情報の海の漂流者

web上をさまよいつつ気になったことをつぶやいています。

むしろ中国嫁日記というタイトルの方が誠実なのでは?

こちらの話題について。


つまり、いま我々が生きているのは、「50Pのカラー漫画を読んで(脳が)疲れる読者には配慮するけれども、"嫁"という言葉に引っかかって(精神が)疲れる読者のことは顧慮しない社会」ということです。それを例えば、「それは、気にする人の数の多寡のためだろう」で済ませてしまうことには大きな危険があると思います。


「中国嫁の差別性」によせて - The cape of an island

という話について
個人的には、あのタイトルはむしろ、嫁という言葉に引っかかって(精神が)疲れる人にとって誠実なんじゃないかなと思っています。


中国嫁という言葉が引っかかる人は、本文で描かれている内容について、更に強い引っかかりを覚える可能性が高いと考えられます。
タイトルだけよりも、本文まで読んでしまうほうが精神の疲れ方は激しそうです。
であるならば、本文を読む前に「そういうもの」であると予測することが可能か否か、というのは割と大きなポイントになります。


タイトルが「中国出身配偶者日記」であった場合、「そういうものである」と気が付かずに、本文を読んで不意打ちを食らう可能性があります。


タイトルが中国嫁日記であった場合、「そういう作品じゃないかな」と事前に予測することができ、嫌な人は、覚悟して読むか、読まずにスルーするかを選択することができます。


どちらが良いと思うかは個人の価値観によって異なると思いますが、「中国嫁日記」というタイトルの場合はタイトル自体が一種のゾーニングとして機能しており、「嫁という言葉に引っかかって(精神が)疲れる」人が読者になる前に回避可能な余地を与えていると考えられます。
その点で、「中国出身配偶者日記」よりも(嫁という言葉に引っかかって(精神が)疲れる)人にとって)誠実と言えるのではないかと僕は思うのです。