発売前にラジオでかかった部分(1番のみ)をエアチェックしたものを、もう46億回聴いています。

 

10月31日発売のアンジュルムの新曲「46億年LOVEの話です。

 

林田健司の作曲、鈴木俊介の編曲も超素晴らしいんですけど、児玉雨子の歌詞が最高という話をします。(すみませんずっとよびすてです)

 

 

追記: 上記はこの記事を書き始めたときのもので、MV公開されたので2番以降も書きました。

1番の部分をすでに読んでいただいた方はがんばってスクロールして2番まで飛ばしてください。

 

46億回再生目指しましょう。

 

 

※あくまで個人の感想ですので、ご了承の上お読みください。

 

歌詞:青色大文字

 

「『一生守る』とすぐに誓うけど、あなたの一生って何度目?」

口先で安易にデカいこと言う何もできないヤツ(多分男)を牽制するような歌い出し。カッコいい。

「一生守る」とか、なんか彼女とか出来るとイキって言っちゃう男の気持ちもわからなくないけど、でもそこが引っ掛かったんですね児玉雨子は。「なんで守られなきゃいけないの?」とか、「なんで自分の一生をあなたの保護のもとで生きていかなきゃいけないの?」とか反発したのでしょう。

ただ、一方それだけじゃなくて、「そうじゃないでしょ?あなたの私への気持ちはそんな軽々しい言葉じゃ表せないはず」という気持ちもあるんだと思うんです。

 

となると「じゃあなんであなたは私への気持ちについて、そんなおかしな表現をするの?」という疑問が沸き上がって来たんじゃないかと。これを疑問①として置いておきます。

 

普通だと「一生守るっていうけど、それ人生で何回(何人に)言ってきたの?」とかになると思うんですけど、そのトーンを残しつつ「あなたの『一生』って何度目?」にすることで、過去にその「守る」関係性が終わるたびお前は死んで来たのか、という皮肉も含まれてて凄くクール。

このアイロニカルで切れ味するどい感じの児玉雨子大好き。

 

あとここで提示されている重要なテーマのひとつ。それは「時間」。

「一生守る」と言われた場合、それって期間にしてせいぜい50年とかですよね。

これ覚えといてください。

 

「『好き』なら割と言えるもんだけど 『ぎゅっとしてよ』ちょっと恥ずかしい」

この歌詞超好き。

もちろん「あの人に好きって言えないよ〜」という「恥ずかしさ」もあります(そういうハロプロ曲も好物です)けど、ここはその話じゃなくて。

 

「好き」を言うだけなら、(実は)簡単!っていうことなんだと思うんです。なぜならそれは「自分の意志」だけでも完結出来るから。

相手が全然その気じゃなくても、曖昧な反応しかなくても、自分で「言う」だけならできるんです。

「好き!」と言って、反応が「おう…」だけでも、何となく成立するんです雰囲気で。

でも一方、「ぎゅっとしてよ」は「相手の行動」を「自分が強要する」(しかも擬音で)ということなんですよね。

「ぎゅっとして!」に対して、「おう…」だけだと成立しないんですよね。拒否されるorハグしてもらえるの二択しかない。これ拒否られると恥ずかしい。だって擬音まで使ったのに!

 

で、ここでは「お互い好きなはずなのに、なんでこれ言うの恥ずかしいのよ?」って疑問に思ったはずなんです。これが疑問②。

 

「目が回っちゃうくらいに忙しい日々 白黒淀んだこのグレーなシティ」

ここの視点が急にミクロになる部分が、実はサビの解放感の前フリとして超重要なんですよね。

ネタバレですけど、この後視点が「46億年」・「宇宙」規模に飛ぶんですよ。

その前フリとしての忙しい日々(数分、数時間、数日単位!)灰色の街(視点はグラウンドレベル!)

