16世紀の異端審問と禁書目録 Findlen and Marcus, "Science under Inquisition: Heresy and Knowledge in Catholic Reformation Rome"

  • Paula Findlen and Hannah Marcus, "Science under Inquisition: Heresy and Knowledge in Catholic Reformation Rome: Essay Review of Catholic Church and modern science: documents from the archives of the Roman congregations of the Holy Office and the index, vol. 1, ed. Ugo Baldini and Leen Spruit," Isis 103 (2012): 376–82.

 検邪聖省と目録委員会に残された文書から科学と宗教の関係に関する重要文書をすべて転写し注釈をつけ、索引により整理しようというプロジェクトがあります。このレビューが扱っているのはそのうちの16世紀を扱う第1巻となります。1542年から1600年にかけて自然探究に携わる知識人のうちで、検邪聖省に取り調べられたのは12人です。そのうち処刑判決がくだされたのは2人。ジョルダーノ・ブルーノは実際に殺され、Guglielmo Grataroliはイタリアを離れることで処刑を回避しました。またカルダーノ(1571)、ブルーノ(1599)、ガリレオの3人は自説の撤回を求められています。この数の少なさからは、自然哲学者が完全な異端とみなされることが非常に稀であったことがわかります。実際、アルドロヴァンディは検邪聖省に嫌疑をかけられたもののボローニャ大司教の庇護のもとで禁書目録に登録された本も読める状態にありました。カルダーノも審判ののち大学の教授職に復帰しています。

 目録委員会によって1600年までに著作を調査された自然哲学書の著者は76人です。1559年に定められた最初の禁書目録の目的は、異端的な著者や異端的考えを含む著作を断罪することでした。そのなかには占星術関係の著作が含まれていました。ここからカトリックの教えに反しない種類の占星術を生み出そうという努力がなされるようになりました。一方、1600年にいたるまでは目録作成に携わる者たちは太陽中心主義に大きな関心を払っていませんでした。コペルニクスの『天球回転論』が問題となったのは、それがレティクスというルター派の人物の『第一解説』を含んでいたからでした。

 16世紀も終わり頃になってから太陽中心説への疑念が表面化します。イエズス会士のBenedetto Giustinianiはパトリッツィのピュタゴラスコペルニクス説への執着を危険視していました。1616年コペルニクスの著作の禁書目録へ追加されたとき、その決定に参与したのがこのGiustinianiでした。とはいえ1596年にStigliolaが地動説を唱えたかどで非難されたときもローマの宗教裁判所は重要性を認めず彼を釈放しました。このことはその直後にブルーノが処刑されたさいも、その主たる理由は彼の太陽中心説ではなく、むしろ過激な神学であったことを強く示唆します。

 しかし確かに16世紀の末から教会が太陽中心説への警戒感を強めはじめることは事実です。それにはアリストテレスの自然哲学への批判の高まりと、逆にアリストテレス主義の側にアリストテレス哲学を異教的な作法で解釈しようとするようなクレモニーニのような人物が現れたことへの対応でした。そのためたとえばテレージオの新しい哲学も批判されることになります。

 目録の作成は信仰を危険にさらすことなく知識を前進させたいという望みのうえになされていました。そのためたとえばカルダーノ、フックス、ゲスナー、Amatus Lusitanus, テオドール・ツヴィンガー、セバスティアン・ミュンツァーのような有用と考えられた書物については、しばしば特別に読む許可を与えて欲しい、ないしは目録から外して欲しいという要望が寄せられました。どの本についてどのような形で読書を制限するかについては目録委員会のなかでも多様な声がありました。カトリック教会が一枚岩に目録により著述家たちに制限を加えていたと考えることはできません。