今日入手した本

橋本治義太夫を聴こう」

義太夫を聴こう

義太夫を聴こう

 おそらく「浄瑠璃を読もう」の姉妹編ということになるのだろう。わたくしは歌舞伎を観ず(生まれてから観たのは2回だけ)、人形浄瑠璃は観たこともない。それでも「浄瑠璃を読もう」はとても面白かったので、義太夫を観たことも聴いたこともないわたくしでも面白いのではないかと買ってきた。
 巻末近くの鶴澤寛也という「女流義太夫三味線弾き」さんとの対談だけしか読んでいないが、面白い。
 橋本:今の人は不幸になると「心が折れる」といって、前後関係なしに不幸。心って千歳飴みたいに棒になっているわけじゃないんだもの。・・心はもっとジェル状のものだから。・・義太夫は「無駄死にでした」ということはあまりやらない。
 治さんは「今の人」ではないのである。
 
中井久夫の臨床作法」
中井久夫の臨床作法 (こころの科学増刊)

中井久夫の臨床作法 (こころの科学増刊)

 雑誌の増刊号のような体裁で、単行本ではないのかもしれない。
 患者さんをみるときの姿勢というか態度というかについて一番教えられてきたのは中井氏の著作からであったような気がする。はじめて中井氏のことを知ったのがいつであるのかもう思い出せないけれど、あるいは「吉田健一頌」におさめられた丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」で中井氏の論が紹介されていたのが、その名前を知った最初であるかもしれない。そうすると1990年ごろ、今からもう25年ほど前のことである。
 中井氏の本は30〜40冊もっていると思う。なかでも一冊ということになれば、「西欧精神医学背景史」かなと思う。読んだかたはみなさんそう感じるのではないかと思うが、呆然とするしかないような大きな構えで構想されたとんでもない本である。たとえばその「6 魔女狩りという現象」という章だけ読んでも、「治療する老婆の文化」「西欧の権力は森になじまないものだった」「森と平野の境」「無垢なる少女の神話」「ゲーテの「ファウスト」が今日までヨーロッパの知識人にくり返し読まれているのは、いわばこの書がゲーテ自身の精神の遍歴であると同時に、近代への転機におけるヨーロッパ知識人の集団的自叙伝とでもいうべき含みがあるからではなかろうか」など、いまなお記憶に残っている言葉がちりばめられている。
 今のフォルクスワーゲンの問題、また昨今のヨーロッパ知識人の一部が示すドイツへの警戒感や恐怖感といったものをみると、すぐに本書を思い出して、フランス=平野、ドイツ=森という連想が働いてしまう。
 「西欧精神医学背景史」はみすずライブラリーの一冊としても刊行されているが、東京大学出版会の「分裂病と人類」にも収載されていて、そこには「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」も収められているが、これまた凄い論で、なかでも「執着気質の歴史的背景」は『働く日本人』を考えるときには必読の論であると思う。ここでの二宮尊徳の像からも実にいろいろなことを教えられた。
 本書にはさまざまな人の、中井久夫「私の三冊」というのがあるが、「精神精神医学背景史」や「分裂病と人類」をそのうちの一冊に挙げているかたが多い。
 それで自分の三冊を考えてみた。1)「分裂病と人類」(「西欧精神医学背景史」)、2)「看護のための精神医学」 3)「臨床瑣談」。
 「臨床瑣談」は「みすず」に連載されていたものだが、そのうちの「丸山ワクチン」についての章が大きな話題を呼び、連載途中で緊急的に出版されたものと記憶している。丸山ワクチンの入手法が具体的かつ詳細に書かれていたことが大きかったのだと思う。多くの臨床家は丸山ワクチンの効果については否定的に思っているのではないかと思うが、それでもこれが大きな関心を集めたのは、丸山ワクチンが患者あるいは家族にとっての中井氏のいう「希望の処方」になっていたからではないかと思う。この丸山ワクチンについての章ばかりでなく、「昏睡からのサルヴェージ作業の試み」「ガンを持つ友人知人への私的助言」の章もわたくしには大変面白かった。
 もしも、医療(看護)というものが「穴居家族の母親が、小川の水で病気の子供の頭を冷やしたり、あるいは戦争で置き去りにされた負傷者のわきに一握りの食べ物を置いた、はるか遠い過去に起源がある」(オスラーの講演の中の言葉(梶井昭『医学の歴史』講談社学術文庫より・・ここにも「森の中での医学のはじまり」という章がある。))のだとしたら、医療は本来、母性的なものである。しかし医療が職業行為として成立してくると職業というもの自体が男のもの父性的なものであったので、医療そのものが父性的で権威的なものとなっていった。しかし、起源からはもともと母性的である医療の部分が看護として分かれていった、というのが非常に大まかな医療の歴史ではないかと思う。
 女性であっても医師はどこか父性的であることは避けられないし,男性であっても看護師はどこか母性的たらざるをえないところがあると思う。看護の仕事をしているひとは医師とは対等とはどうしても思えず、その下で働くという感覚が拭えないという話を多くきく。母性が父性に従属するなどといったら(そもそも父性や母性という言葉自体が)フェミニズムの陣営の逆鱗にふれることは承知しているが、進化の歴史の上に生きているわれわれは、意識ではそれを拭おうとしても意識しないところではそれを拭いきれないところが、どうしても残ってしまうのだと思う。
 中井氏の臨床への姿勢は、臨床の行為においてあたうる限り「父性的」な色を消していくというものだと思う。だからこそ「看護のための精神医学」のような本が書ける。「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。」 狭い意味ので医療のできることは限られている。しかし患者と一緒にいることだけはいつでもできる。中井氏のいっていることは患者の上にいる臨床ではなく、患者とともにいる臨床ということではないかと思う。