関係ないけど「グレー(GREY)」の発音がGLAYなの気になる。

 

そしてまた思うわけです。「なんでこんな忙しいの?淀んでるの?」。疑問③。

 

「今朝は駅前で何人とすれ違ったかな…」

この部分も、サビの前フリとして重要。

「駅前」というグラウンドレベル視点をキープしつつ「たくさんの人がいる」ということに触れるんです。

ここで重要なのは「すれ違って」いること。つまり群衆と私はお互いに関心がない状態。

一方、「あなた」とは違う!お互い好きあってる!はず!

 

ここでまた冒頭に立ち返ってみて思うのです。

「私」にとって、この「無関心な街や群衆」「あなた」との違いは何か?と。

そして、その違いは「愛があるか」ということなのでは?と気付くんだと思うんです。だってそういう歌だから(身も蓋もない)。

 

となると、「じゃあなぜ『愛がある』はずの『あなた』との関係の中において、疑問①や疑問②のような事態が起きるのか」という疑問がさらに湧いてきて、

そこからその答えとして、「愛の重要性をお互いにちゃんと認識できてなかった」ということにも到達したのではないかと!!!

 

※「」の定義は超難しいからここでは掘らないけど、ざっくり「相手を思い、相手のことを受け止める気持ち」のようなものだと思うと読みやすいかと思います。

 

「来てよ!優しい愛の時代 女も男もみな人類」

ここからサビ(©岡崎体育)

そう、気づくのです。

 

愛があれば/愛の重要性を認識していれば…

 

(Aメロ:疑問①)なぜ安易な言葉を? 愛の(愛を伝える)重要性を認識してなかった

                        ⇒認識すれば、本当の気持ちをちゃんとした言葉で伝えようとするはず!

 

(Aメロ:疑問②)なぜ「ぎゅっとして」言い出せない?相手も自分のことを愛していると信じ切れないから恥ずかしい!

                                  ⇒ お互いに愛があることを信じれば、 恥ずかしがらずに言えるはず!

 

(Bメロ:疑問③)なぜ疲弊する・淀む?愛がないと、相手を人とは思わず(思われず)互いに擦り減らし合うことに!

                          ⇒ 愛があれば、皆人類お互いにもっと優しくなれて、疲れずに明るく過ごせるはず!

 

この全部一気に解決出来るやん!!!!来てよ!!!愛の時代!!!

 

あと「来てよ!」のワードチョイスが絶妙だと思うんです。

来ること期待しつつも、他力本願でなく、自分の意志と力でも手に入れようと踏み出す感じ。「来いよ!」だとNEWS「恋のABO」になっちゃうし。

そして「優しい愛の時代」。「時代」というと数十年単位ですかね。

ここでBメロの「忙しい日々」から少しだけ時間規模が広がったことに気付いたでしょうか。まだまだ広がるぜ。

その次の「女も男も皆人類」は「だけれど僕らは地球人」に通じるところがありますね。あと「女も男も」の順番、良き。

ここ最近いろいろと見かける「分断ではなく、協働を」というテーマとも共鳴します。

 

「歴史に名を残す前に アツい電話くれなきゃ無理 無理」

これはつんく♂の名作、モーニング娘。'14「What is LOVE?」で言うところの「たった一人を納得させられないで 世界中口説けるの?」に通じますね。でもここで「そうしてくれなきゃ無理!」と言い切るところが最高に良い!児玉雨子最高!

同じく児玉雨子作詞のつばきファクトリー「今夜だけ浮かれたかった」の「このまま帰るの いや、いや…」もそうですが、この「最後のところでワガママを言う」ことができてしまうのが児玉雨子の強みなんじゃないかと。

ざっくりな印象ですが、つんく♂や三浦徳子の場合、「男(も女も)しっかりしよう!ちゃんと愛さなきゃね!」的なほうに行くことが多いんじゃないかと思うんです。これもこれで好きなんですが、「ワガママ」的ワードチョイスが生み出す「突破力」みたいなものが、児玉雨子の凄さの一つなんじゃないかと。だって聴いてて「ドキッ」とするでしょ。ゾクゾクしません?私はします。

しかも序盤は「ぎゅっとして」っていうのも恥ずかしがってたのにですよ?それが「熱い電話くれなきゃ無理!」って!

