2011.05.13
# 雑誌

わずか数時間で「通報基準」の7倍!100倍を超えた作業員も!
「封印された内部被曝」福島第一原発衝撃の実態

震災当日、福島第一原発4号機で作業していた落合一範さん。体内の放射線量はなんと作業前の19倍である[PHOTO]福山将司

 政府、東電はこの事実を知っているのか!

「ここを見てください。上段のAというのが作業後、下段のBが作業前の数字です。通常ならABともほぼ同数。3ケタに収まるはずのものが何倍にもなっている。もう20年近く原発で働いていますが、こんな数字、見たことないです」

 震災発生時、福島第一原発4号機にいた落合一範さん(40・仮名、以下同)。彼が指差した先には、5368という数字が書かれていた(写真上)。

「これはホールボディカウンター *1(以下、WBC)という機器で測った体内の放射線量です。単位はcpm(カウント)で、1分間で5368回、放射線が照射されている、という意味です。738cpmを超えると周辺自治体に通報され、1500cpmを超えると『精密検査を受けてきてくれ』と言われ、病院行きになります。その基準をはるかに超えているんです」

「通報基準」の7倍---記憶を手繰り寄せるうち、落合さんはもっと恐ろしい事実に気づかされた。

「被曝したのは間違いなく3・11---震災の日でしょう。当日、私は同僚と4号機の定検(定期検査)をしていました。ドライウェル(原子炉格納容器)の厚みや傷みを測るUT検査、ダクトなどの溶接部分のチェックが主な仕事です。定期点検のために運転を停止していた4号機での作業なので、汚染の可能性は低い。だから、我々は『B服』と呼ばれる軽めの装備で作業をしていました。ブルーの作業着にヘルメット、手袋、安全靴。マスクはしません。ちなみにA服は通常の作業着。C服はタイベック(簡易防護服)に防毒マスク、靴下を2枚重ねてはきます」

 そんな最中、巨大地震が発生する。通常は手足、髪など体の表面の放射線量を測定しないと原子炉建屋の外に出られないが、測定機器は故障。作業員たちは我先にと敷地内のバス停まで走った。

*1 人体内の放射性物質から出されるガンマ線の量を外側から調べる大型の計測装置。イスに座って計測するタイプとMRIのように横たわって計測するタイプがある。自然放射線の影響をなるべく受けないよう、鉛や鉄で覆われた室内で使用される

「B服はマスクをしないので、内部被曝したのだとしたら、この時でしょう。ただ、点呼を受けた後、私はすぐ避難しました。それ以後、福島第一原発には立ち入ってません。時間にして数時間の滞在です。最初の地震で格納容器が壊れ、大量の放射能漏れが起きていたとしか考えられません。確かに、1号機の建屋にはあの時、穴があいていましたから・・・」

震災翌日の3月12日、高温の燃料棒と水が反応してできた水素が爆発。1号機の建屋上部が吹き飛んだ[PHOTO]東京電力提供

 落合さんが語気を強める。

「実はWBCでの検査を受けたのは4月6日。震災から約1ヵ月も後なんです。まさか内部被曝しているなんて思ってなかったから、気にもしてなかった。その後の福島第一の惨状を見て『もう原発では働けないな』と思って、『解除』(原発での作業員登録の解除)することにしたんです。解除するには、WBCで作業後の体内放射線量を測定しなければならない。その過程で内部被曝が発覚したというわけです。

 WBCでは、体内に取り込まれた放射性物質が何なのかまでは分かりません。例えば、原発周辺で大量に検出されているヨウ素131なら半減期は8日。すでに数値は半分以下になっているはずです。ならば、被曝直後はいったい何cpmだったのか・・・」

 彼が記者に差し出した書類を見ると、責任者名のところに「柏崎刈羽」という文字が書かれていた。

壊れた福島第一原発事務本館。IDカードや財布など貴重品を原発内に置いたままにしている作業員も多い[PHOTO]東京電力提供

「福島第一原発に3台ほどあったWBCは震災で壊れてしまったんです。だから、原発作業員を辞めようと思ったら、WBCがある新潟(柏崎刈羽原発)に行って、測ってもらわなきゃいけない。書類にあるように一緒に受けた8人中7人が基準値オーバーしています。中でも私の数字が突出して高い。地震直後に被曝したと思っていますが、もしかしたら、私が原発の20〜30km圏内に位置する南相馬市内に避難していたからかもしれません。累積被曝した可能性がある。なぜなら、福島県外に逃げた同僚は約1700cpmだったからです」

 そして同じ日に、福島第一原発構内で仕事をしていた作業員もまた、落合さんと同じ不安を口にするのだった。

自宅待機となった作業員

 櫻木潤さん(30)は福島第一原発で働き出して3年目の若手作業員。被災場所は1号機の原子炉建屋内だった。

「機材搬入口の大きなシャッターが波打ち、天井からボルトがバラバラと落ちてきた。『こりゃまずい』と思った瞬間に今度は照明が落ちました。粉塵であたりが真っ白になる中、手で口を押さえながら、なんとか表に出ると、地面が隆起し、割けていた。走ると危ないので、早足で旧事務本館と呼ばれる詰め所に向かいました」

原子炉や使用済み核燃料プールの安定冷却に不可欠な外部電源を建屋に引き込むべく、奮闘する作業員たち[PHOTO]東京電力提供

 落合さん同様、点呼が終わると櫻木さんも帰宅するよう命じられた。ドーンという津波の衝撃を感じたのは、自宅へ向かう車の中で、だった。

「あの壊れ方を見る限り、1号機の原子炉が無傷とは考えにくい」

 東電は想定外の津波により電源が途絶え、そのために震災翌日の1号機の水素爆発が起きたと説明してきた。が、地震直後にすでに、1号機の原子炉は損傷を受けていたのではないかと、二人の作業員は話すのである。衝撃の証言は続く。

「私は3月11日を最後に福島第一原発には行っていませんが、現在も働き続けている同僚が、信じられないことを言っていました。震災後、2週間ほど浪江町(福島県双葉郡、原発から10km圏内)に避難していたある作業員が、仕事を再開すべく、東海村(茨城県那珂郡)に移った。そこで作業前の検査としてWBC検査を受けたところ、基準値の実に100倍以上となる、8万cpmというとんでもない数字が出たというんです」

 大量の内部被曝が発覚したその作業員は、自宅待機を命じられたという。

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