ネット原住民と日本の未来

前回のエントリでネット原住民というものが存在するという話をした。ネット原住民とはリアルの世界ではなくネットの世界を中心に住むことを決めたひとたちにぼくが勝手につけた呼び名だ。


ネット原住民というものはどういう性質をもっているか、今後、どうなっていくとぼくが予想しているかについて今回は書いてみたい。


ネット原住民とは基本的にはリアル社会から疎外されているひとたちである。リアル社会からネット社会にうつる理由はさまざまでリアルに居場所がないからというひともいれば、ネットのほうが純粋に楽しいからというひともいる。だが、やはりいまの日本はそれでもリアル社会の吸引力は強いから、主流は前者だろう。そういう意味でネット社会はある種のリアルで生きづらい人間のふきだまり的に集まったという側面をもっていて、ある種の連帯感は強いものの個別にはそれほど強固な人間関係で結ばれているわけではない。敵にまわすと恐ろしいが、味方にすると頼りないと例えられる彼らの習性はこのあたりに起因するとぼくは思う。


彼らはリアルな世界から見下されていると自覚はしているが、実は彼らは彼らで楽しくやっていたりして、それほど、リアルな世界にコンプレックスを持っているわけではない。むしろネット原住民のほうがある面ではリアルの住民たちを見下していることは注意しなければいけない。それは彼らがたまたまふきだまったネットという新天地が、人類のつくりだした楽園であって、そこに人類の未来もありそうだというのを彼らは分かっているからだ。そして彼らはそこでは先住民であり、オピニオンリーダーなのだ。だから、彼らはやっと手に入れた安息の場所であるネット世界をリアルな世界の人間に奪われるのには猛烈な反発をする。


このあたりのネット原住民の心性を説明するいいモデルを、つい今週に発見したので紹介する。それは風の谷のナウシカだ。人類が恐れ忌み嫌っている猛毒の腐海がネット社会の中心であり、そこに住んでいる蟲たちがネット原住民だ。人間が恐れ近づかない腐海だが、蟲たちは実に平和で幸せそうに暮らしている。彼らは決して人間の侵入を許さない。彼らに害なす人間か、むしろ人間でも味方なのか、それを判別する知能はあまりもっていない。とりあえず、まず怒る。すぐ怒る。そして王蟲のような先導者といっしょに暴走を開始するのだ。眼を真っ赤な警戒色に染めた蟲たちの暴走はもはや町を完全に滅ぼすか、自分たちが力尽きるまでやむことはないのだ。そしてそういう彼らの住む腐海の底には清浄なる大地、人類の未来が横たわっているのだ。


さて、そういうネット原住民は今後どうなっていくのだろうか?まずネットの社会への浸透にともない人数は増えることはあっても減ることはないとぼくは思う。ただし、ネット原住民のありかたはずいぶんと変化するんじゃないかと予想している。いまの主流のネット原住民はリアルとネットが融合する過渡期に存在する特殊なタイプじゃないかと思っているのだ。おそらくはネットとリアルの住民の混血が増えていくのだと思う。生物学的な意味においても現在主流のネット原住民は繁殖力に乏しく子孫を残しにくい。嫁や彼氏は二次元を好む傾向があるからだ。ただし、いまのネット原住民は生物学的な遺伝子は残さなくても文化的な遺伝子ミームはネット社会に大量に供給するだろう。ネット原住民はミームの媒体としての繁殖力は人類の中でも最強で、ネット文化の中心は間違いなく今後もネット原住民だ。


ネット原住民のことを理解するのは、ネットの未来を考えるためにはとても重要なのはあまり異論はないだろう。ぼくはそれだけではなく未来の日本の運命を決めるのもネット原住民の影響は非常に大きいと思っている。


いまの日本のおかれている状況を考えるに、いずれ数年以内に大変な危機が世界規模で訪れるのは、ほぼ間違いないと思う。そこで日本がどうなるか。そしておそらくだれもどうしていいかわからない事態になる。一挙に世代交代が起こるのはそういう大危機のときだろう。いまの若い世代が世の中を動かすようになったときに、世の中のことを真剣に考えているひとたちは、ほぼネットで情報発信をしている。そんな時代は、きっとネット世論が日本を動かす。そのときのネット世論の底辺がリアルな社会への憎悪で満たされているとしたら、とても悲しいことが起こるかもしれない。


そのときのネット原住民の暴走は下手をすると日本を破滅させる方向への原動力となる可能性があるのではないかとぼくは思っている。あるいは長い目でみれば日本はいったん破滅したほうがいいのが本当なのかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、そこから日本が這い上がるためにも、ネット世論に理性ある議論がされる場をつくることが、決定的に日本の未来にとって重要ではないかとそう思っているのだ。