映画「ドラえもん のび太の宝島」

 保育園時代のパパ・ママ友たちの好意で、映画「ドラえもん のび太の宝島」を親子で観た。
 シリーズでは歴代最高の動員数という。

映画ドラえもん のび太の宝島 歴代最高の428万人動員 興収48億8000万円


 人気アニメ「ドラえもん」(テレビ朝日系)の劇場版最新作「映画ドラえもん のび太の宝島」(今井一暁監督)が、3月3日の公開から37日間で動員数が428万人を突破し劇場版「ドラえもん」史上、過去最高の記録となったことが9日、分かった。4月8日までの動員は約428万2000人、興行収入は約48億8000万円を記録するなど大ヒットしている。これまでの最高は、1989年3月公開の「映画ドラえもん のび太の日本誕生」の約420万人だった。

https://mainichi.jp/articles/20180409/dyo/00m/200/015000c


 実は「ドラえもん のび太のひみつ道具博物館」(2013年)以来毎年観ているが、今年は本当にダメだった。その点はつれあいとも一致した。*1


 ネットには感想がすでにたくさん出ている。

ドラえもん のび太の宝島 酷評注意 ネタバレあり|MOJIの映画レビューhttps://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

『映画ドラえもん のび太の宝島』感想 動きに魅力が多い分、脚本には突っ込みどころも…… ネタバレあり - 物語る亀
http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima


 この2つに共通しているのは、物語のドライブになっている問題が解決されていないという指摘である。

最大の問題はやはり、敵の設定。
敵が行おうとしていて、ドラえもんたちが止めようとする「悪いこと」がまったく意味不明で、何が何だかさっぱりわからないこと。

宝島と思われたのは実は未来からやって来た海賊船で、いろんな時代の海から宝物を集めて回っているんですね。
その船長のシルバーは実は、のび太たちが出会って一緒に冒険する少年フロックと少女セーラの父親で、元科学者。奥さんも科学者で、地球からエネルギーを取り出す研究をしていたが、過労で死んでしまった。彼は奥さんの研究を完成しようとするが、地球が滅亡する未来を見てしまったため、人々を宇宙へ脱出させるために海賊船で地球のエネルギーを吸い取っている。

この設定が、あまりにも意味不明なんですよ。
地球が滅亡するから宇宙へ脱出するけど、宇宙へ脱出するためには、地球が滅亡しなければならない?
じゃあ、宇宙へ脱出するのをやめればいいんじゃないの?

https://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

主「いや、すっごい単純なことなんだけれどさ……結局何も解決していなんだよね、この作品って」
カエル「……え? 親子の仲は元に戻ってハッピーエンドだったじゃない?」
主「いや、だからさ……その前に地球が滅んでしまうからってことであんな大それた計画を実行したわけでしょ?
 だけれど、そっちの方面に関しては何1つとして解決していないんだよね。
 すごく無理矢理ハッピーエンド感を出しているんだけれど、でも地球は滅びることは回避していない」
カエル「う〜ん……まあ、確かにそうなのかも……」
主「それに、お話が壮大すぎてついていけないところがあるよね。
 じゃあシルバーは一体何をしようとしていたのか?
 なぜそれをしようとしていたのか?

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

 これに対して、いや解決しているよ、と指摘するブログもある。

ドラえもん映画「のび太の宝島」の感想!考察するほど秀逸さが分かる! | BLOGSTAR
https://mypace-life.com/?p=2827

・・・ここで1点おや?と思うことが。
このままじゃ、悲惨な未来は回避できないよね?ということです。シルバーとフロックとセーラ、3人でほっこりしてる場合じゃないじゃん!という声が、レビューなどでもちらほら書かれていました。
ですが、私は心配無用だと思います。
その理由は「シルバーもフロックも超一流のメカニックになったから」です。しかも家族関係が元に戻ったことによって、2人はこの先協力することができます。
悲惨な未来を回避すべき技術を、これから2人で開発していくのです。
シルバーが「未来の地球の悲惨な姿」を見た時点では、シルバーのメカニック技術は素人レベルでした。もちろん、フロックにも技術が備わってない頃です。
しかし、それがきっかけでシルバーは研究に打ち込み腕を上げていきましたし、フロックも結果的に優秀なメカニックになりました。
なので、仮に映画のラストの時点でもう一度未来の地球の姿を見たとしたら、きっと良い未来になっていると思います。未来が変わったということです。
のび太の宝島」ではこんな風に、『本当に大切なことに目を向けて行動すれば未来は変えられる』というメッセージを放っていると思います。

https://mypace-life.com/?p=2827


 解決したか・していないかは議論の余地があるかもしれない。
 しかし、「地球を滅亡から救う」という物語の推進動機がしっかり作られておらずに、とってつけた感じが否めないのである。性急な説明で終わってしまっているのだ。
 性急な説明で終わってしまっているというのは、地球の滅亡とこの家族(シルバー一家)の物語を絡めてしまっているから。盛りすぎなのである。


 地球が滅亡する、というのを例えば昨今の環境問題への意識と関連させて子どもたちへの道徳的なメッセージにしたいという欲望。それと家族や親子への愛情、そして子どもが未来への進路を選ぶ際の清い動機にさせたいという欲望。そういうものが不純に絡まり合って、( ;∀;) イイハナシダナーにしようという欲望が透けて見えるのである。


