発達障害「から」考える。

発達障害「から」考える。

2011.8.10 update.

内海 健…東京藝術大学保健管理室・精神科医 / 綾屋紗月…アスペルガー障害当事者 / 熊谷晋一郎…脳性まひ当事者・小児科医

内海健氏は1955年生まれ。東京大学医学部卒業後、東大分院神経科で臨床に従事。帝京大学医学部精神神経科学教室を経て現在に至る。2000年に発行した『うつ病新時代 ――双極性2型障害という病』(勉誠出版)は、鋭い社会批評と精神医学への深い洞察で名著の誉れ高い。
綾屋紗月氏は1974年生まれ。東大先端科学技術研究センター研究者支援員。2008年に『発達障害当事者研究』(医学書院、熊谷氏と共著)でデビュー。その後『前略離婚を決めました』(よりみちパン!セ)、『つながりの作法』(NHK出版、熊谷氏と共著)を刊行。
熊谷晋一郎氏は1977年生まれ。東大先端科学技術研究センター特任講師。上記綾屋氏との共著のほか、『リハビリの夜』(医学書院)で新潮ドキュメント賞受賞。

★★ 発達障害「から」考える。★★

 

 

  

 

「語れる人」のインパクト

 

――内海先生はこれまで統合失調症やうつ病を中心とした精神病理学をやってこられたわけですが、「発達障害」に大きなインパクトを受けたという話を少し前にお聞きしました。それならぜひ『発達障害当事者研究』を書かれた綾屋さんと熊谷とお話していただければ、と思って今日の鼎談を企画しました。

 

内海 お二人の『発達障害当事者研究』を読ませていただいて、「ああ、こういうことなんだ」と納得することができました。すごくよく描写されていますね。

 もう1つ驚いたのは、べてるの家の話のところでの、統合失調症の幻聴の理解のされかたです。いまどきの精神科医は、それこそDSM世代ともなると、そこまできめの細かいところはわからないでしょう。べてるの家の仲間は、医者や看護師よりも鋭敏に、いま誰それさんに幻聴があったんじゃないかとわかる。ところが自分のはなかなかわからない。後で医学の文脈の中に入ると、「自分はあの時、声を聞いていた」という文法で語らされてしまう。本当は、そんな文法に則った形で聞いていたわけではないと思いますが。

 たぶん、綾屋さんの幻聴は、統合失調症とはちがって、初めから文法に則っているのではないですか。

 

綾屋 私の場合は、あくまでも自分の考えが音のイメージで聞こえてきているのだとわかっているけれども、それにしては他者性の強い声がよく聞こえます。その声と自分が対話することもできるので、それをヒトリタイワ(一人対話)と呼んでいます。いっぽう、他人の声としてすごくはっきりと、まるで啓示のように聞こえた体験は、せいぜい過去2~3回程度です。

 

内海 むしろ典型的な統合失調症の幻聴は、そんなにはっきりと聞こえないんじゃないでしょうか。医療化されていくなかで、そういう語りになって、経験もそういうふうに象られていくけれども、そんなにきちんとは聞こえないのではないか。それ対して解離の幻聴は、クリアに聞こえるものが多いといわれます。

 

綾屋 そう言えば先週も知り合いの編集者の声で、「泣きゃあいいってもんじゃありませんよね、あはは~!」というフレーズが、フラッシュバックみたいな感じで突然はっきり聞こえてきて、ハッとしました。

 

――「当事者研究の研究」のセミナーで、綾屋さんが発表中に涙ぐんだときですね。

 

綾屋 はい。「あっ、この話し方と声質は○○さんだ」とわかるんです。これは笑い話になると思って、その後すぐにその人に伝えました(笑)。

 

内海 それはほんとうに言ったように聞こえたのですか?

 

綾屋 はい。「幻聴」と言われる現象と同じなのかどうかはわからないですが、かなりはっきりその場で実際に言われている感じです。夢を見ているのと同じように、「あの人が過去に似たような場面で似たようなことを言った」という記憶から、勝手に合成しているような気がします。

 

――べてるでいう「マイナスのお客さん」みたいな感じですか?

