古書の表紙の裏側

 以前、京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センターの求めに応じて、「古書の表紙の裏側」(『漢字と情報』 No.6 20-Mar-2003)というエッセーを書きました。もうずいぶん前になりましたが、人文研の助手を勤めていた頃、京都大学附属図書館の「清家文庫」というコレクションを悉皆調査したことがあり、その時の、日常の一コマを書いたものです。

 いま読み直してみると、自分の文章としてはまあまあよく書けたと思えますので、ここに再録します。できましたら、KURENAIのリンクをたどっていただき、PDF版をダウンロードして、他の方の文章もお読みいただき、また、『漢字と情報』の他の号もお読みくださると幸いです。

 ちょうどこのころ、0歳だった娘が絵本を楽しそうに眺めているのを見て、着想を得たもので、今読み返すと、個人的な感慨もあります。

 ただ、このような「資料あさり」「図書館がよい」は、私の先生があまり好まれぬもので、その後、この方面の研究は中断しております。「もっと、普通の本をたくさん読め」と言われ、「それはもっとも」と思ったのです。「普通の本」-我々にとっては経書や正史-を読み終えた後、またあらためて古写本に接する機会が到来すれば、と願い、再録する次第です。

【古書の表紙の裏側】

 京大附属図書館の貴重書閲覧室。机の上に古書が載っている。『春秋経伝集解』、存巻11-30、3帙20冊。現在の請求番号は「清家1-65、シ7貴」。

 第11冊目を目の前に置き、雲母引きの表紙をめくる。おもて表紙の裏に、何やら反故が貼り付けてある。片仮名混じりで書かれたそれは、私にはなじみのある、『荘子』逍遙遊篇の解釈であった。さらに第11冊のうら表紙、第12冊のおもて表紙とうら表紙、第13冊のうら表紙にも、同様の紙が貼ってある。

 紛れもなく、清原宣賢(1475-1550)の手になる、『荘子』の抄物。室町時代を代表するこの大学者がみずから抄写した『荘子抄』を、私はずっと求めていたような気がする。たしかに『続抄物資料集成』第7巻(清文堂、昭和56年)には、宣賢の曽孫、清原国賢(1544-1614)が写した『荘子抄』が影印されているし、同、第10巻(平成4年)に収める土井洋一氏の解説においても、同書が宣賢の抄物であるらしいことは推測されていた。しかし、私はそれに満足することなく、宣賢自筆の『荘子抄』を確かめておきたかったのだ。宣賢自身が講じ、かつ書いた抄物が多数伝存している状況からして、宣賢の『荘子抄』もどこかにあるのではないか、と。 

 ようやくその確認を遂げた現在、『荘子抄』に対するささやかな興味が増したのはもちろんである。いま、喜びを味わいながら読み進めている。 

 古文献に接する者が、しばしば経験するであろうこのような小発見の功を、ここで誇りたいのではない。そうではなく、書物を手にすることができる贅沢に、ただ感謝したいのである。 

 我が国でかつて写された古写本を見る機会を得るたびに、私は畏れの念を抱く。このような美しい知の結晶に、手を触れてよいのだろうか、と。 

 おずおずと表紙をめくり、またある時は巻子を開く。大きく、黒々と書かれた漢字の列なり。書きつけられているのは、かつてはどれほど人を圧倒したかと思われる古典の強いことば。その栄光の余韻は、優れた紙、墨、格式、装訂をともない、私の眼前にある。それをながめ、この豊かな源泉から、己が汲み得るものの小ささを憂うるのである。 

 しかし、何たるさもしさか、この書物の中に面白そうなところはないかと探しはじめる。終いには疲労を感じ、あとはすべて写真に撮ってもらって、後日読めばよいなどという、不心得をおこす。先ほどまでの厳かな気持ちはどこへ消えたのか。 

 そうではあっても、本を開くときのあの新鮮さは、いつまでも感じ続けるのだと思う。一級の古写本はもちろんであるが、それに限った話ではない。また、研究者としてそうあらねばならないとかいう、心得や自戒でもない。子供が絵本を開くのと同然の喜びをいうにすぎない。 

 書物の内容についても、同様に、そのような新鮮さと畏れとをいつも感じる。書物の内容の一部や一面を切り取って、資料などと呼ぶことがあるとすれば、その殺風景なことばに抗いこう呟きたい。言は意を尽くさず、書は言を尽くさず、資料は書を尽くさず、と。 

 話題をもとの『春秋経伝集解』に戻すと、この本は極めて面白い。『春秋経伝集解』 と『春秋抄』とを交互に配して一目瞭然ならしめた、便利この上ないものなのである。しかも『経伝集解』の方は、貴重な南北朝刊覆宋本を匡郭に沿って切りつめたものと、宣賢写本との取り合わせという豪華さ。抄物は、宣賢とその息子、業賢(1499-1566)が共同で書いたもの。二人の仕事のさまを感じさせる。 

 冒頭に述べた『荘子抄』以外にも、『春秋抄』など、宣賢自筆の抄物が表紙の裏張りとして使用されている。そのうちの一部はいまだ正体が知れないが、いずれ調べてみようと思っている。(完)

kogachi について

京都大学人文科学研究所に勤務しております古勝隆一(こがち・りゅういち)と申します。中国の古典を研究しております。
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