知られていない意外な日本のよさ

私はベトナムに来て2年が経過した。いろいろ経験してみて、昨今の新興国ブームにも落とし穴があると感じるようになった。

日本にあって新興国にないものは何だろうか?

公共性に対する敬意と法治主義である。

新興国でビジネスをやったことがある人間なら誰でも知っていることだが、新興国の政府はどこも腐敗している。許認可に関して賄賂が要求されることは日常茶飯事だ。さまざまな歴史的事情で新興国では制度的な腐敗がはびこっている。制度的というのは、横領や収賄といった腐敗が、一部の不心得者ではなく、大多数の官吏において日常的に行われていることを指す。こういう環境ではむしろ清潔さを維持しようする官吏が排除される。

腐敗はもちろん倫理的に正しくない。もっと悪いことに、種々の嘘の温床になり、周辺の人々の意思決定を常に誤らせ続ける。海外から資金援助が行われても、そのかなりの部分が複雑な経路を経て、役人のポケットに入る。しかし、公式にはそれらの資金は、ある有益な事業にすべて投入された「ことになっている」。したがって、つじつまあわせのために手抜き工事が行われたりする。

新興国発展途上国の美称である。発展途上国が、いつまで経ってもその地位を脱却できないのは、いまや植民地時代の負の遺産のせいではなく、この制度的腐敗が絶えず経済活動に悪影響を与え続けるからだ(各国みな違った歴史をもっているので、こういう言い方は単純すぎるのはわかっているが)。ちきりんがいうこのアフリカの例はやや極端だが、発展途上国が抱える典型的問題をよく描き出している。

新興国の腐敗は、完全に利権として確立しており、すべての利権がそうであるように、その構造を打ち崩すことは難しい。したがって経済発展や民主化中産階級の拡大が自動的にこれらの腐敗をなくすとは考えにくい。

伸び盛りの新興国の経済を喩えるとき、よく「日本の○年前みたいだ」という言い方をする。表面だけを見ればそうかもしれないが、実態は違う。50年前の日本は、いまの新興国に比べるとはるかに政治的に清潔であった。したがって、種々の政策もその理念どおりに実施することができたのである。欧米や日本などの先進諸国は50年前、現在の新興国よりずっと清潔だった。

新興国のリーダーが中国であることは論を待たないだろう。しかし中国には法治主義が欠落している。法律は国民の監視の届かないところで作られ、かつ役人は法律をないがしろにして好き勝手を行っている。中国の経済が発展していることは疑いないにしろ、その持続性には大いに疑問があるといわざるをえない。中国の政治的な腐敗は完全に構造化されており、経済発展に伴い、動く金額が大きくなり腐敗がひどくなっているようだ。

新興国が発展した(ように見えた)のは、主に先進国による直接投資が一定のよい統治(ガバナンス)を部分的に実現し、その周辺で経済が発展したにすぎないのではないか。したがって、このよい統治を国民経済の全域に広げていかない限り、新興国の経済発展は持続的になったとはいえないだろう。

日本の法治主義は、日本人にとってはごく当たり前のことかもしれないが、実際には最も重要な社会的インフラである。現在の新興国が現在の先進国レベルの法治主義を達成するのはまだまだ長い年月がかかるだろう(そもそもそこまで到達できるかどうかも自明ではない)。日本はこれから政治経済の動乱を迎えるだろうが、この法治主義という貴重なインフラを維持しつづけるかぎり、どんな難局も潜り抜けて、再び健全な成長路線に戻ることができるだろう。逆に、日本が法治主義を失い、いまの中国のような暗黒の人治主義に堕落してしまったら、日本は永久の衰退路線にはまり込んでしまうだろう。