 

綾屋 それぐらいなのかもしれません。でも、記憶の合成という感じではなく、はっきりと声が聞こえたこともあります。熊谷さんと10年ぶりに再会するときです。その日に行われていた手話サークルの同窓会に行けば熊谷さんがいるとわかっていたのですが、でも法事の後だったので疲れたしどうしようかと行くのを迷っているときに、すごくはっきりと「あなたの今後の一生に関わってくるから絶対に行きなさい」という声が聞こえました。あんまりはっきり聞こえたので「これを無視したら怖い」と思って、喪服のまま重い身体を引きずって出かけました。その再会をきっかけに一緒に活動することになって現在に至るので、まさに啓示っぽい感じですよね。

 

内海 こんな直接的な聞き方をするのも何ですが、誰の声なのですか?

 

綾屋 誰の声という感じでもなく、自分の声でもなくて、外から聞こえてきました。すごく低くてはっきりした、男性とも女性ともつかない声だったんです。「えっ?」とあたりを見回すくらいにはっきりした声だったので、今でも不思議な気がしています。それこそ疲れすぎによる解離状態みたいなことだったのかもしれないのですけれども。

 

内海 最後の「解離」のところだけ医学的な説明だったけれども、その他のことに関しては、ほとんど完璧に自分の言葉で語られているじゃないですか。ぼくはときどき若手の精神科医に「直接体験にアクセスできるのは患者さんのはずなのに、どういうわけか、医者の側の理解が正しいとされるのが今の精神医学の構造なのだ」と投げかけます。なぜそんなことが許されるのか。これはしっかり考えないといけないことです。今後、精神医学はおそらく変わるでしょう。一方的に医療の側から記述するというのではなくなるのではないでしょうか。

 もちろん患者さんに限らず、自分の体験は完結したものではなく、それを聞いて、さらにはそれについて語ってくれる他者を必要としています。だけど今までの精神医学は、患者さんにとって必ずしもよい他者ではなかった。社会もまたよい他者ではなかった。だけど、いまの綾屋さんはきちんと一貫性をもって話されるわけで、他者からこうだよと言われる必要はない。

 私が発達障害について勉強する一つのリソースが自伝なんです。ドナ・ウィリアムスとかテンプル・グランディンとか。いわゆる医学の側から書いたものよりも自伝のほうがよほど私は勉強になった。「当事者研究の可能性」とぼくの疾病に対する学び方の変化とは、パラレルに動いている感じがします。

 

 

聴覚・視覚の問題から考える  

 

綾屋 ちょっと補聴器をつけてもいいですか?

 

内海 あ、ごめんね。声が小さかったかな。

 

熊谷 綾屋さんは最近、補聴器を研究しているんですよ。こういう反響音の強い部屋だと、人の声だけじゃなくて反響音も一緒に聞いてしまって、声が聞こえないのだそうです。

 

内海 『つながりの作法』で書かれていたドリブル状態ですね。ノイズキャンセラーヘッドホン、あれはどうなのですか。

 

綾屋 私が試したものは、なんだか耳の中をぐるぐるとかき回される感じがして、めまいで気持ち悪くなり、すぐにはずしました。

 

熊谷 ノイズを打ち消すような音を発生させているタイプのものは、打ち消すために発生した音自体がどうも合わないようです。綾屋さんが今つけている補聴器は、全体的に20デジベルぐらい音を聞こえなくさせて、そこから聞きたい波長の音だけを20デジベルアップさせています。

 

――楽ですか?

