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存在論的転回とエスノグラフィー:具体的なものの喚起力について 1 浜田明範 1.存在論的転回の広がり 人間について何事かを明らかにする数ある方法のなかでも、人類学者は長期に渡る参与 観察に基づいてエスノグラフィー(民族誌)を書くという方法を好んで用いてきた。それは、 質問紙を用いた量的調査とも、インタビューに基づく生活史とも異なるものである。人類学 におけるエスノグラフィーの特徴は、それが単なる方法論ではなく、理論的な前提と密接に 関係している点にある。 そこで、本稿では、2000 年代以降の人類学において注目を集めているいわゆる「存在論 的転回」と呼ばれる理論的な動向がエスノグラフィーを書くという人類学者の実践にとっ てどのような意味を持ちうるのかを検討することで、改めて、エスノグラフィーを書くこと の可能性の一端を明らかにしていく。 人類学におけるいわゆる「存在論的転回」は、とりわけ 2010 年代の人類学を特徴づける ひとつのムーブメントとなっている。2016 年と 2017 年に出版された『現代思想』の二冊の 特殊号(2016 (vol. 44-5); 2017 (vol. 44-5))を見れば分かるように、このムーブメントは必ず しも人類学の枠内に収まるものではなく、科学技術論や思想、哲学や美術史といった領域と 相互に影響しながら展開している。この意味で、それが人類学における本当の意味で新しい 動きなのかどうかは別として、存在論的転回というラベルと、そのラベルのもとに集められ た研究群が、人類学のプレゼンスをあげるために大きな成果をあげたことは否定しがたい。 その一方で、すでに多くの論者から指摘されているように、存在論的転回と一口に言って も、異なる伝統に属している議論が合流したものであり(久保 2016)2、当然のことながら、 この潮流の内部には意見の不一致も見られる。関連書籍の翻訳ラッシュによってだいぶ見 通しが良くなってきたとはいえ、存在論的転回の全体像は必ずしも捉えやすいものとはな っていない。そこで、まずは、人類学における存在論的転回の全体像を概括に提示すること から始めよう。 人類学における存在論的転回が注目を集めるようになったきっかけとなったのは、アミ リア・ヘナレ、マルティン・ホルブラード、サリ・ワステルによる Thinking Through Things の序論である(Henare, Holbraad and Wastell 2007) 。この序論を改めて確認してみると、存在 論的転回をめぐる論点の多くがバランス良く提示されていることが分かる。それだけでな く、存在論的転回に胚胎する極めて人類学的な相互に矛盾するように見える二つの方向性 が、この運動の当初から内在してこともよく分かる。その二つの方向性とは、 (1)いつで もどこでも妥当しうるような新しい存在論を自らの手で提示していこうという普遍主義的 な方向性と、(2)自らの存在論ではなく彼らの存在論を提示することによって私たちの前 提を切り崩していこうという相対主義的な方向性の二つである。 前者の方向性は、ストラザーンの「歴史のモノたち Artefact of History」 (ストラザーン 2016) を引用しながら、物(things)を意味を運ぶ記号として捉えるのではなく、物それ自体が意 味であると主張される際に現れる。物それ自体が意味であるという発想は根本的にはフィ ールドで出会った人々からヒントを得ているとしても、同時に、それが人類学における理論 的な伝統のもとで醸成されてきた考え方である 3。冒頭で、物指向人類学(artefact-oriented 1 anthropology)を、新しい下位分野ではなく広く人類学の分析方法を再配置するための方法 として構想すると述べているのだから(Henare, Holbraad and Wastell: 2007: 1)、ヘナレ達が どのように言葉を尽くそうとも、存在論的転回が普遍主義的な方向性も持っていることを 否定することは難しいように思える。 このような普遍主義的な方向性は、存在論的転回に与すると考えられている研究者によ って、より明示的に述べられている。『多としての身体』のなかで、人々の経験する病いだ けでなく、生物学的な疾病とそれに対する患者の意味づけである病いを「混ぜ合わせ」て議 論する必要性を主張した(モル 2016: 51 下段)アネマリー・モルは、その後に書いた The Logic of Care で「私は、私や私のインフォーマントが目撃した出来事の信頼に足るイメージ をスケッチしようとはしない。また、これらの出来事に関わっている人にとっての、出来事 の意味について語りたいわけではない。私のインフォーマントの解釈を追う代わりに、私は 自分の解釈を付け加えたい。他者の視点について語る代わりに、新しい視点を付け加えたい」 と述べている(Mol 2008: 11) 。 同じように、 『森は考える』のなかで、エドゥアルド・コーンは、自身の普遍主義的な志 向性を明示的に述べている。「もちろん、私は、アニミストと呼ばれる者たちがあらゆる種 類の実体に活力ある状態(アニマシー)を認めるであろうことを承知している。そのなかに は、例えば、石のように、本書で展開される枠組みにおいては、生ある自己と認められない ものもある。仮に私がある特定のアニミズム的な世界観の内側から議論を組み立てていた のだとすると、例えばルナが考え、言い、行うことに沿って、私の主張全てを導いていたの だとすると、この矛盾は問題だろう。しかし、私はそうしてはいない。人間的なるものを超 えて広がるものに向かって、人類学を開いていこうとする私の試みには、世界についての一 般的な主張をする道筋を見出すことも含まれている。そうした主張は必ずしも、ある特定の 位置にあるそれぞれの人間の観点、例えば、アニミスト、科学者、人類学者のそれと整合性 があるわけではない」(コーン 2016: 166) 。 他方で、ヘナレ達は、ヴィヴェイロス・デ・カストロに依拠しながら、存在論的転回が相 対主義的な志向を持つこと、つまり相対化をより徹底するものであるという主張も繰り返 している。例えば、 「フィールドワークで出会った物を、既存の理論的モデルの強みや欠点 を明らかにするために理論を適用するデータとしてではなく、理論にとってまったく新し い前提を含めた、それ自体の分析を指示するものとして」取り扱うべきだと述べているが、 ここには人類学者の手持ちのツールキットでは把握できないものがあるという認識が明確 に現れている(Henare, Holbraad and Wastell 2007: 4) 。