竹内好の「中国」は、今でも問題なのか?

子安宣邦先生が、竹内好に関して、以下のようなツイートをされていました。以下は、子安先生に対する批判ではなく、今日において竹内好が言及される文脈への感想です。







子安先生の言うとおり、竹内は〈人民中国〉のなかに、「あるべき近代化」の形を見出し、軽薄な日本の在り方を批判していました。「日本文化は型としては転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う」という表現の強烈さは、「転向」という語の持つ蔑みの含意を共有しない今の若い人にはおそらくわからないと思います。
しかし、彼の語る〈人民中国〉は、当時の中国の実態とはかけ離れた「幻影」でした。今から見れば、竹内は、ほかの文革を賛美したひとびと同様、大失敗だったといえます。
中国のもろもろの革命をほめたたえ、そこに「ホンモノの近代」を見出す姿勢は、もはや「中国」に幻影を持たず、同時に「近代」にも積極的な価値を見出さない、現代から見れば滑稽至極です(それはそれでどうよ、と思いますが)。当時の中国認識は、情報不足のために誤っていたのです(これを今いっちゃうとアンフェア至極だよねえ)。

というわけなので、「〈中国独自的近代化論〉の破産」はもはや十分に明らかなのではないでしょうか。ポジティブな意味での「中国」と「近代」というフレーズはもう存在しないように思います。どちらも、残念ながら、もはや魅力のない言葉です…。

そもそも「「毛沢東的中国」像の呪縛」ってなんでしょうか?
子安先生は、ご自分のホームページに以下のような文章を載せられています。

 戦後日本には多くの親中国派というべき知識人がいるのではないか、彼らの存在こそ日本と中国との本質的な関係を築くためのものではなかったのか、という詰問ともいえる声が私にも聞こえます。中国研究者竹内好に代表される親中国派知識人は、冷戦下日本の日米関係を基軸にした戦後日本の国家計略へのオールタナティヴをなす道を提示し続けました。それは人民中国の承認とアジアの諸民族との連帯からなるアジア民族主義というべき道です。ことに竹内による毛沢東の新民主主義的革命とその成果として成立した人民中国との全的承認からなる中国観は、戦後日本の中国研究者をはじめとする革新派知識人に広く共有され、彼らの世界認識・歴史認識の上に大きな影響力をもちました。

 この毛沢東と人民中国への強いシンパシーをもった中国観は、戦後日本における〈人民中国の特権化〉を導いたと思います。人民中国は彼らの世界認識・歴史認識における基軸として特権化されていったのです。この〈人民中国の特権化〉は、日本と中国との本質的な関係を築く上で果たして積極的な意味をもったのでしょうか。私はその点についてきわめて懐疑的です。戦後の冷戦構造が日本の革新派知識人にもたらした〈人民中国の特権化〉、そして今なおもち続けられているそれは、21世紀の現在、一党的支配からなる国家官僚主導の資本主義的大国中国の惰性的な承認をただ導くことでしかないと思います。それは日本と中国とが本質的な関係をもつことをむしろ妨げ、本質的な関係を要求している虚偽と抑圧の事態を見えなくさせているのです。それは私が20世紀の日中の関係史に継承すべきものとして見出す〈アジア主義〉では決してありません。私がいう〈アジア主義〉とは、日本と中国とが自己革新を共にすることによって見出していく真の連帯です。この連帯にこそ日本と中国との本質的関係はあるといえるでしょう。

個狸的には、竹内好が欲したのは、単なる「人民中国」の称揚ではなかったと思います(77年に死んだ竹内が、文革をどう思っていたのかはしりませんけども)。それに、昔、革命を褒めちゃったので、今の共産党を黙認しているというひとがどれくらいいるでしょうか。20年くらい前まではそういう人々がいて、彼らが竹内好の読者であったこともけっして否定はしませんが、2012年においては、日本における〈人民中国の特権化〉こそが、むしろ『幻影』であるように思います。竹内よりももっと有名で碌でもない「親中国派」はけっこういそうですけどね。