 

綾屋 ある環境においては楽になるんですけれども、自分の声が大きくなりすぎてしまうのでかえって負担になる場面もあります。

 

熊谷 完全に密閉すると、自分の声の骨伝導が目立ってきてしまって、今度は自分の声がうるさすぎる状態になってしまうそうです。

 

綾屋 ……ああ、だめだ。いまは自分の声が大きすぎます。騒音時に相手と自分の声がちょうどよく聞こえるように設定しているので、今ぐらい静かですと自分の声がうるさくなりすぎてしまうのです……むずかしいですね。ほかにも、条件がうまくそろえば相手の声の反響音だけをカットしてくれるので聞き取りやすくなりますが、相手の話す声が小さかったり高かったりすると、相手の声のすべてをノイズと判断してカットしてしまうのが問題点です。

 

熊谷 いま音声認識の人たちと一緒に研究をしているんですが、聴覚情報だけだと音声とそれ以外を分ける技術がすごく難しいらしいんですよね。人間が音情報の中にまぎれこんだ人の声を抽出するときには、聴覚情報の処理のみではなく、人が口を動かしているとか、うなずいているとか、そういう人の動きの視覚情報を同時に参照して、動きと同期した聴覚情報だけを音声と見なして拾うという情報処理をしています。ですから、聴覚情報だけを調整する補聴器だとなかなか難しいところもあるのでしょう。

 

内海 聴覚のことは知らなかったけれども視覚はそうですよね。17世紀末に「モリヌークス問題」という議論が起こりました。先天盲の人が手術によって視力が回復した場合、どんな見え方をするか、という問題です。具体的には「奥行きがわかるのだろうか」という話です。

 ぼくらはふつう奥行きは目で知覚していると思っていますが、視覚だけだったら明るさと色しか見えないはずですね。奥行きはどのようにして知覚されるようになるのかということをめぐって、ロック、バークリー、ディドロ、コンディヤックなどが議論しているのです。

 

熊谷 奥行きについても、綾屋さんの当事者研究で面白いものがあります。綾屋さんは、はじめて入る場所、見慣れない喫茶店などでは、奥行きが喪失して平面状になることがあるのだそうです。しばらく困るのだけれども、そういうときに綾屋さんはおもむろに左右に首を振るんですよね。

 

綾屋 「エコーロケーション」と言うそうですが、反響音を頼りに壁の遠さや堅さを感じとることで、空間の広さを把握しています。その耳から得た空間情報と目からの平面情報をチューニングするのです。それと同時に視覚情報だけのチューニングもしています。首を動かして角度が違う静止画像をいくつか取り込むことで、それらを合成します。この2つのチューニングによって、だんだん奥行きの推測がつくようになり、視界がにょにょにょにょ~んと奥に伸びていきます。

 私はよく「自分がいない」と思ってしまうのですが、それはこのように五感からの情報がばらばらに入ってきて統合するのに時間がかかるため、自分の行動に対するフィードバックが、予想外だったり戻ってこなかったりすることが原因だと思っています。自分の声や動きが思いもかけない感じであったりするときにはいつも、この世界に自分がいるのかいないのかわからなくなり、自信を失います。

 

熊谷 わりとしょっちゅう「いま消えた」「ブレーカーが落ちた」みたいなことを言われますよね。綾屋さんのおっしゃる「自分がいなくなる」という状態はどのようなものなのか、私にはずっと謎でした。

 

綾屋 私にはよくあることなので謎というほどではないですけれども……。人の中での疎外体験によって自分がいなくなる感覚ならば、誰にでも心当たりがあるかもしれません。その疎外感が、私の場合はそもそも、モノや自分の身体との関わりにおいても生じているというわけです。

 

 

ほとんど「悲しい」

 

綾屋 そういえば熊谷さんが最近、「綾屋さんは不快感情が動いたとき、ほとんど『悲しい』になる」って言っていましたね。

 

熊谷 綾屋さんは痛いことや不快感が生じたとき……たとえば足をぶつけたときとか、お腹がすいたときなどですが、わりといつも5秒後ぐらいに「悲しい」という感情が出てくることが多いんじゃないですかと。

 

綾屋 痛いときに痛いだけじゃなくて悲しくなるのはふつうだと思っているから、そう言われても「えっ、何が違うの?」という感じなので、わかりにくかったです。

 

内海 ぶつけた後に痛みがきて、5秒後に悲しくなる?