あるいは、認識論から存在論へと問い を移行することが刺激的なのは、「人々が生を営む方法が、人類学者の理論の特定のレパー トリーの根底にあるような見慣れた仮定をどのように、不安定化させるのか」を問うからだ と述べている(Henare, Holbraad and Wastell 2007: 8)が、これも同様の主張と考えていいだ ろう。 ここで、 「理論にとってまったく新しい前提」によって不安定化させられている「見慣れ た仮定」こそが、その後(それ以前から?)、幾度となくやり玉に挙げられることになる、 「ひとつの自然に対する複数の文化」という発想である 4。ヘナレ達がヴィヴェイロス・デ・ カストロを引用しながら説明するには、人類学とは認識(=文化)についての認識であり、 そこでは、単一の自然が想定されたうえで、それに対する人々の認識の違いを問うことが問 2 題とされている。しかし、そもそも、人々自身は特定の存在について語っているのであって 認識について語っていないのであるから、文化という発想自体が西洋の存在論の圏域に留 まっており、相対主義的な試みとしては不徹底なままに留まっていることになる(Henare, Holbraad and Wastell 2007: 4) 。 ここで問題になっているのは、シェイピンとシャッファー(2016)からブルーノ・ラトゥ ール(2008)へ、フィリップ・デスコラ(2015, 2016)からヴィヴェイロス・デ・カストロ (2015)やミシェル・セール(2016)へと連なっていく、自然と文化の関係についての西洋 の存在論をいかに相対化していくのかに関する一連の議論である。シェイピンとシャッフ ァーは自然と文化が相互に区別されるようになる歴史的契機を記述し、ラトゥールはそれ らをきっちりと分ける純化の働きとともにそれらが混ざり合ったハイブリッドが増殖して いると述べた。デスコラは、身体性(自然)と内面性(文化)の単一性と複数性によって 4 つの存在論があり得ることを提示したうえで、西洋の存在論を身体性(自然)の単一性と内 面性(文化)の多数性によって特徴づけられるナチュラリズムと名付けた(出口と三尾 2010) 。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、デスコラがアニミズムと呼ぶ身体性の多数性と 内面性の単一性をパースペクティズムと呼び換え、独自の議論を発展させた。ミシェル・セ ールは、デスコラの提示した四類型が西洋の内部にも存在することを指摘した。 このように、人類学における存在論的転回の存在論とは、まずもって自然と文化の関係に 関する西洋の前提と、それを相対化しうる異なる発想のことを指していると考えて良いだ ろう。ただし、ヘナレ達はこのような整理を更に相対化すべきだと述べる。彼女たちは、ラ トゥールの仕事を評価しながらも、人類学をより開放的なものと捉えており、デスコラの提 示するような四類型を前提とするのではなく、(物に注目することで)まだ見ぬ複数の存在 論の可能性を模索するべきだと主張している(Henare, Holbraad and Wastell 2007: 6-7) 。この 意味で、ラトゥールやデスコラがモデル構築的であるのに対し、ヘナレ達はそれすらも相対 化する可能性に賭けていると言えよう 5。 このように整理してみると、ヘナレ達が主張しているのは、フィールドワークで出会った 物を通じて、新しい概念を見出し、それによって西洋の伝統を覆していくという、極めて一 般的な人類学的な営みのイメージである 6。しかし、フィールドワークを行ったことのある 人類学者なら誰でも知っているように、困難なのは「こうすべきだ」と言うことではなく、 それを実際に行うことである。「人々についての理解」と「西洋の伝統を覆していくこと」 は、必ずしも常に一致するとは限らない 7・ 8。 あるいは、私たちは、理論を持たずにまっさらな目で何かを見ることはできないし、まっ さらな目で調査することもできない(浜本 2005)9。物を意味として扱うというのは、それ 自体が普遍主義的な傾向を持ったひとつの理論的立場でしかありえない。そうであるなら ば、いわゆる「存在論的転回」から私たちが学ぶべきなのは、「西洋の哲学をより深く覆す ためにはどこに注目して相対化すればいいのか」というような議論の焦点ではないのかも しれない。人類学的な営みは、ヘナレ達が言うように(あるいはそれ以上に)、もっと開放 的なものであるべきだ。あるいは、人類学的な営みにとって重要なのは、 「西洋の哲学の伝 統を覆せ」と殊更に強調することではなく、それを達成するためにはどうすればいいのかを 議論することの方である。それは、認識論か存在論かという軸とは別のところにある。人類 学者の手持ちのツールキットに限定されずに、人々を理解するためにどうすればいいのか 3 をまずもって考えるべきだろう。ヘナレ達も、自分たちのプロジェクトはまずもって「物を 通して考える」という方法論的なものであると述べている(Henare, Holbraad and Wastell 2007: 4) 。 そこで本稿では、 「物を通して考える」とはどういうことなのか、 「物それ自体が意味であ る」とはどのような事態なのか、それがエスノグラフィーを書くという実践とどのような関 係にあるのかといった問題について検討していく。ヘナレ達は、おそらくは相対主義的な方 向性を強調したいがために(あるいは、先行研究との断絶を強調したいがために) 、これら の問いについて真正面から回答していないように思えるからである。これが本稿の第一の 目的である。 それにしても、存在論的転回に見られる普遍主義と相対主義の奇妙な同居をどのように 考えればいいのだろうか。多くの人類学者は相対主義的な志向をどちらかと言えば持って おり、ヘナレ達も全体的にはその重要性を強調している。ストラザーンやヴィヴェイロス・ デ・カストロも同様である。しかし、存在論的転回という形で、 「ひとつの自然と複数の文 化」という枠組みを批判することが流行になると、それ自体が教条化し、普遍的に適用可能 なものであるかのように提示されるようになる。それを見越したように、それを相対化する 方法である「物を通して考える」ことが議論を先取りする形で当初から提起されている。ヘ ナレ達の議論は、それ自体、だいぶ込み入っていると言わざるを得ない。 この込み入った議論の構成は、それ自体、 「物を通して考え」た結果として着想されたも のなのだろうか。あるいは、頭の中で批判を先取りして考えた結果なのだろうか。それとも、 存在論的転回を超えて、人類学一般に見られる特徴なのだろうか。これらの問いに対するひ とつの回答を示すことを本稿の第二の目的とする。 2.具体的なものを通して考える ヘナレ達の序論において、「物を通して考える」という方法の先例として言及されている のが、マリリン・ストラザーンの仕事である。彼女の理論的な主著とされる(こともある) 『部分的つながり』 (ストラザーン 2015)もまた、そのような方法を用いたものである。 