3.9 中川―与謝野論争の焦点:なぜ欧米で普通の金融政策を日本ではダメというのか? | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

3.9 中川―与謝野論争の焦点:なぜ欧米で普通の金融政策を日本ではダメというのか?

秘書です。
菅政権の経済財政政策担当相は、経済の状況、政局の状況、そして、日銀の国債引き受け論をどうみているのか?


震災の生産への影響、以前の予想より小さい=与謝野経済財政相
2011年 05月 12日 14:20 JST
http://jp.reuters.com/article/domesticJPNews/idJPJAPAN-21058620110512
[東京 12日 ロイター] 与謝野馨経済財政担当相は12日、3月11日に起きた東日本大震災と津波による鉱工業生産への悪影響について、サプライチェーンが予想よりも早く回復していることから、以前の予想より小さくなるとの見解を示した。
 また、震災により連立政権樹立のチャンスがもたらされており、そうした機運が高まっていると講演で語った。

→以前の予想よりも小さいとして、どの程度なのか。二次補正先送りや増税に耐えうるのか?

→連立政権樹立のチャンスとは、何?


与謝野経財相:日銀の国債引き受けは避けるべきだと固く信じている
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920019&sid=aATvE.4s5oL4
  5月12日(ブルームバーグ):与謝野馨経済財政担当相は12日午後、外国特派員協会で講演し、日銀による国債の直接引き受けについて、そのような安易な手段に頼るべきではなく、行うべきではないと「固く信じている」と述べた。

→新たな連立政権樹立しかないですかね?

→大震災直前の2011年3月9日の衆議院内閣委員会で、中川―与謝野論争がありました。なんで、与謝野大臣は欧米で当たり前の普通の政策を日本ではダメというのか、そのあたりが焦点でした。

【2011年3月9日衆議院内閣委員会】

○中川(秀)委員・・・例えばアメリカは、一千兆円の経済で八十数兆円ある意味ではドル通貨をむしろふやしているわけであります。日本は、その規模で言えば四十兆円ぐらいしなければいけないのかもしれませんが、せいぜい数兆円という決定に至っていました。結果として、ベースマネー、さっき言った米国で二・三倍、英国二・四倍、スイス二・八倍、スウェーデン四・五倍に対して、日本は〇・一倍、一割しかふやしていないわけですよ。
 私はそこでお尋ねしますが、アメリカ、イギリス、スイス、スウェーデン、こういう国々の金融政策は、あなたの言うところのインフレを当てにした政策であり、これは悪魔の政策なんでしょうか。どうでしょうか。

○与謝野国務大臣 先生が引用される諸外国の例は、ほとんど日本には適用できない例ばかりでございます。
 現実的に、リーマン・ショック以降、金融市場がどうであったかといえば、常に金余りの状態であった。しかも、日銀の短期金利の誘導もゼロを目指していましたし、量的緩和もやりましたし、日銀の当座には常に大きなお金が積まれていた。長期金利は一・一%―一・五%の間を動いていたということで、日本経済全体として、ベースマネーであろうが何のお金であろうが潤沢にそこに実は存在したのであって、お金の不足が日本経済の回復をおくらせたという議論は多分成り立たないんだろうと思っております。

→量的緩和が中途半端なままに終えてしまったのでは?円高が貨幣的現象なのでは?期待インフレ率が上がらないということは潤沢とはいえなかったのでは?

→次の問答で「日本異質論」が明らかになります。


○中川(秀)委員 ・・・一月の経済演説で、あなたは二〇〇八年九月のリーマン・ショックから始めたわけですけれども、先ほどこれについては触れましたが、もう一つ、私は、あなたがこの経済演説で語るべきは、なぜ日本はリーマン・ショックが起こるその前の二〇〇七年の十月に景気の山を越えてしまったのか、迎えてしまったのか、そこから語るべきだったのではないかと思いますよ。
 リーマン・ショックが起きるよりももっと前に日本経済はもう失速、つまり不況の方へ進んでいってしまったわけです。山は二〇〇七年の十月です。なぜ二〇〇七年の十月に景気の山を越えてしまったのかであります。これは、日銀の政策が原因でないとしたら、一体何が原因なんでしょうか。
 このことは、二〇〇六年三月、ちょうどあなたは小泉内閣の経済財政担当大臣でありました。私は自民党の政務調査会長でありました。総理も、そして私も官房長官も、日銀の政策転換はまだ早いという判断で、そういう答弁をいろいろしておりました。私ももちろん、党の方の立場でしたが、そういうことを言っておりました。
 しかし、あなたは、二〇〇六年の三月、日銀が量的緩和をやめたとき、解除したとき小泉政権の経済財政政策担当大臣だったんですが、あのとき消費者物価は安定的にゼロ以上になってはいなかったわけです。つまり、コアコアだけではなくて、普通の消費者物価も安定的にゼロ以上、プラスにはなっていなかった。だから私は量的緩和の解除は早過ぎると考えました。しかし、あなたは、日銀の量的緩和をやめる、その解除に賛成をしたんですね。
 私は、その前の速水さんのときにはちょうど官房長官でしたが、宮沢大蔵大臣でした。そして、その当時は経済企画庁もありました。政府側は、日銀の政策委員会でゼロ金利解除について反対の意見を言いました。
 このとき、二〇〇六年の三月の量的緩和をやめたときはあなたが担当大臣だったんですが、これにむしろあなたは賛成されたわけですね。日銀の量的緩和をやめる、これに賛成なさった。私は、これがもう最大の政策判断ミスだったと思います。
 あなたには、そういうことは間違いだったという反省はありませんか。