 

綾屋 痛みは「イテッ!」くらいですけど、その後にじわーっと悲しみがきて、「また私だけこういう目に合っている」という判断がその後にきて、「私は世界から見捨てられている」といったサイクルに突入していく感じがあります。

 

内海 あて推量なんですけれども、さっきのモリヌークス問題に対するコンディヤックの解答はこうです。綾屋さんの場合は視覚と聴覚を使いエコーロケーションを合わせることで奥行きがわかるのだけれども、コンディヤックは触覚が必要だというのです。触るから、こういう形をしているんだなとぼくらはわかるけれども、もし触るという体験なしに見るだけだったら明るさと色しかない。触覚がなければ我々は奥行きはみえない。

 触覚は最初にわれわれを触発する感覚としては一番確かな感覚といいますか、志向性がはっきりしている感覚です。自閉症の赤ちゃんを抱いたら物のようだとか、すごく重いとよく言うでしょう。母さんが抱くというときは、物を持っているのではなく子どもに向けて(意識はしていないけれども)触覚を与えているわけですよね。それに対して子どもも反応して、環境からのアフォーダンスに合わせて抱かれている。この触覚の受け渡しで「自分の核」みたいなものができてくるのかもしれません。

 でもこの「自分の核」はまだぼんやりしたもので、それがはっきりするのは、「分離される」ということを通してなんです。人間は子宮から出され、離乳したり、親が視野から見えなくなったり、切り離しというか、喪失の連続ですよね。綾屋さんの話を聞いていてふと感じたのですが、刺激を受けて痛いと言うときに自分というものが触発されて、「分離され」、そして悲しくなるのかなと。連想なんだけけれども。

 

綾屋 同じ話かどうかはわかりませんが、痛みが強いときに身体がふわっと軽くなって自分から離れる感じはあります。その感覚は、自分がどうなってしまうかわからなくて「怖い」という気持ちに直結しています。かつて出産のときも身体がバラバラになってなくなる感じがして、怖くて過呼吸のパニックになりました。

 でも悲しいというのは、この「身体が離れて怖い」という気持ちから引き出されるものではありません。言葉が合っているかどうかわからないですけれども、まず痛みの刺激というインプットがやってきて、その5秒後にじわーっと「悲しい」が来るのは身体のアウトプットという感じがします。痛みの刺激が直接「悲しい」をもたらすのではなく、刺激を押しかえす反応として、後からじわじわと内側から痛みが増していくときに「なさけなくて悲しい」が一緒に到来するのです。

 

 

慢性疼痛という補助線を引いてみる

 

熊谷 自分の話なんですけれども、最近慢性疼痛に興味関心をもって研究をしています。なぜかというと、脳性まひの人によくあることなんですが、私も30歳を越したときからあちこちが痛くなる経験をしたのですね。なんで痛いのか、MRIを撮って調べても原因ははっきりしないのです。でも痛みは続く。理由もわからずに痛いというのは怖いことです。へたに体を動かしたら取り返しのつかないことになるんじゃないかと、いつもおびえている状態になります。その結果、ほとんど身体を動かさないで、日がな一日寝こんでしまう。

 このような状態に陥った時、人はどうすればいいのか、人には何が起きているのだろうかと思って、調べたり研究しているところです。その研究の中で、ちょうどいまの議論とつながるような話があります。それは、構造的な痛みの原因がなくなった後も、痛みが「記憶」として残ってしまってそれが何度も蘇るという、「慢性疼痛」という病態についての最近の研究です。

 慢性疼痛において、痛みの記憶が貯蔵されている場所は内側前頭前野というところなんですが、そこは「自己」に関する情報の中枢と言われていて、自己にまつわるこれまでの記憶を貯蔵する場所でもあるそうです。たしかに経験からも、慢性疼痛のときは、意識が自分に向かっていて、自分の内部や自分の存在を見ている。あまり意識が外に向かない感じがするんです。

