楽しめ(Live a little)」と言う。ルロワはニナに突然キスや愛撫をすることにより自分を解放することを教えようとするし、リリーもクラブに連れ出したりドラッグを勧めることで思いつめているニナに気晴らしをさせようとする。

一方練習の鬼であるニナは、初日前夜も練習場に残りリハーサルを続ける。伴奏のピアニストは突然伴奏を中断し、「俺にだって人生はあるんだ(I got a life)」と言ってニナを置いて帰ってしまう。

二ナの周りの人間はみな、人生と芸術のバランスをうまく取るようニナに教えようとしているだけなのだが、それは、芸術よりも人生を選んでいるようにニナには見えてしまう。ニナは最後まで「芸術表現は人生における豊かな経験に立脚すべきだ」という意見に同意することができない。というか「なぜ芸術が芸術として成立してはならないのか」と、「人生>>>>>>>>芸術」という図式に反抗しているように見える。

舞台上で白鳥→黒鳥→白鳥として最高のパフォーマンスをしたあと、「感じたわ…完璧…完璧だったわ(I felt it...Perfect...It was perfect)」とルロワに言い、ニナは満足そうな笑顔を浮かべる。

「技術は完璧だが湧き上がる感情が感じられない」*3と言った振付家に対し、「技術を磨いた自分の演じ方は正しかった。なぜなら完璧な技術によって"感じる"ことができたのだから」と言っているのである。

「人生を楽しめ」と言った人間に対し、「人生なんてなくても芸術の力により完璧な満足感を得られる」と言うこと、それは、人生に対する芸術の勝利宣言にほかならない。*4「完璧さを感じたい」、自らの芸術の極みを感じたいというのは、正しく芸術家の態度だと言わざるをえない。

これは「私の芸術は、現実のいかなる実体験にも立脚(従属)していない」もしくは「私の芸術は、現実の実感や実体験を参照せずとも成立しうる」という言明のようにも考えられる。*5

私はここに、二ナの芸術家としての意地を感じた。

*1:黒鳥を踊っているときの二ナの目は赤く狂気に満ちており、その黒い翼はスワンというより烏のようで禍々しい。

*2:母親との関係が近すぎる娘がだんだん狂っていく映画としては、ほかにも『キャリー』がある。

*3:うろ覚えだが、ルロワはニナに「私が求めているのは"完璧さ"(perfection)じゃない。自分を超えろ。自分を不意打ちするんだ(Transcend. Surprise yourself.)」とも言っていた。ルロワの言う自己の超越は確かになされたのだけども、それはニナ流の完璧さを求めるやり方でなされたというのが、最後の"It was perfect."という台詞からは分かるのである。

*4:そのような理想の芸術を追い求める芸術至上主義的生き方が危険極まりないものであることは、ニナ自身の腹に突き刺さった鏡(理想の象徴)の破片で表現されている。自己目的的な芸術は、演者の人生を破壊するほど強烈な願望となりうることをうまく表していると思った。

*5:その証拠に、ニナはルロワとの関係に「芸術に深みを出すための」恋愛感情を持ち込もうとはしない。ニナはルロワの助言や挑発に対し、決してベスのように激昂しようとはしない。