 こういう感想が出てくるのはむべなるかな、と言わざるを得ない。
 「地球の滅亡」って……こう……もっと……ドタバタであるべきじゃないのか?
 それこそ藤子・F・不二雄モジャ公』には「地球最後の日」が出てくる。オットーという宇宙人がインチキ予言師になりすまし、はじめはバカにしていた人たちが次第に信じ、世界中が大恐慌に見舞われていく。
 逃げようとする人の群れが自動車事故を起こし、エッフェル塔から自殺者が雨のように降り、争っていた南北ベトナムが逃げるロケットをよこせと米軍に共同デモをかけたり。
 ここには「未来は変えられる」だの「親子の情愛」だの「地球を救おう」だの、説教くさいメッセージはない。
 子どもの心に原初的な不安を与え、最後は痛快な救済劇を用意していたのが『モジャ公』だった。


 今述べたことに含まれるけど、親子の愛情みたいな話もそうである。
 いや、別に親子の愛情の話が出てきてもいい。
 だが、無理に入れ込むな、と言いたい。
 つれあいは、映画の最初にのび太とパパがケンカするシーンがあり(夏休みに宝島探検に行きたいというのび太の要求をママが反対し、パパも一旦同意しかけるが「宿題が終わってから」という現実的な条件をつけてしまい、ケンカをする)、そのエピソードになんの深みも、共感もできないということを言っていた。ゆえに、ラストでのび太たちが出会うシルバー親子の相克と、のび太のび太パパとのケンカをタブらせようとしても、あまりダブらない。

メインとなるべきストーリーがこれほどグダグダなのに、それを収拾しようとせずに、終盤はやたらと感動させようとする方向ばかりに向かいます。それが正直、ウザかった。
お母さんの死の回想や、父と子の確執や涙の和解をこれでもかと強調する。
のび太たちも、「地球が大変なことになる! それはさておき、親と子がいがみ合うなんてダメだよ!」終始こんな調子。
なんていうか、ストーリーの辻褄なんてどうでもいいと思ってることが透けて見えるんですよね。そんなことより、泣ければいいんだろ、と。

https://ameblo.jp/moji-taro/entry-12359190883.html

 そもそもシルバーが人が変わったように家族を顧みない「仕事人間」になったのは、地球滅亡という妻の遺したテーマを解決するためであって、それで家族のことがおろそかになったならしょうがねえだろ、とぼくなどは思ってしまうクチである。例えば犯罪とか富とかそういうもののために心変わりしたというなら話は別だけど。
 地球滅亡と家族との時間を天秤にかけたら、そりゃあ「多少の犠牲」もやむを得んわな。
 いや……もしポリティカル・コレクトネスを貫き通すとすれば、子どもが放置されていいはずないので、そこは「働き方改革」をして、シルバーが全部背負い込むんじゃなくて、仕事ふれよ。チームでやって定時に帰れよ。

 
 映画が始まった時、確かに、のび太ジャイアンたちの体がよく伸びる、伸縮自在に動き回るね、とは思った。そこをこのアニメの美点としてあげる人もいる。

これは今井監督がインタビューでも語っているけれど、動きが今回とんでもなくいい!

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

カエル「序盤からグリグリ動くし、その1つ1つがため息が出るほどに楽しいんだよね。子供たちのいる中で『この作画……ヤベェ』と呟いている、どっちがヤバイんだかわからないような状態になっていたし……」

主「それは別にいいんだよ!

 いつも語るけれど子供向け映画を魅せるというのは実は難しいことでもある。爆発や血みどろの描写で引き込むという選択肢は、基本的にはできないからだ。特にドラえもんのような幼児も鑑賞対象に入る映画は、あまり暴力的なことはできない。

 だけれど、今作はそのような暴力的だったり、派手なものではなくて動きだけで魅了する非常に『楽しい』ドラえもんに仕上がっている」

http://blog.monogatarukame.net/entry/nobita-takarajima

 だけど、それは何かの目的のために必要な効果なのであって、別に体がよく動くからといって、このアニメに躍動性を感じることはなかった。ぐにゃぐにゃ動いたからなんだというのだ。


 親子の愛情を入れ込もうとするありきたりさに始まり、ジャイアンスネ夫にからかわれるそのからかわれ方のステロタイプ、「冒険ごっこ」のために秘密道具を使って徹底して安全に進行しようとする技術思想、「海賊」の隊列や女ボスの類型的な描き方、セーラとしずかが笑って打ち解け合うシーンの平凡さ……そういうものにイライラしてうんざりした。
 それらはこの間のドラえもんの映画になかったわけではないのだが、ギャグが面白かったり、推進力となるストーリーに説得力があったり、それだけのことでそれらは帳消しになったり、また、逆に作品の良さに奉仕するものに反転したりした。今回はそれがなかった。一つ一つが次第に積み重なって、ぼくをイラつかせることになった。

*1:娘は「前作の『のび太の南極カチコチ大冒険』ほどよくはないが、それなりに楽しめた」派。