小林麻央報道の「印象操作」にザワつく乳がん女子の胸の内

CAに転身・結婚、そんな「病後」もある

乳がんの告知をたった1人で受ける

2013年12月20日午前11時57分、非通知でかかってきた電話は「客室乗務員訓練生として内定」の報せだった。

嬉しさと驚きで叫びたい気持ちを抑えられたのは、わたしが36歳のそこそこ自制の利く大人であったことと、「乳がんに罹患してもカスタマーフロントの仕事に寄与出来る事、病後の女性の人生でも豊かな選択が可能な事を証明したい」とエントリーシートに書き、数回の面接で大口叩いたわたしに本当に内定を出してきた航空会社に正直ビビったからだ。マジですか!?

photo by iStock(写真はイメージです)

わたしは今から10年前、29歳の時に左の乳房に約3cmの腫瘍が2つあるのが見つかった。9ヵ月前に父を肝臓がんで亡くしたばかりのタイミングだった。診断はステージⅡb期、5年以内の再発率は40%。温存手術は不可。脇に若干の転移が認められ進行している。

治療は半年の抗がん剤、左乳房全摘出手術、その後5年のホルモン治療。医師からはただ淡々と説明された。家族を呼べとも言われず、たった1人で告知を受けた。あれ?なんか、テレビと違う。相応のショックを受けながら、そんな風にも思った。

乳がんの衝撃以上に恐ろしかったのはお金についての不透明さだった。若さにかまけて医療保険に未加入だったので、治療費の一切を自分で賄わなくてはいけない。

しかし書店には、全く役に立たない愛と絆をうたった闘病記ばかりが並び、治療全体でいくらかかるのか明文化されたものは一切なかった。医師・看護師に聞いてものらりくらりとかわされて要領を得ない。転職したての会社で治療と仕事を両立することを理解してもらえるか考え出すと、心細さに叫び出しそうだった。

 

脇の甘さ、見通しの甘さ、自分自身への甘さ、その全てが乳がんをきっかけに露呈し始めた。若さゆえに進行が速く、若さゆえに自分を守る基盤を築けていない。こんなものが呪いのようにうらやましがられる若さなのか。親を頼るほど未熟でもなければ、自分を信じられる成熟からも程遠かった。

それでもおいおいと泣いている背中をさすってくれた彼氏の存在は大きく、家族にも支えられ、気持ちを鼓舞して治療に向かっていった。再発しなければ、治療が終わるのは36歳。それからだって結婚も、子どもも……きっと、あきらめなくても大丈夫!

抗がん剤の副作用の嘔吐を繰り返し、発熱しながらトイレの床にしゃがみ込む度に、何度も心に誓い直した。こんな吐しゃ物と脱毛にまみれた賃貸マンションの狭小ユニットバスから、絶対這い上がってみせる。だってわたしはまだ、何者にもなれていないし、まだ何一つやり遂げていないのだから。

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