○与謝野国務大臣 全然私は間違っていないと思っています。
 日本の国のように、経済が成熟した社会、それから期待収益率が高い投資分野のない社会、こういうところで量的緩和をしてどのような効果が発生するかということを考えれば、答えは一目瞭然であって、金利をいじることも量的緩和をいじることも実は経済に全く影響がないと言ってもいいほど影響がない、これは厳然たる事実だと私は思っております

→日本は欧米と異なる成熟した社会である。金利も量的緩和もきかない(→日銀の存在理由は?)

→では、問題は何か?


○与謝野国務大臣 私は、かねてから、中川先生の経済政策はやや日本銀行に期待し過ぎではないかと実は思っております。日本銀行は、やれることは知れておりまして、それが日本経済を救うような万能の武器を持っているわけではないと思っております。
 実は、日本の経済は金融が問題なのではなくて、実際の物づくりの能力あるいは提供できるサービスの能力とかいう、やはり経済の本質的部分の実力の低下というものが日本の経済の最大の問題であって、これをすべて日本銀行の金融政策等々に押しつけるのは多分間違っているんだろうと私は思っております。

○中川(秀)委員 驚きました。私は全く見解を異にしますね。今の答弁で、どれだけ逆に、経済をずっとやってきた人たち、あるいは経営者も含め、がっくりされたのかわからないと思いますね。
 それでは、なぜこんなに各国の中央銀行が、ベースマネーも含め量的緩和政策。しょせんは、例えば為替だって同じですよ。円高とデフレというのは同根です。一国が一千兆円の経済で八十兆円も量的緩和をやる、通貨政策をやる。一方は数兆円、二、三兆円しかやらない。一ドル百十円が八十円になるのは当たり前です。そういう金融政策の重要性について全くあなたは理解していないとしか言いようがありませんね。

→これに対して、産業界が反発しないのが不思議ですね。菅政権は、日本はすごい国だ、自信を持とう、といってはいけません。モノづくりとサービスの能力という本質的部分の実力が低下した国だ、と率直に国民に語りましょう。

→しかし、不思議ですね。実力が低い国がなんで円高なんですか?実力が低いならば円安でしょう?為替相場は貨幣的現象であり、円の供給が相対的に少ないから円高なんじゃないですか。実力が低下した国というのは円高という実力以上の競争力でつくられたんじゃないですか?

→行きすぎた円高が、日本のモノづくりの能力あるいはサービスの能力の努力の限界を超えた条件を国民に強いているのではないか。努力という価値観を日本で摩耗させているのは、誰か?

→最後に、増税論について。要するに、消費税増税は必要額ではなく、政治的に可能な額だけ増税するとなのか?。何か目的があって増税するはずなのに、実現実可能性で増税を考えるようです。それで安心を得ることができるのか?国民生活をよくすることよりも、増税すること自体が目的なのではないか?


○中川(秀)委員 ・・・あなたは、二月の十八日の夜、BSフジの番組で、社会保障と税の一体改革に関連して、消費税率一七%への引き上げを提言している経済団体、たしか同友会だったと思いますが、その案に対して、ちょっと高過ぎるというか、企業としての責任を逃げている感じがすると指摘したと報道されております。あなたは何を根拠にちょっと高過ぎると言っているのか、企業としての責任を逃げているというのは何を意味しているのか。

○与謝野国務大臣 税というのは、机の上で計算するのはとても簡単ですけれども、税の提案をするということ自体相当な作業でありますし、その案を国民に理解していただくというのはさらに難しい作業であるわけでございます。
 したがいまして、どんな案であれ、政治的にこなせるかどうか、政治的に消化できるかということも極めて大事な観点であって、ただこれだけ必要だからこれだけにしますということだけでは済まないものを含んでいる、私はそういう点を申し上げたわけでございます。