明治維新にしても戦後にしても徹底的に戦わずにコロリと負けてしっぽ振ってるとかあり得ない。「近代の超克」はあっさりコケたが、日本は世界に対して何か理想を提示しようとしていたのではないか。日本は、自らある価値を世界に顕示しえたのではないか。もっと苦闘すべきではないのか。降ってきたものにヒョイと乗ってしまうのではなく、自ら苦闘して価値を見出していくべきではないのか。
竹内好は「自力」主義者であったとおもいます(このマッチョさが、実は個狸的にキツイんですが)。竹内には当時の「中国」が「自力」で奮闘しているようにみえただけで、魯迅に出会わなければ別に「中国」でなくてもよかったのではないでしょうか。時期的にインドやベトナムだった可能性は否定できないですよね。中央アジアは本人が辞めちゃったわけですけど。
子安先生の『江戸思想史講義』や『方法としての江戸』は、態度ではなく、実際の知識や情報の位置づけをめぐる作業(ものすごくスリリングですよ!)だと記憶しているので、意識していても、竹内好とは目的が違うんだなあ、ということを勝手ながら感じました。世代なんかな。

子安先生がケチをつけたい「戦後のなにか」が存在し、今でもまだ存在していることはよくよくわかります。イラッと来るのもとてもわかります。しかし、その戦後左翼知識人が抱えていた何か、は戦後のどこか(バブルのあとくらい?)にいったんマジョリティーになったのち、もう時代遅れになり、団塊以上のお年寄りの繰り言となっているように思います(いまは年寄が多いんでまだまだ目立ちますけど)。今更それを批判しても、勝ち馬に乗っているようにしか見えません。

唐突ですが、西尾幹二はなかなか偉かったなあ、とおもうのは、当時はまだ穴馬にすぎなかった「戦後批判」をしたことです(別に彼の主張には同意しませんし、意識的に時期を選んだわけでもないのだろうと思いますけど)。いま、同じようなところにケチをつけても(いかに洗練された言及であったとしても)単勝1.5倍を切った馬券みたいなもので、結構アンパイだと思われるでしょう。ま、単勝1.5倍といっても、支持率は50%を超えたくらいだし、実際の勝率も支持率にだいたい近似するみたいですから、実はあんまりアンパイじゃないんですけど。

ツイッターを眺めていて、ジェネレーション・ギャップを感じたというお話でした。個狸的なわがままを言えば、流れに掉さしてる話よりも、もっともっと先の話、もっともっと想像の右ななめ上を行くような話を読みたいなあと思っているのです。

現状には、残念ながら“絶望”しかありません。左翼が減っても増えても、原発が動いてても止まっていても、若者にも子供たちにもどうせこのさき、お金も仕事もないのです。放射能wwでガンになる前に過労死か餓死だよな…。といっても別に誰かが悪いわけじゃないし、この先どうなるか(ホントに“絶望”なのか)ホントにわかんないんでねえ。しかし、とりあえず何とか死なないように食いつないでいかないと、次の流行も見れないので、連休明けでだるいけど仕事(さぼってブログ書いたり)してるわけで。

ところで、いま中国に留学しているひと(仕事でいってる人除く)で、どれくらいの人が竹内好を知っているのでしょうか…。
まあ、あんまりいないでしょうな。「世代が違うんだね。」(『日本とアジア』文庫版をご参照ください。)

★追記 5月8日
読み返してみると何言いたいんだかよくわからんので、自分でまとめ。
主張1:竹内好をあげて「親中国」とか、「毛沢東的中国の呪縛」といっても、いまどき「中国」に幻想懐いてる人なんていない。つか、なんで竹内?
主張2:竹内は、「自立」主義者なので、そういう態度は好きな人は好きでしょう。今後も定期的に再評価されると思う。
主張3:竹内はともかく、いまになって戦後の心情左翼批判しても、アンパイすぎてつまらない(たとい内ゲバでも)。「自立」主義批判なら面白いけどね。アングロサクソン的西洋近代万々歳、コバンザメでなにが悪いとか。
以上です。

日本とアジア (ちくま学芸文庫)

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竹内好という問い

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江戸思想史講義 (岩波現代文庫)

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方法としての江戸―日本思想史と批判的視座

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方法としての中国

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