周知のとおり、『部分的つながり』は、カントールの塵を模した独特の構成をとった書物 であり、人類学理論に関する前半部「人類学を書く」とメラネシアに人々のイメージに関す る後半部「部分的つながり」から構成されている。 『部分的つながり』は、簡潔な要約を許 す本ではないのだが、後半部の「部分的つながり」の内容を本稿の趣旨に沿って私なりに要 約するのであれば、それは、 (1)人工物や身体やパフォーマンスといった「具体的なもの」 を通して、自らに対して自らを提示するメラネシアの人々のやり方と、(2)そうやって提 示されるイメージ間の関係を成長、反転、切断といった隠喩を用いて理解するというメラネ シアの人々のやり方について、 (3)それらの方法を模倣しながら(あるいはそれらの方法 を彫琢(elaborate)しながら)記述したものである。 それでは、人工物や身体やパフォーマンスを用いて何かを提示するとはどういうことだ ろうか。順を追って説明していこう。日本でよく利用されている人類学の教科書の一つであ る『人類学のコモンセンス』のなかに小田昌教が寄稿している「自然」 (小田 1994)という 章は、このことについて考えるための良い出発点を提供してくれる。 小田は、スワヒリ語には、私たちが通常用いる意味での自然に相当する言葉が無いと指摘 4 する。しかし、このことはスワヒリ世界において文化と対立しうる自然に相当するカテゴリ ーが存在しないことを意味するわけではないという。人々は、自然という言葉を持っていな いし、自然を客体化して語ることができるようなものとは考えていないが、それでもなお、 文化と対立するようなカテゴリーは何らかの形で存在しているというのだ。では、自然に相 当する言葉が無いのであれば、人々はどのように自然について考えるのであろうか。小田が、 ロイ・ウィリス(ウィリス 1979)を参照しながら説明するところによると、人々はセンザ ンコウやニシキヘビといった特定の動物種を儀礼のなかで操作することによって自然につ い て考えて いると いう。 小田は、 アルフ レッド ・ジェル の『ヒ クイド リの変 態 The Metamorphoses of Cassowary』 (Gell 1975)を引きながら、ニューギニアのウメダの人々も同 じようにヒクイドリを通して自然について考えていると主張している。 ここで小田は、概念=言葉ではなく具体的なもの(動物種やそれにまつわるパフォーマン ス)を通して考えるという思考様式があるという、ある世代の人類学者にはなじみ深い議論 を手際よく整理している。しかし、ヘナレ達であれば、小田の説明には納得しないだろう。 それは(初学者向けの教科書なのだから当たり前の話なのだが) 、小田が、センザンコウや ニシキヘビやヒクイドリを分析者である私たちのカテゴリーである自然に相当するカテゴ リーを示す記号に縮減してしまっているからである。ヘナレ達は、この流れを逆にして、セ ンザンコウやニシキヘビやヒクイドリやそれらの儀礼(=パフォーマンス)のもっている汲 みつくすことのできない多義性や潜在性を特定の意味に縮減することなく、その多義性や 潜在性によって私たちの手持ちのツールキットにない概念やカテゴリーを生み出そうと提 案しているのである 10・ 11。これが、具体的なものが持っている喚起力である。 具体的なものが特定の言葉で汲みつくすことのできない多義性や潜在性を持っているの は、抽象化が必然的に捨象でもあるからだけではない。ここで問題になっているのは、抽象 化がいけないということではない。そういう立場はありうるだろうが、それを受け入れれば 人類学は成立しなくなるし、人々が行っている何らかの形の抽象化を検討することもでき なくなる。そうではなく、留意すべきなのは、具体的なものに対する異なる抽象化の可能性 は常に存在しうるということであり、それが比喩的な関係のなかで行われているというこ とである 12。特定の具体的なもの(動物種)を、特定のカテゴリー(自然についての記号) の一部とする提喩的な理解ではなく(全体と部分の序列が固定化されているなかで理解す るのではなく) 、隠喩的に並置される具体的なものに応じて別用に抽象化されるものとして 理解するのであれば、具体的なものをそれらとの関係のなかにあるものとして取り出す必 要がでてくる 13。あるいは、特定の物を他の物を理解するためのルート・メタファーとして 利用する必要が出てくる。これが、物を記号ではなく意味として取り扱うということである。 ストラザーンが「部分的つながり」の中で行ったことの、少なくとも一部はこの作業である。 話が少し抽象的になりすぎているので、このこと(前の段落の説明)を別の仕方で説明し ておこう。言語哲学者の佐藤信夫は様々な形態の比喩を検討した『レトリック感覚』 (佐藤 1992)のなかで、直喩と隠喩の差異に関する興味深い指摘をしている。 佐藤によると、直喩とは「X は Y のようだ」というように、明示的に X を Y に譬えるタ イプの比喩である。このタイプの比喩は、X と Y のあいだに類似性があることを主張して いる。しかし、佐藤はこの類似性がそれほど自明ではないと主張する。「金持ちに妾のとり もちをして小づかいを稼ごうという婆さん」の声(X)がくつわ虫(Y)のようだと聞けば、 5 私たちはたとえくつわ虫の声を聞いたことがなかったとしてもニュアンスが分かるし、更 には、くつわ虫はよほど下品な声で鳴くらしいと推定することになる(佐藤 1992: 69-72) 。 X と Y の類似性は予めあったわけではないし、そもそも Y のことを知らないのだから、類 似性があるかどうかを読者は確認することもできないはずである。にもかかわらず、X と Y には類似性があるものとして私たちは了解することができる。 更に佐藤は、川端康成が『雪国』のなかで魅力的な女性の唇を美しいヒルに譬えている事 例を取り上げている。それは、直喩が類似性に依拠しているものではなく、新たな(その都 度?)類似性を設定するものであると述べるためである。 美しい蛭のような唇という直喩における類似性は、常識的な意味あいでは、私の理 解を越えている。しかし、ものがたり全体を読むうちに、奇妙なことに、常識的と しか言いようのない私の想像力にも、その異様な美しさが感じられてきた。ただし、 それは、ものがたりを一貫して島村の(そしておそらくは川端康成の)視覚を通し て間接的に見はじめてからのことである。「美しい蛭のやうな唇」という直喩は、 いかにも Y(美しい蛭)と X(唇)との類似によって成立している。しかし、その 類似は、美しいヒルとくちびるのあいだにもともと存在しているわけではないの だ(佐藤 1992: 80-1) 。 このように、直喩においては、私たちは、説明されるはずのもの(X)の特徴から説明す るはずのもの(Y)の特徴を読み取ることもできるし、X と Y のあいだに常識では理解でき ないような意外性をもった類似関係を設定することもできる(ここではもっと直截な表現 を用いるべきかもしれない。