 

そして「歴史」。またまた時間規模視点で見てみると、「歴史に名を残す」人はせいぜい数十年~数百年。中には数千年の人もいるかな、ぐらいですね。だんだんと広がってきました。

 

あとは「電話」。トークアプリやSNSの時代に、あえて「電話」。これちょっと最初は違和感あったんですけど、

・「LINEして」→軽すぎて論外

・「会いに来て」→「ぎゅっとして」を言うのも躊躇う人にしては、ちょっと要求しすぎ?

とか考えてたら気づきました。

・「電話して」→「思い」を「言葉」にして「納得させて」という意味ではないか、と。

あと「電話」だとそれこそ「ハグ」とか「キス」等の身体表現で誤魔化せないですよね。ちゃんと自分の考えをその場で考えて口に出して相手に伝えないといけない(↔トークアプリだと文章を推敲出来る)=愛がないと出来ない!

と考えた結果、「強い気持ち・強い愛」を嘘無く、ありのまま、加工無しで、真っすぐに伝えて!=「電話」がベストメディアということなんじゃないか、と!!!

 

「I say ノってこう 結局はラブでしょ」

「ノっていこう」は、児玉雨子の作詞デビュー曲「カリーナノッテ」とかけてたりして…とかね。

自分が初めて児玉雨子を見たのは2013年。コピンクスについては無限に語りたいことがあるのですが簡潔に纏めると、児玉雨子の作詞デビュー曲はハロプロ研修生(現Juice=Juice)宮本佳林の「コピンク*」名義のソロ曲「カリーナノッテ」。その宮本がデビューに伴い番組を卒業するに際し開催されたライブイベントに児玉雨子が現れ、宮本に泣きながら卒業証書を読み上げ、渡していました。あそこで沼落ちしました。その後も、コピンクス関連のイベント(清水、阿佐ヶ谷、有明…)に行くたびに、児玉雨子が軒並みならぬ思い入れをコピンクに、そして「カリーナノッテ」に注いでいる姿を(勝手に)見てきました。なので児玉雨子が「ノッテ」っていうと敏感に反応しちゃうコピンクス厨なんです。ゆるして。今夜だけ古参児玉雨子ヲタぶりたかった。

話を戻すと、この曲の最強パンチライン「結局はLOVEでしょ」。

そうなんです。もうここまでで十分お分かりいただけたかと思いますが、結局は「LOVE」なんです。

「LOVE」がないと、「一生守る」とかテキトーなこと言っちゃうし、「ぎゅっとして」も言い出せないし、「忙しい日々」も「灰色の街」も生き抜けないし、「熱い電話」もできないんです。

「LOVE」がないと無理なんです!

 

「地球回る 宇宙もDance Dance ノってこう 大きなラブでしょ」

もう真理に気づいてしまったからには、テンション爆上げで話は大きくなる一方ですよ!

さっきまで「駅前」とか「シティ」とか言ってたのに、「地球」「宇宙」になっちゃった!物凄い視点移動!そして解放感!

そしてさっきまで「ぎゅっとしてっていうの恥ずかしい」と言っていた人が「宇宙もDANCE!」とか言いだした。

これがLOVEの力…!なのかはわからないけれど、でも視点が広がると思考も大胆になる、っていうのは何となくわかる気がする。それが「大きなLOVE」ということなのかも。

そもそもさっきまで「目が回っちゃう」とか言ってたのが、「地球回る」ですからね。回転する球体の大きさ!!!!でかくなりすぎ!!!

そして「DANCE」。突然の踊り。しかも「宇宙でDANCE」とか「宇宙でLa Ta Ta」とかじゃなくて「宇宙もDANCE」。宇宙が踊ってる!あと地球の回転もDANCEってことだね!

