蔑視的なデモと蔑視的なマスコミ

こちらの記事に便乗して書く。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101017/p1


東京で、中国に抗議する、右派による3000人ぐらいのデモがあったそうで、これがマスコミでほとんど取り上げられなかったことが一部で話題になっている。
日本のマスコミではデモというもの、とりわけ政治的な色が濃いとみなされるデモの扱いが異様なほどに低いことは分かっているので、この「スルー」には、とりあえずそれほどの違和感はない。
実際たとえば、イラクでの戦争(攻撃)が始まる前に行われた大規模なデモ(当時はパレードという言い方もされたが)も、非常に小さい扱いしかされなかった。
なぜ低い扱いしかされないのかということは、よく分からないけど、終戦直後とか安保闘争の時とか、わりあいマスコミに好意的に扱われた時期もあるようにも見えるけど、それでも基本的には国の体制とか天皇制とか(そういったものの別名として「民主主義」という語が使われる場合がある)、そういう大枠の部分に反するような政治的行動は、無視と言うよりも監視されたり抑圧されたり貶められたりする対象であり続けてきたのだろうと思う。
そういう体質みたいなものが、近年はとりわけ露骨になってきたということだろう。


現在の中国での反日デモの扱いを見ても、そういう日本のマスコミの体質、それは日本の社会の体質でもあるけれど、非常によく示されてると思う。
日本のマスコミ(日本社会)にとっては、自分たちがそこに所属することで安定している(日本と国際社会の)体制を揺るがすような政治行動や、それを行う人間たちは、どこの国のものであっても、非難か蔑視、もしくは警戒の対象でしかないのだ。
だからそれは、情緒に流されるままに反日・愛国を叫んで暴れまわる者たち、あるいは政府による情報操作に踊らされるか、もしくは「官製デモ」に動員される、民度の低い合理的主体性を持たない人々として表象される。
これは、植民地統治していた時代に宗主国の人が植民地の人間に対して向けた眼差しと同じものであり、また封建的なあるいは前近代的な社会で支配的な層の人たちが民衆に向けた眼差しとも同質のものだろう(今の日本も、大体そういう社会だ。)。


また、たしかにそこには、「反日」という言葉に集約された、自分たち(日本という国と社会)の現実の姿、他者の目に映ったそれを直視したくないという心情も働いているだろう。それを見つめることは、体制にまったく服属して生きている自分たちの情けない姿を見ることにもなってしまうからだ。
反日」という言葉から、愛国教育だのなんだので形成された表皮の部分(日本のマスコミや知識人には、そこしか理解できないのだろうが)だけを取り除いて見つめてみれば、自分に直に関わっているはずの他人の声や叫びが感じ取れるはずだが、なるべくそれを否認したいという気持ちが、マスコミとそれを享受するぼくたちの意識を覆っているのだ。


中国の民衆の声が、日本のマスコミで好意的に扱われるのは、それが自分たち(報じる側、報道を享受する側)の安定を脅かさない、つまりは資本主義(短絡的に民主主義とも呼ばれる)とか日本国とかを批判することにつながらない場合だけだが、それは多くの場合、自分たちの立場を正当化する手段として、それらが賛美されたりするわけである。
自分の所属している体制、歴史的にも現在でも、相手の国の人々を圧迫している自国の体制への批判という狭い回路を通して、相手の国の真の民主化に連帯の手を差し伸べようとする日本の人が極めて少ないのは、自分が戦っていないことについて他人と連帯するのは不可能なのだから、無理はないと言うべきだろう。


話がそれてしまったが、東京の反中国デモはなぜマスコミにスルーされたか、ということである。
このデモの規模は最近では、まあ大きい方だろうし、反日デモなど中国がらみのニュースが連日大きく報じられているなかだから、そうは言っても、もう少し報じられていい気もする。
Apemanさんの言われるように、『「もしあんなデモ報道しちゃったら、“噴き上がっている中国VS冷静な日本”という図式が台無しじゃないか!」』という発想は、たしかにあると思う。
「中国人=理性的でない、民主化されてない体制の人たち」VS「日本人=理性的であり、民主化されてるが故にデモなどという非理性的行動に駆り立てられない人たち」という二分法、分断的言説が危うくなりかねない。
それに、日本にもナショナリズムというより排外的なデモをする人間は少なからずいることがバレて、「野蛮=非理性的・非民主的な国」だというイメージを世界に与えかねない。中国を刺激するだけでなく、批判の材料を与えることになるかもしれない。そんな心配もあるだろう。


単純に言って、中国で反日デモが広がっているというニュースを日本国内で流すのは、日本人の被害者意識を強めることで政治的効果がありそうだが、日本で反中デモが行われたという報道は、日本で流しても中国で流されても、現状ではあまりよい効果は期待できない。そういう判断がされていて不思議はない。
ともかく、反中デモは行われ、それはほとんど報じられなかった。
こんなデモは最悪だが、それが報じられなかったことも、好意的に報じられるよりはましかもしれないが、やはり悪いことだと思う。
参加者の中には、このデモが整然と行われたことを自賛する人もいるらしいが、そういう発想こそ、デモのような民衆的行為に対する蔑視的・(自己)抑圧的な考えの表れだと思うし、当然ながら中国の民衆や日本で反体制的なデモを行おうとする人たちと、同じ人間同士の位置に立つことを頑なに拒もうとしていることを示している。
このデモは、そもそもその仕方ではなく主張の内容によって醜悪なのだが、さらにその「整然とした」仕方によって、なおさら醜悪(差別的・抑圧的・排外的)なのである。
そして、そういう醜悪さ、暴力的・差別的な思想と行動、それらは自分たちと自分たちの社会の明白な(しかも重要な)実像であるはずだが、報道しないことでそれを否認しようとする姿勢は、それに劣らず抑圧的で欺瞞的だ。
それら報道機関が、沖縄の基地や朝鮮学校の無償化問題など、さまざまな事柄について、実際には平然と差別の片棒を担ぐような報道を行っている、むしろこのデモの参加者などよりも差別社会の張本人といえる立場にあるだけに(ぼくたちも同様なのだが)、その欺瞞性は覆うべくもないのである。