唇をヒルに譬えうるのであれば、比喩を用いればおよそどんな ことがらでもつなげることができるだろう) 。比喩は、X と Y を並置することによって、X と Y の両方のイメージを更新する作用を持っている 14。 佐藤によると、X と Y の類似性と関わる比喩は直喩以外にもある。それが隠喩である。 隠喩は、X と Y が類似しているときに、Y の名称を借用して X を表現することである。す なわち、 「彼はライオンのように突進した」というのが直喩的な表現であるのに対し、 「ライ オンは突進した」というのが隠喩的な表現である(佐藤 1992: 104, 112) 。 ここで注目に値するのは、佐藤が、直喩が論理によって X と Y のあいだにどんなに奇抜 な類似性でも設定することができるとしているのに対し、隠喩はそうはいかないと述べて いる点である。 「隠喩がひとりよがりにならないためには、Y によって臨時にどんな(X)が あらわされているのかということがあらかじめ相手に理解されていなければならい。言い 換えれば隠喩においては、 (X)と Y の類似性が、語り手と聞き手のあいだにまえもって共 通化されていなければならない」(佐藤 1992: 117) 。 佐藤による、このような直喩と隠喩の区別は言語をもちいた比喩表現について考える際 には、非常に興味深いものである。しかし、人類学者が、人工物や身体やパフォーマンスと いった具体的なものを通した思考について考える際には、いくつかの問題が生じることに なる。まず、具体的なものを通じた思考においては、直喩的な表現を行うことはできない。 目の前にあるのは、ただの具体的なものであり、それと他のものとの関係を言葉を用いずに 明示的に表現することはできない。ただし、このことは、目の前にある具体的なものが目の 6 前にない具体的なものとの関係を指し示すことがないということを意味しない。ただの木 片をトンカチとして用いるときのように、具体的なものは、他の具体的なものとの類似性や 近接性によって多重化して認識されることもある。 とはいえ、他者が抱くそのような多重化された認識は、人類学者にとってそれほど分かり やすいものではない。基本的に外部者である人類学者は、本来、意味が通るために共有され ているべき類似性を共有していないからである。そのため、人類学者には、具体的なものを 「ひとりよがり」の隠喩として、あるいは、それによって(直喩がそうするように)奇抜な 類似性が設定されているようなものとして理解するための準備をしておく必要がある 15 。 物それ自体が意味であるというヘナレ達の主張は、このようなより方法論的な警告として 理解することもできるだろう。 しかし、おそらく、多くの人類学者はこのようなアプローチが必然的にある種の危うさを はらんでいることに気がつくだろう。それは、対象としているものがそもそも言語化されて いるわけではないために、これを人類学者が言語化することには表象の暴力に類する危険 性が伴うし、彼らの発言を証拠として提出することもできない。そこには、人類学者による、 一方的でどこか普遍主義的な解釈の香りが付きまとう。これに対するストラザーンの解法 は、メタ的なものであると同時に相対主義的なものである。すなわち、彼らについての自ら の解釈を提示するのではなく、彼らが自分たちに対して自己を提示するやり方を用いて説 明するというものであり、説明や解釈の仕方そのものを彼らから学ぶというものである。さ らに、春日が「ポストモダン人類学が前提とする人間も主体も直接の実在性を奪われて」い ると述べるように(春日 2011: 11) 、ストラザーンは「自ら」を表象する権利は「自ら」の みが持っているという権利意識の前提となっている所有的な個人を切り崩しながら議論し てもいる 16(この意味で、表象の暴力という問題に対するストラザーンの回答は、ヴィヴェ イロス・デ・カストロの提唱する存在論的自己決定(Viveiros de Castro 2014)とは異なって いる) 。 ストラザーンは、彼らの発言ではなく、具体的なものを通じて彼らが思考するやり方に注 目することで、私たちの手持ちのツールキットで端的に表現できない思考を、私たちの使用 している言葉に修正を加えながら表現していく。その結論であり、また『部分的つながり』 という本の構成を端的に表しているのが、「成長、反転、切断はいずれも、あるイメージが 別のイメージに取って代わる仕方にあてられるメラネシア的な隠喩である」 (ストラザーン 2015: 270)という決定的な一文である。 私たちは、エスノグラフィーを書く際に、このストラザーンの手法から何を学ぶことがで きるだろうか。具体的なものを記述することで、それを通した思考を明確にし、それが他の ものとどのような関係にあるのかを示す。そのために、人工物や身体やパフォーマンスとい った具体的なものとそれを通して人々が何を行っているのか、何を提示しているのかを理 解しようと格闘する。インタビューではなく、参与と観察によって状況をつかむという人類 学的なフィールドワークの意義のひとつはここにあったはずである。この意味で、部分的つ ながりは、人類学者がそれまで見ることのできなかったものを見えるようにするひとつの 装置でもある。 3.二つのポスト多元 7 ところで、「成長、反転、切断はいずれも、あるイメージが別のイメージに取って代わる 仕方にあてられるメラネシア的な隠喩である」という一文は、「認識論から存在論へ」、 「具 体的なものに注目する」とともに存在論的転回におけるキーワードのひとつとなっている 「ポスト多元 postplural」についても示唆を与えるものである。 ストラザーンは、 「部分的つながり」の「木と笛は満ちみちて」 (ストラザーン 2015: 172198)において、メラネシアの各地からの事例を縦横無尽に引きながら「部分的つながり」 という発想の有効性を明らかにしようとする。そこでは、(1)踊りに用いられる拡張物や それを立てかける構造物、クラに用いられるカヌーといった「木々」と、うなり木、音を立 てる樹木、太鼓、仮面、家、杭、そして笛といった「笛」を次々とつなげた上で、(2)そ れらの事例のつながりは、一貫したアナロジーを作るための基軸がないために部分的であ ると述べ、 (3)にもかかわらず、それらの事例から「木や笛が人格に属すと同時に人格以 上のものである」と考えられているという共通の特徴を抉り出し、そのうえで、 (4)ひと つひとつの事例が、その特徴の具体化であると同時に相互に変換関係にあると述べている 17 。 ここで、「一貫したアナロジーを作るための基軸がないこと」と「すべての事例に共通す る特徴を指摘できること」は、矛盾しているように見える。