この辺になるともう理屈じゃないトンチキの世界に入ってくるんだけど、それでもなんか宇宙が踊ってる=宇宙が愛で満たされてるような感覚になりますね。愛がない状態では誰もノリノリのダンスってできないですもんね。

地球が回ってるのも、宇宙が存在してるのも、ノリノリでダンスしてるようなもので、結局LOVEでしょ、という。なんかそういう風に思えてきた。

 

「愛は超える 46億年」

サビの最後はこの素晴らしいフレーズ。これまでの時間規模の総決算なんです。

一生(=50年くらい)」→「日々(=数時間、数日)」→「時代(数十年)」→「歴史(数百年・数千年)」と触れてきましたけど、つまるところ「愛」が大事で、それはこんな時間規模じゃなく、地球の歴史(46億年)も超えるんです!という。

だってそうじゃないですか。愛があって、地球もダンスしてて、宇宙もダンスしてるんですから、少なくとも愛は地球の歴史は超えてるわけでしょうよ!

 

つまり!!簡単にまとめると

 

相手がイキって口にした「一生守る」という安易な言葉から始まった「あなたとの関係」とか「時間」にまつわる思考が、「生活・暮らし」や「他人」への関心を経て、「優しい愛(の時代)」の重要性への認識につながり、「結局はLOVE」という大きな気付きをエンジンに、気持ち(視点)が一気に地球を飛び出し、宇宙規模へ!という

 

そういう素晴らしい歌です。

 

なお、元ネタを明かしておくと、自分がこの「時間規模」や「空間規模」のズームインズームアウトが好きなのは、明らかに小沢健二「ぼくらが旅に出る理由」の影響です。

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↑ここまでがラジオでオンエアされてた1番を聴きまくった感想。

 

↓以降がMV公開後に2番から後も聴いた感想です。

 

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10月12日夕刻、突如待ちに待ったMVが公開。

トンチキなCGエフェクト、謎の振り付け、そして可愛すぎるメンバーたち、そしてなにより素晴らしい2番以降の歌詞に感動しっぱなしで、週末もずっと聴いています。

 

もういっちょ!2番以降も歌詞が本当に素晴らしい!!!

 

見ていきましょう。

 

「生き残り続けられたとして 行き着く先はどこなの?」

1番では、愛について考え、「人生」や「歴史」からスタートして、「宇宙」そして「46億年(を超える)」という壮大な過去と、その上にある現在に思いを馳せましたよね。

そこで一度「結局はラブ」という小結論を出したわけですけど、とたんに次の疑問が浮かんでくるんです。「じゃあこれから先の未来はどうなるの?」と。「今大切なのはラブだと気づいたけど、じゃあそれでこれから先どうするの?」ってことですよね。まさに愛だけじゃメシは食えない。「ただ愛し合う気持ちだけじゃどうにもならないことも知ったよ(SMAP「君と僕の6か月」)」ですよ。

すごい冷や水のぶっかけ方ですよね。だって1番のサビで「いぇーい!46億年!LOVE!デェンスデェンス!」ってさんざん盛り上げといて、「で?どうすんの?」って!我を忘れて踊った分、逆に本当に心配になるという、児玉雨子の素晴らしい「問題意識」の届け方。「楽しさ」と「課題意識」がセットになっている、だからこそ本当の心に届くという。

そうなんです。2番からは「未来」の話なんです。本当に児玉雨子が考えていること、伝えずにいられないことはじつはここから先にあるんです。

あと「生き残り」と「行き着く」で頭韻踏んでるのも神。

 

「真夜中って無性にさみしくて 早く寝るのも怖いわ」

嵐の名曲「瞳の中のGalaxy」にとても良い歌詞があります。「夜って恋のためにあるのかな」。

そう、「夜」「ラブ」の時間であり、「ダンス」の時間です。うれしいたのしい大好き。でもそれと同時に、「夜」は「ラブ」が足りない反転して寂しくなるのです。夜寝るときって、楽しくて疲れて寝るほど幸せなことはなくて、なにか気がかりや不安があって、それでも「寝なきゃ」って思う時ってうまく寝れないし、なんか余計なこと考えて怖くなるの超分かりますよね。