しかし、そのような認識を打破 することが、ストラザーンが目指していたことのひとつであった。「サイボーグは単数でも 複数でもなく、一でも多でもなく、お互いに同形ではないがゆえに比較できない部分と部分 を結合するつながりの回路である。単一の存在、あるいは複数の存在からなるひとつの多数 体として、全体論的あるいはアトミズム的にアプローチしてはならない」(ストラザーン 2015: 163)。大杉(2015)や福井(2016)の理解とは少し異なるが、ここでストラザーンが 描き出している事例群は、多配列的であると同時に単配列的でもある何か、あるいは、多配 列的でも単配列的でもない何かと考えるべきである(それらは多元主義的な発想である)。 「一に取って代わるものは多であるという、人類学者が往々にして身につけてきた数につ いての独特の考え方」 (ストラザーン 2015: 160)から抜け出すためにストラザーンが依拠す るのが、メラネシアの人々の人間観から着想を得たポスト多元という発想である 18。 おそらく、多元主義(プルーラリズム)からポスト多元へという発想の転換が、しばしば、 認識論的な枠組みから存在論的な枠組みへの転回と同一のものとして語られてしまってい ること 19は、幸福なこととは言えないだろう。例えば、存在論を四つに分けるデスコラの議 論は、ポスト多元というよりは多元主義的な枠組みで議論を行っているように見える。ある いは、ストラザーンは、 「人類学は、二十世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見 方からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している」と述べている(ストラザーン 2015: 26)。このことからも、認識論から存在論への移行と、多元主義からポスト多元への移 行は、別の時期に起きた別の動きだと理解できるだろう。 それでは、ポスト多元とはどのような発想なのだろうか。この発想についての最も分かり やすい説明は、アネマリー・モルが『多としての身体』のなかで行っているものだろう。モ ルは、多元主義をオランダの政治学者であるレイプハルトの提示するオランダ社会のイメ ージで語る。「オランダの社会生活は、いくつもの、共在しながら重なり合わないコミュニ ティによって編成されており」 、それぞれのコミュニティは柱のように上部に位置するエリ ートから下部に位置する者が含まれる。しかし、エリート同士が議論することはあっても、 8 他の同じ位置にある者たちがコミュニティを超えて連帯することはないという(モル 2016: 147-8 下段) 。 異なるまとまりが共存していて、お互いに重なり合うことが無い状態。これが多元主義の イメージである。モルは、このイメージでは、病院の異なる場所で実行(確認/治療/予防) される複数の動脈硬化の関係を説明できないとして棄却し、ストラザーン(Strathern 1992) を引用しながら、多元主義に代わる概念として多重性(マルチプリシティ)を提示している。 このモルの多重性という概念は、ポスト多元と言い換えていい。具体的に見ていこう。 アネマリー・モルの『多としての身体』は、オランダの大学病院において、通常ひとつだ と考えられている動脈硬化の複数性を指摘したうえで、それらが必ずしもバラバラに存在 しているのではなく、相互に重なり合いながら存在していることを示した民族誌である。 大学病院では、動脈硬化は、場所に応じて異なる複数のやり方で確かめられている。例え ば、診察室では、動脈硬化は患者が平面を歩く際に痛みが生じるかどうかによって確認され る。この際、足の温度や拍動の強さ、肌の薄さが、動脈硬化があることの傍証となる。他方 で、病理部では、血管の内膜が肥厚しているかどうかによって確かめられている。この二つ の動脈硬化の確かめ方は、それぞれ異なる物や技術によって支えられている。後者の方法を 実践するためには、切断された足を用いて標本を作製し顕微鏡を覗く必要があるが、前者の 方法にはそれらは必要ない。また、この二つの方法は、同時に行うことはできない。診察の ためだけに足を切断すれば、治療を必要とするもの以上の問題を引き起こすことになるか らである。にもかかわらず、これらの確認方法の結果が必ずしも同一であるとは限らない。 診察室では動脈硬化が疑われておらず、原因不明で死んだ患者を解剖してみたら動脈硬化 があったということもある。歩行時に足が痛むと訴える患者の足が十分に温かいこともあ る。 このような、病院で日常的に起きている、にもかかわらず極めて複雑な現象をどのように 理解すればいいのか。動脈硬化が人間の行為に先立って存在しており、実践によってその存 在が「確認されている」と考えると、異なる確認方法の結果が違うことの説明がつかない。 そこでモルは、動脈硬化を、それを「実行する(≠確認する) 」方法によって立ち現れるもの として理解し、異なる方法によって実行された動脈硬化を、同一の存在の別の側面としてで はなく、それぞれに異なる複数の動脈硬化であると考える必要があると主張する。 このようにして動脈硬化が複数性を持っていることを確認したうえで、モルは、動脈硬化 の複数のヴァージョンは必ずしも完全に別々の存在であるわけでもないと指摘する。それ は完全に同じではないが、まったく異なっているわけでもない。異なる方法で実行された動 脈硬化を相互に関連づける実践もまた、病院では行われているからである。複数の方法で実 行された動脈硬化は「一より多いが、多よりは少ない」のである。 このような動脈硬化の複数のヴァージョンの分離と重なり合いを記述するために、そし て複数の動脈硬化のヴァージョンの間の齟齬やギャップが明るみにならない理由を説明す るために、モルは、動脈硬化を実行するための様々な方法について記述していく。動脈硬化 は、足首と上腕の血圧の比によっても実行される。血管にバルーンを挿入して膨らませるこ とで動脈硬化を脇に追いやることや、歩行療法によって歩行可能距離を延ばすことも、問題 を解消するという形で動脈硬化を実行する方法である。動脈硬化が起きている正確な場所 を確定するために、より古典的な超音波検査とより侵襲的な血管造影という二つの方法も 9 用いられている。更には、60 歳以上の人口の何%が動脈硬化に罹るかというような疫学的 な実行のされ方もある。 病院では、 (1)ある方法によって実行された動脈硬化の重症度が他のヴァージョンの動 脈硬化の重症度に翻訳されることで二つのものが一つに調整され取りまとめられたり、 (2) 異なるヴァージョンの動脈硬化が別々の場所に分配されることで齟齬が顕在化するのが避 けられたり、(3)異なる二つのヴァージョンの動脈硬化の存在が互いに他方のヴァージョ ンの動脈硬化が実行される際の前提になることでお互いがお互いを含みこんだりする。こ れらの調整・分配・包含という3つのメカニズムによって、複数の動脈硬化の分離と重なり 合いが成立するのである。 モルは、この複数の動脈硬化の分離と重なり合いを多重性と呼び、それは複数の物が互い に重なり合うことなく共存している多元主義とは異なるのだと何度も強調している。複数 に見えるものが部分的に重なり合っている状態が多重性であり、ポスト多元的な状態であ る。モルは、通常ひとつだと考えられている動脈硬化の複数性を強調したうえで、それらの 原理的には複数である動脈硬化が何らかの形でまとめられるやり方に関心を向ける 20。 ここで、複数の存在の重なり合いを明らかにするためにモルが注目したのが、その存在が 実行=行為化される具体的な実践である。つまり、モルは、複数のものの関係についてスト ラザーンのように比喩を用いて説明してはいない。モルには、通常、普遍主義的にひとつだ と考えられる「自然」の複数性を強調しなければならないという課題がまずあった。ここに 比喩による連結作用を導入してしまえば、疾病(=自然)の複数性が霞んでしまうからであ る。そのため、複数の「自然」をまとめるメカニズムもまた実践=具体的なものの形で見出 されなければならなかったのである。私は、通常ひとつだと思われているものを複数化し、 更にそれをつなぎあわせることによって見出されるポスト多元的な状況を「自然のポスト 多元」と呼びたい。 実のところ、ストラザーンもモルと同じように、メラネシアにおけるポスト多元的な状況 が作り出される原理について説明している。その最も重要なものとしてストラザーンが挙 げているのが人や物の移動を通したコミュニケーションとそれに付随する彫琢である(ス トラザーン 2015: 163) 21。とはいえ、やはりこの点についての記述はモルのものと比べる と緻密さに欠けるし、どちらかというと比喩的な関係の検討に力を入れているように思え る。ストラザーンが取り組んでいるのは、通常、相対主義的=多元主義的に理解されている 「文化」をひとつにまとめていくという課題だからである 22。このように、通常は全く異な る複数のものと考えられているものを隠喩的な想像でつないでいくことによって見出され るポスト多元的な状況を、自然のポスト多元に対して、 「文化のポスト多元」と呼ぶことも できよう。 いずれにしても、一であると同時に多でもあり、一でも多でもないという、ストラザーン やモルが提示するポスト多元のイメージは、それ自体、一を志向する普遍主義的な発想を乗 り越えるものであり、同時にまた、多を志向する相対主義的な発想を乗り越えるものであっ た。そうであるならば、ここから、普遍主義的にも相対主義的にも見えるという存在論的転 回(や人類学理論一般)の持つ特徴を検討するためのヒントを見出すのも、それほど難しい ことではないだろう。「人類学は、二十世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見方 からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している」 (ストラザーン 2015: 26) 。そうで 10 あるならば、私たちはすでに、多元的な人類学理論についての見方からポスト多元的な見方 へと移行しているのかもしれない 23。 ヴィヴェイロス・デ・カストロは、 『食人の形而上学』の冒頭で、それが解説するという 存在しない書物について語っている。 『アンチ・ナルシス』という題名のその本の「目的は、 、 、 したがって、重要な人類学理論はすべて、先住民の知的実践の 翻訳 であるという主張を例 証することにある。これらの理論は、学問的にいえば、歴史的に「対象の位置」にある集合 体の知的な実践と強い構造的連続性がある。人類学の言説の変容をパフォーマティブにえ がきだすことが重要である。人類学の言説は、もともと、学問分野を変容する条件を内化し ているのである」(ヴィヴェイロス・デ・カストロ 2015: 17-8) 。 ヴィヴェイロス・デ・カストロの言うように、また、ストラザーンが実演してきたように、 あるいはヘナレ達がその可能性を声高に叫んだように、 (西洋で組み立てられた思考を対象 に押し付けるのではなく、 )人類学者もまた、メラネシアの人々と同じように人や物の移動 を通して触れた具体的なものを彫琢することで理論を作ってきたのであれば、それが普遍 主義的な志向を持っていたとしても、もはや人類学理論を一と考えることはできない。それ は、無数の「「対象の位置」にある集合体の知的な実践」と部分的につながっており、それ らがすでに含みこまれているからである。同時に、人類学者が、相対主義的な志向を持って、 どれだけフィールドの現実に真摯に向き合うことの重要性を叫んだとしても、そうして得 られた記述が、完全に相対主義的なものであるということはない。相対「主義」的であると いうことは、それ自体、ある種の一を志向することでもあるし、対象についての記述には常 にすでに人類学者の理論的な前提が含みこまれることになるからだ。 人類学における理論の重要性は、データが理論とはまったく切り離されたものとして存 在していると想定してそれを解釈することではないし、理論によっていかに西洋の哲学の 前提を覆すのかでもない。理論を用いてどのようにフィールドワークを行うのかであり、ま た、フィールドワークによってどのようにその理論を彫琢するのかであり、それをエスノグ ラフィーのなかで再演することである。その際に、ストラザーンがメラネシアの人々から引 き出してきた、 「成長、反転、切断」といった方法や、モルがオランダの大学病院から引き 出してきた調整、分配、包含といった実践は、何かしらのヒントを私たちに与えてくれるか もしれない。あるいは、私たちは、フィールドにおいて、一と多の関係を調停する、それら とはまったく異なる原理を見出すこともできるかもしれない。 4.おわりに 本稿では、エスノグラフィーを書くという実践に対して、存在論的転回から学ぶべきもの があるとするならば、それはどのようなものなのかについて議論してきた。その際、(1) 具体的なものに注目すること、 (2)人類学理論を人々の知的実践の翻訳と見なすこと、 (3) 一と多の関係を調停するメカニズムを探すこと、といった可能性に注目した。これらの可能 性は、それ自体、人類学の中のまったく新しい潮流というよりは、むしろ、 (ストラザーン がイギリス社会人類学や構造主義やポストモダン人類学との関係で自らを位置づけてきた ことからも分かるように、 )既存の人類学的な議論の正統的な延長線上にあるものでもある。 おそらく、ここで述べてきたエスノグラフィーの可能性は、自分の研究には必ずしも関係 11 ないと考える人も少なくないだろう。自分は質問紙を用いるから、インタビューのなかで言 語化された語りに焦点を当てるから、具体的なものを通じた思考について検討する必要は ないと考える人もあるだろう。