2番冒頭で冷や水ぶっかけて、不安で少しソウルジェムが濁りはじめたところで、「寂しい」「怖い」という不安ワードを重ねてくることで、よりこちらのフィーバーした頭を冷静に戻すと同時に、愛の偉大さを逆説的に唱えるというテクニック。

さらにさらに、「じゃあ夜ってなんで訪れるの?」と考えてみると、まぁ「どっちかの夜は昼間」なわけで、それは「地球回る」からなんです。ここでも1番のサビの「地球回る宇宙もDance」の余韻を引用して、シームレスに話題をつないでいるわけですね。本当に考えられていると思います。

 

「誰も彼もきっとちがう同士 わかんなくても当然ダイバーシティ」

1番のBメロ「駅前ですれ違う人々とはお互いに無関心」の発展がここできます。お互いに無関心ですれ違っていた人たちとも「ラブ」な未来を過ごすにはどうしたらよいのだろう、という疑問です。

ここで出てくるのが「ダイバーシティ」。(「グレーなシティ」と「ダイバーシティ」で韻踏み。素晴らしいですね。)「ダイバーシティ」、つまり「多様性」。正確な定義は他に任せますが、色々な人がいるということを受け入れ、組み込んでいくことで、生産性を上げたり、安定性を高めたりして、より良い社会を作ろう、という考え方ですね。長くなったので以下はグレーアウト。

この「ダイバーシティ/多様性」って、日本でも大分言葉は定着してきたと思うんです。一方で、ぶっちゃけこの概念が社会に本当に浸透しているとは言い難いと思うんです。会社や学校で「ダイバーシティ」について話す機会や、講演などがあっても、「とはいえ利益が優先でしょ」とか「自分には関係ない」って心の中で思ってる人が一定数(組織によっては大半)いるんだと思うんです(「コンプライアンス」とかでも似たような現象起きてると思う)。転じて、児玉雨子は「ダイバーシティ」の重要さをみんなにちゃんと知ってほしいと思ってるのでは、と感じます。ダイバーシティは「多数派」にはあまり響かない議論です。多数派に属して、ある程度人生のレールの行く先が見えていると感じている人には、「無駄」に見えるし、「人はそれぞれ違う」と言われても「当たり前じゃん、で?」と思うものです。そんな人たちにとっては社会に受け入れられない人たちを「自己責任でしょ」と切り捨てるのが一番楽ちんです。しかし、人は誰でも簡単に「多数派」から漏れます。思いもよらないことで、時には自分ではどうしようもない理由で弾き出されたりします。そんな時に人生も終了になるような世の中がラブなわけない。そんなの「優しい愛の時代」じゃない!どんな人でも(それは自分かもしれないし、あなたかもしれない!)社会に受け入れられて、活躍出来るチャンスがあるべきじゃないか、と。その想像力(あるいは体験)を持っている人は、きっと「多様性」が自分にとっても重要であることが分かると思います。他人にとって社会がどう見えているか、自分の見え方とはどう違うか、と想像し考えることが、自分の将来において社会と対峙するときのヒントになるのではないか、と。

纏めると、

・「ダイバーシティ」は「他人の生き方についての想像力という形の『LOVE』」で、「優しい愛の時代」を実現するために重要な考え方。

・一方「ダイバーシティ」を軽視する人にとっては「誰も彼も違う」のは当たり前=今更「多様性」とか言われてもそれが何の役に立つのかわからないと思われている。

 