しかし、そうではないのかも知れない。モルが、人々が大学 病院のなかで複数の存在を隠喩的な関係のなかで捉えている可能性については述べていな いが、このことは必ずしも、人々がそのような想像力を働かせながら生きていないことを意 味しない。特定の症例を他の症例との隠喩的な関係のなかで眺めること(ある症例を他脳症 例の変異体として眺めること)は、それほど珍しいことではないだろう。 そうであるならば、具体的なものを通じた思考は、必ずしもメラネシアの人々に限定され るものではないのかもしれない。私たちは、その性質上必ずしもうまく言語化できないかも しれないが、日常的に、物や身体や実践の固有性を維持しながら、そのイメージを用いて何 かについて判断したり、考えたりしているかもしれない。エスノグラフィーは、それらの具 体的なものを複雑性を維持しながら書くことによって、それ自体、複雑なイメージを喚起し うる具体的なもののような特徴をもったモノグラフとなりうる。その可能性に賭け続ける 人類学の重要性は未だ失われていない。 1 この原稿は現在執筆中のものなので無許可での参照はお控えください。もし、参照したいと いう奇特な方がいらっしゃったら浜田(se-rannu@nifty.com)までご連絡ください。 2 久保(2016)は、存在論的転回の学問的な背景として、 (1)ANT、 (2)在来知研究、 (3) ポストプルーラル人類学の 3 つを挙げている。 3 例えば、ストラザーンは当該論文でイメージが、言葉ではなく、人工物や人間の身体やパフ ォーマンスを通じて提示されると述べているが(ストラザーン 2016: 81) 、この発想には明ら かに構造主義や象徴人類学の影響が見て取れる。 4 ここで自然と呼ばれるものが実際のところ何であるのかには注意が必要である。古典的に は、 「ひとつの自然と複数の文化」といった場合、自然とは人種に代表されるような生物学的な ものが想起される。人間というひとつの種は複数の文化を育むことができるというわけであ る。他方で、存在論的転回でやり玉に挙げられる際には、自然は、内なる自然ではなく、体の 外側の自然について語られることが多い。生物学的な過程でさえも文化的に変容してきたとす る議論が人類学の黎明期からなされてきたこと(太田 1994)を考えると、存在論的転回におけ るこの手の論理展開には看過できない単純化が含まれていると指摘できるかもしれない。 5 残念ながら、存在論的転回に与すると思われる議論の中には、ヘナレ達のこの姿勢を共有し ていないものが含まれていると言わざるを得ない。セールを引用するまでもなく、「すべての人 類学は西洋の存在論に依拠してきたのだから、これまでのすべての研究はひとつの自然と複数 の文化を想定してきており、だから全部だめだよね」というような「煽り」は、まともに相手 にする必要がある議論だとは私には思えない。モルは、自然と社会を区別してこなかった学問 分野として地理学、建築学、医学の 3 つを挙げているし(モル 2016: 64) 、ラトゥールは人類 学を挙げている(ラトゥール 2008: 20-1) 。実際、生態人類学、経済人類学、家畜化論など、自 然と文化の区分を自明視しない研究を人類学のなかに見つけることはそれほど難しいことでは ないだろう。 6 ここで私たちは、ヘナレ達が当たり前のようなことを繰り返していることに苛立つのではな く、なぜ彼女たちがこう言わなければならなかったのかを考えなければならない。ヘナレ達が 一般的な人類学のイメージを私たちと共有しているのであれば、彼女たちは「敵」ではなく 「味方」のはずである。 「敵」は他にいる。 7 ラトゥールやデスコラの存在論に関する議論が、フィールドでの経験から生まれたものなの か、理論的な思索から生まれたのかを判定することにそれほど意味があるとは思えないが、多 くの人は後者だと考えるだろう。 12 8 他方で、それらが一致するからこそ創造的なのだという主張もあり得る(Strathern 1992: 91) 。この点については、後に再び取り上げる。 9 とはいえ、フィールドワークが理論的な枠組みに縛られていることを強調しすぎることにも また、問題があると言わざるを得ない。私たちが見たいものしか見れないのだとすれば、 (とり わけ長期の)フィールドワークの意味は大幅に減じられてしまう。この意味で、特定のテーマ に絞って調査を行うのではなく、目に入るものすべてを徹底的に調査し続けることや、フィー ルドワークにおいてただそこで生きていることの意義と可能性はもっと議論されてもいいのか もしれない。 10 「「社会」と同じように人間についてのこの形象(引用者注:dividual のこと)は、シンプル な通文化的なカテゴリーとしては機能しない。それは、同じように、欧米人が自分たちのため のイメージする世界を把握するのには不十分である。しかしながら、それは、それをもって差 異を概念化するためには役に立つ」 (Strathern 1992: 101)。 11 Thinking Through Things の編者の一人でもあるホルブラードと寄稿者の一人でありペーダー センの言葉を借りるならば、これは「物兼スケール」の物サイドにできる限り寄り添うことに よって、無数のスケール、無数の横向きの抽象化の可能性に備えておくことだと言ってもいい だろう(Holblaad and Pedersen 2008/9: 53) 。ただし、ストラザーン自身は具体的なものの汲みつ くせなさではなく、このような汲みつくせなさが存在するにもかかわらず、非限定性ではなく 有限性を強調しているように見える。 「スケールの差異を超えて、同一のデータやパターンが繰 り返す」 (ストラザーン 2015: 32)からであり、具体的なもののあいだの隠喩的な関係を強調 しているからである。 12 「「メラネシアの人々との出会いから人類学者が作り上げた知識」が「時代を超えている」 のは、……ストラザーンがハーゲンでのもともとのフィールドワークの回想をイギリスやその 他の場所における現れつつ所有の形態との生産的なアナロジーを作るために持続的に動員して いるからである」 (Holblaad and Pedersen 2008/9: 58)。 13 この点について、ヘナレ達はモンツを引用しながら、「対象を(単に分類するのではなく) 並置することによって、集めるという活動は集められた対象を変化させるという存在論的な効 果を持つ」 (Henare, Holbraad and Wastell 2007: 22)と述べている。 。 14 ホルブラードとペーダーセンは、ポストプルーラルな比較を、比較されているものがそれぞ れ変容するようなものとして提示しているが(Holbraad and Pedersen 2008/9: 51-2) 、これまでの 記述から分かるように、それは隠喩的な想像力のなかで日常的に行われていることでもある。 