わかんなくても当然ダイバーシティ」は、

・表面的には「軽視する人たち」の言い分「ダイバーシティなんて(全員違うなんて当然すぎてそれを取り立てて騒ぐ)訳わかんねえ」とも読める

・一方、ダイバーシティの真髄である「人はひとりひとり違うのだから、他人が自分と違うのは当たり前=そのうえで他人に対する想像力(ラブ)を持とう」というところに触れている

という二層構造の難しいところなので、Promotion Editの英詞翻訳も苦労したと思われますw

 

あと、ダイバーシティって言い換えると要は「十人十色」なわけで、今年の春ツアーのタイトルかつ、「46億年LOVE」と両A面の「タデ食う虫もLike it!」の歌いだしの歌詞ともリンクしてますね。すごいよ!

 

「傷ついたら『傷ついたよ』と 伝えられたら」

「伝えられたら」を歌う笠原桃奈さんが超かわいい話だけでも相当書きたいですが、それはさておき。

じゃあ「愛の時代」に来て欲しい私たちは、ダイバーシティを大事にして、そのうえで何をするべきか、という(もうこのどんどん課題発見⇒出来ることを探すという児玉雨子の姿勢に感動&共感する)。

さっきダイバーシティを「他人への想像力」みたいなものが大事じゃないか、って言ったものの、結局それが大事って言って思ってるだけだと、「他人に期待してるだけ」になっちゃうし、何も変わらないんですよね。恐ろしいくて虚しいじゃないですか。ということで自らアクションを起こしましょう!ということだと。

もちろん「『好きなものは好き!』と言える気持ち抱きしめてたい©マッキー」ですけど、それもありつつ「嫌なことは嫌!」と言っていこうよ、という行動の起こし方を提言してるんですね。

「伝えられたら」っていうことは、現状「あんま伝えられてない」わけですよね。きっと「嫌と伝える」⇒「空気が悪くなる」「相手が気を悪くする」とかで黙っているほうがベターな選択になってしまっている。でも「傷ついたと伝える=傷つかないように変えていく」ほうが絶対良いですよね。自分の我慢の上で成立するような、そんな社会なんてクソくらえ!じゃないですか。

こんなこと言うとクソリプおじさんとかが「そんなエゴは求めていない!まわり(ヲタ)が求めていることをやるべきだ!」とか言ってきそうですけど、そんなものに耳を貸している暇はないですよね。人生は一度きりですから(このあたりで「あなたの一生って何度目?」がジワジワ効いてきますね)。1番でも出てきた「児玉雨子のワガママ突破力~未来編~」って感じですかね。脱!良い子ちゃん宣言!最高!!

アンジュルムの活動姿勢にも通じるところがあると思います。特にあやちょの表現に対する意識(含む美術)や、勝田さんをはじめとするメンバーのファッションの見せ方などは、単なる「ファンのため」や「ヲタ受け」以上に、「自分が良いと信じているものを伝えること」を意識的に行っていると思います。あと迷惑ヲタ芸(ジャンプとか)にも「嫌」と伝えるアンジュ大好き。

 

つまり2番AメロBメロでは、「生き続けて行き着く先は?」に対して「ラブが無いと怖い」「周りへの創造力がラブ」と思いを巡らせつつ、「周りを慮るばかりではなく、自分の思いを口に出すことで…」まで来ました。

 

さあ、自分の思いを口に出して、どうするのか!それはサビの歌詞だ!

 

「作ろう!まばゆい愛の時代」

どうするか?そう!作るんです!まばゆい愛の時代を!2番頭から未来に対する課題意識と、それを自分が変わることで変えていこうとする思いが芽生えたあとの決意表明!それが「まばゆい愛の時代」と表現されてるわけですね。

1番では「来てよ!」でしたが、もう期待してるだけじゃ飽き足らない!「作ろう!」ですよ。時代を作ろう!ですよ。じだ!いを!つく!ろお!

どんな世の中が来て欲しいかを考えたところで、結局「他人任せ」じゃ意味がない!自分でやらなきゃ!ということですよね。

 

どうしても触れたいので、tofubeatsが今月出した新作の超素晴らしいインタビューを貼ります。

tofubeatsは児玉雨子の3歳年上(二人とも平成生まれ)で、やはり「自分」が関わる「社会」について「時代のせい」や「他人任せ」ではなく、自分で変えていく意識を持っています。ぜひご一読を⇒ tofubeatsが「他人任せ」から「自分でやる」に変わったこの3年(cinra.net)

 

「それしかないよ実際問題」

言い切っちゃった!強い!それしかない!

自分もさすがに「いや、それしかない」は言い過ぎじゃない?と一瞬思ったものの、でも思いなおしました。いくら「ダイバーシティ」だ「嫌と伝えたい」だ思っても、結局それを自分で実現しないと、まったく意味がないんですよね。実現しないと、またきっと空気ばっか読んで、気づけば他人の食い物にされて、嫌な思いも口に出せなくなっちゃって、社会からはじき出されちゃう。だからもうそれしかない。まばゆい愛の時代を作るしかないと思うわけです。

 

「夢に見てた自分じゃなくても 真っ当に暮らしていく 今どき」

ここめっちゃ抉られません?「昔、理想として思い描いてた通りの人生じゃないけど、納得して生きている」という話は昼間の伊集院光のラジオのゲストコーナーとか、歌詞とかでけっこう聴きますけど、「真っ当に暮らしていく」という普通に見えるパワーワード。

一瞬「え?時代を作るとか地球回るとか言ってたのに、急になんか普通の話してない?」って思ったものの、その浅はかさに顔面蒼白になりました。

「真っ当に暮らしていく」。「真っ当にに暮らす」。簡単じゃないですよね(重み)。真っ当に暮らすためには、ただ生きるだけじゃなくて、「生活」しないといけなくて。それは毎日のものだから、やっぱり無理がきかない。

そしてやっぱり「傷ついたら傷ついたと伝えられる」ような環境で、多様性を受け入れて、「ぎゅっとしてよ」って素直に言えるような相手がいて、、、と…。簡単じゃない!

やはり「真っ当に暮らしていく」には、「まばゆい愛の時代」を作るカクゴを持って、自分自身行動していかなければいけない!!!それしかないよ!!!

 

しかもそれをアンジュルムが歌うわけです。我らヲタクがアンジュルム様と対峙するときは、YouTube画面であれ日本武道館であれ、つかの間の非日常空間に居るわけです。その空間では圧倒的な幸福を授けていただき、その間、暮らしを忘れるわけです。でも間違いなくその時間空間は我々の普段の生活の上にあるわけです。だからアンジュルムを応援するためにも、やっぱり真っ当に暮らしていかなきゃいけないよね、とか考えるわけです。

 

ついでにもう一つ触れると、小沢健二「流動体について」のパンチライン「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」も似たことを言っていて。大分表現が高尚な感じするけども、要は「意思(考え)を強く持つと、それは言葉(=発言)につながる。発言は行動につながり、それはやがて都市(社会、生きる空間)を変える、と同じことを言ってます。

 

「もういっちょ!ノってこう 結局はラブでしょ 地球回る宇宙もDance Dance ノってこう!大きなラブでしょ 愛は超える46億年」

もういっちょ!以外は歌詞は1番と同じですが、「結局はラブ」の説得力はさらに増す一方ですよ…。未来への課題と決意で頭がパンパンなのに、踊らされる。改めて過去46億年という壮大な歴史の上に立っていることを意識すると、今後自分たちで未来を作ろうとしていることがとんでもなく大きな仕事の様に思えてもくる

でも結局それも出発点は「自分」で、大事なのは「ラブ」なんだ、と思える、とダンスしながら思うのです。

 

(間奏)

 

「もしも争いのない未来 誰かが耐えてたら意味ない」

2番で未来に思いをはせて、現在の自分が何をするべきか、「まばゆい愛の時代」を作ると決意したわけですが、ちょっとした間奏の間、児玉雨子は自分たちが変えていった先の未来のことを考えていたんですね。