15 「比較するという行為そのものがつながりを作ることを構成してもいるし、隠喩的な関係を 喚起しもする。 ・・・・・・類似性を活用することがモノに価値を与える。そして、知的なもの であれ、治療的なものであれ、比較は多数性を生み出す」 (ストラザーン 2015: 158) 。そし て、比較しているのは私たちだけではない。 16 ただし、私には、この解法によって表象の暴力批判が完全に無化されているとは思えない。 このような身振りを取ることによって、人々の語りを抑圧する可能性は十分にあるだろう。あ るいは、ストラザーンの学びが正確なものであるという保証は、それが言語化されているもの でない以上、原理的に得ることができない。であるならば、その妥当性は、やはり、個別的な 研究の内容に沿って判断されるべきである。 「私は存在論的な議論をしているんですよ。そもそ も、所有的な個人は前提にできないんですよ。だから、表象の暴力の関する問題はすでに解決 済みで、ケアする必要はないんですよ」というタイプの大雑把な主張に正当性があるとは思え ない。 17 「木と笛は、西洋人の目には、人格から本来的に切り離されたもの、さらにいえば個別の人 格の身体から本来的に切り離されたもののように見える。しかし、木と笛に実際にかかわるメ ラネシア人が繰り返し語っているように思われるのは、私たちがその内側を見るか外側を見る かにかかわらず、像であれ、カヌーであれ、杭であれ何であれ、それらが人格に属すと同時に 人格以上のものだということである。それらは、人がつくりだす諸関係にとってなくてはなら ない拡張物であるという意味で「道具」なのだが、それだけでなく、肉体としての身体が、諸 関係によって構成されているのと同じように、そうした道具によっても構成されていると理解 されているのである。それらの関係(道具)は、身体に内在するものとして現れる。それらは 13 〔目鼻と同じく〕身体上の特徴である。事例のそれぞれが、この言明の全体的な比喩=形象化 を提示しているのだ」 (ストラザーン 2015: 198) 。 18 「西洋の観点では、関係が多元的な個人のあいだの外的なつながりとして空間的に表現され ないことは矛盾のように思える。その代わりに、ガリアの人間の単一性は多元性を包み込む (分割可能な)形象として概念化される」 (Strathern 1992: 97) 。 19 例えば、森田は、 「複数の文化とひとつの自然という枠組み」をプルーラリズムと呼び(森 田 2012: 15) 、1990 年代以降にこの枠組みが切り崩されてきたと主張している。グローバル化 によって空間と文化の一致という前提が崩れ、また、科学技術論によって自然と科学的事実が 人と物の相互作用を通して構築されていることが明らかにされたためである。ここでプルーラ リズムなるものが認識論の研究に、ポストプルーラルなるものが存在論の研究に重ね合わせて 議論されていることは明白であろう(ちなみに森田によるプルーラリズムの乗り越え方は、文 化と自然、人と技術いかに絡み合いながら展開しているのか、つまり特定の状況の中でいかに ハイブリッドが増殖しているのかを記述していくというものである) 。 同様に久保は、プルーラリズムを「ロボットという同一のテクノロジーが文化/社会によっ て異なる仕方で解釈される」という枠組みであると例示したうえで(久保 2015: 3)、そのよう な文化や社会に根差した比較とは異なるポストプルーラルな比較を自身の方法として措定して いる。それは、 「比較するものが比較されるものに内在する」という比較であり(久保 2015: 34)、 「比較される対象も比較する主体も互いに影響を与え合いながら常に変容していく」よう な比較であるという(久保 2015: 34)。久保によるポストプルーラルな比較の説明は、必ずし も存在論の捉えなおしの圏域に限定されていないように見えるが、ここでもプルーラリズムが 前節で述べた認識論の研究と同一のものであることは間違いないだろう。 なお、ホルブラードとペーダーセンは、ストラザーンのポストプルーラル概念をフラクタル やサイボーグと同一視する独自の注釈を行っているが(Holbraad and Pedersen 2008/9)、ストラ ザーン自身は多元主義とポストプルーラルとメラネシアの人間観の3つを並置する記述も行っ ており(Strathern 1992) 、そこでのポストプルーラル概念はより穏当なものである。この意味 で、近年の存在論的転回におけるポストプルーラルという概念の使用は、メラネシアの人々の 思考が私たち人類学者の思考に置き換わる例として理解できるだろう。 20 モルが、このような一と多の関係に思考を巡らせることができたのは、彼女が病い(意味) から疾病(存在)へと研究の対象を移行させていたいたからである(モル 2016: 25-58) 。ここ での意味から存在への移行は、医療人類学における存在論的転回の嚆矢となるものであった。 21 「特定の他社会は当該社会が変換されたものように見えるだろう。したがって、すべては他 の具体的な形式の変種に見える。それらの社会はそもそも人々のコミュニケーションの結果と して存在し、コミュニケーションを通して人々はすでに自分たちのものである考え方を絶えず 拡大したり縮小したり、古いものを新しいものに替えたりしている」 (ストラザーン 2015: 163) 。 22 この意味で、ストラザーンが多元主義からポスト多元への移行を描いているのだとすれば、 モルは、普遍主義から多元主義へ、さらにそこからポスト多元へという流れを一冊の本で実演 しきったと評価することができよう。 23 「私の関心は分析的な構築物の歴史的な位置に向いている。私たちが用いる主な構築物は歴 史を欠いているからだ」 (Strathern 1999: 143)。ここでの歴史はポストプルーラルな状況を作り 出すコミュニケーションのプロセスとして理解できる。 参照文献 出口 顕と三尾稔 2010 「序 人類学的比較最高」出口顕・三尾稔(編) 『人類学的比較再考』国立民族学 博物館調査報告 90: 1-20。 デスコラ、フィリップ 14 2015 「自然の人類学」矢田部和彦訳、『現代思想』44(5): 26-40。 2016 「自然の構築:象徴生態学と社会的実践」難波美芸訳、『現代思想』45(4): 27-45。 福井 栄二郎 2016 「つながる思考としての多配列」 、白川千尋、石森大知、久保忠行(編) 『多配列思 考の人類学:差異と類似を読み解く』、風響社、pp. 27-52。 Gell, Alfred 1975 Metamorphosis of the Cassowaries: Umeda Society, Language and Ritual. 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