 

そこでこのフレーズです。「争いのない未来」って、一見誰が見ても最高の世界に思えますけど、「全体的な結果だけみて、良しとするなよ」「思考停止するなよ」という警告ですね。「意味ない」っていう言葉も強くて最高ですね。そもそも「全体的に良い結果」って誰が「良い」って決めてるんだよ、っていうね。

そうそう、この「誰かが耐えてたら」って、もともとは「私が何かに耐えてたら幸せじゃない」ってことなんですけど、ここに2番の「ダイバーシティ=他人へのLOVE・想像力」を代入していくことで、「たとえ争いがなくて、(仮に私がその時幸せでも)他の誰かが苦しんでいたとしたら、LOVEじゃない・愛の時代じゃない」という、広がりが生まれてるんですよね。すごい。すごいよ。

 

そう考えると何より大事なのは、「誰が良いと決めるか」や「誰かが耐えてたら意味ない」ということから見えてくる、各個人が「時代(未来)を作る」のことを「自分自身」のこととして、思考、決断、行動していくことが歌われているな、と思うんですよ。当たり前かもしれないけど、やっぱり簡単じゃないですよね。

 

あと「誰かの(=みんなの)未来」のことを話しているのに、ちゃんと自分の問題意識から出てきてることが伝わる構成になってるの凄い。

例えば「世界では争いが絶えない!やめよう!」とか「きっと悲しい人がたくさん居る!みんな幸せになろう!」みたいなふんわりとした主語で未来を語るのではなく、自分を中心(=「あなた」との関係や、街での暮らし)にしているから、そこから視点がいくらズームアウトして宇宙規模になっても、再びズームインしたときにも、ちゃんと自分に戻るという。

 

「夢に見てた自分じゃなくても 真っ当に暮らしていく 今どき」

上記を受けて、改めて「真っ当」に生きることの大事さ、難しさが身に沁みますね。

 

「ラスト!ノってこう 結局はラブでしょ 地球回る宇宙もDance Dance ノってこう!大きなラブでしょ 愛は超える46億年」

「ラスト!」の祝祭感と寂寥感がマジでハンパねえ!多くの方が指摘されているように「泡沫サタデーナイト!」のあと58秒にも通じる、楽しさからくる寂しさ。「祭りのあとの寂しさ」の前借りですよ。

ほんでもう「結局はラブ」だし「46億年を超える」ね。でもこうやって自分たちが未来を作り続けていけば、いつかこれが47億年とかにつながっていくのかな、とか考えると怖くなったり、楽しくなったりしますね。

 

まとめ!

 

現在の「あなた」との関係や、忙しい日々のミクロ視点を起点に、大事なことは「LOVE」だと気づいて、壮大な過去(46億年)や無限大の宇宙に思考が飛んでDANCEしたものの(1番)、

じゃあこれから我々はどう生きるかということを考えて、「他人への想像力」や「自分が変わること」で「愛の時代を作る」べきだと気づき、壮大な歴史と無限大の宇宙でDANCEして(2番)、

さらに我々が作った未来が本当に良いかどうかを、それぞれが「自分自身」として考えていかなきゃいけないよね(落ちサビ)と指針を置いたうえで、やっぱりDANCE!

 

という歌ですね。やっぱり2番の歌詞が本当に重要。いま自分としても考えたいことだし。

なにより、こういう愛だの恋だのだけじゃない、未来についての歌詞を児玉雨子が書いていて、アンジュルムがめちゃくちゃ可愛く楽しく(ここが何よりも重要!!)歌うということが本当に素晴らしい。幸せ。

 

締め方が分からなくなったので、自分のツイートを引用して終わります。


児玉雨子がアンジュルム「46億年LOVE」に込めたのは「未来への希望」で 「希望」は「Hope / Wish」であり「Request / Demand」でもあると思う。