 慢性疼痛を治すためには、自己に向きすぎている意識を外に向けたり、行動を起こしはじめることが必要らしいのです。「自己」と「痛み」と、触発によって「分離される感覚」、この3点セットが緊密な関係にありそうだなと思っています。そんななか、最近、綾屋さんの関わっている発達障害のグループで、「実は大人の発達障害者には慢性疼痛の合併が多いんですよ」といった話を聞き、「ああ、やっぱり」と思いました。

 綾屋さんの「自己がすぐにいなくなる」という困難と、「痛みの5秒後に悲しくなる」ということの間には、何らかの関係がありそうな気がします。たとえば私の場合、足をぶつけた直後に来る感情は「悲しい」ではなく、怒りのことが多いです。

 

内海 怒りですよね。

 

熊谷 自分に向うのではなくて、「ちくしょう!」と、外の原因に対してアトリビューション(帰属)する。

 

内海 理由がなくてもね。

 

熊谷 痛みの原因を外在化させながら痛みを処理するのが、急性疼痛的な原因帰属のさせかたです。だけど綾屋さんの場合、足をぶつけたのは綾屋さんのせいではないのに「こんな私はダメだ」となるのは面白いと思う。

 

綾屋 動かないモノに自分の足がぶつかるのは私のせいでしょう? 外に怒りが向かうというのを聞くたびに、いつもびっくりする。今もあらためてびっくりしました(笑)。

 

内海 慢性疼痛の場合どうなるかわからないけれど、ヴィトゲンシュタインなんかが痛みは私的言語では語れないと言っていますね。彼は、言葉を自由に勝手には使えないということを発見してびっくりしたわけだけれども、痛みがわかるには文法が必要である。ある型で表現しなくてはいけないということです。

 痛みは私秘的な感覚ですから自分でしかわからない、だけど他方では公共的なルールに則らないと表現できないわけです。自分と他者、あるいは社会というのがガチャンとぶつかるところかもしれません。

 

熊谷 大澤真幸さん(社会学者)と対談したときも同じ話が出ました(『現代思想』2011年8月号参照)。大澤さんは、どのような物語にも回収できない、つまり公共的な言語では語れない痛みが、もう一度人々が連帯するための希望だという話をされていた。私は、それはその通りだと共感しつつも、他方で痛みは、「どうせ自分の痛みは誰もわかりっこない」というかたちで、連帯とは逆の方向へと個人を陥れるものの代表例でもあるだろうと感じました。ではどうやったら痛みが連帯の希望のほうに転じるのか。それにはいくつか条件があるのではないかということで議論が膨らんでいきました。

 

内海 大澤さんの場合は身体的な痛みなのかどうか。苦痛ならばまだわかるのですが。

 

熊谷 身体か、心理か、分けられないような、慢性疼痛の段階に近いかなという気はします。

 

 

志向性と同調性

 

綾屋 内海先生は現場で診察される中で、いわゆる「精神疾患」と発達障害の関連性についてどんな印象をお持ちですか?

 

内海 統合失調症と発達障害は近い関係にあると言われたりしています。もともと自閉症はオーティズムという名前で、ブロイラーが統合失調症という病気を記述したときに大事な症状として書いているのですね。カナーは「自閉症」の命名でそれを踏襲したわけです。ブロイラーのオーティズムはネガティブな意味ではなくて、豊かな想像の世界をもっているというような意味合いが結構あるんです。最近精神医学では陽性症状、陰性症状というような雑駁な分けかたをするのですが、それでいえば陽性症状に入ります。つまり、活発な想像の世界のなかに没頭しているということです。いずれにしても、二つの病態は近いと言われてきました。

 だけど私は全然違うものと考えるべきだと思っていて、そのポイントは幾つかあります。ひとつは志向性に対する気づき。統合失調症の人はあまりにも気づきすぎてしまうところがあって、それで内面がめくれあがるような脅威を感じています。発達障害の場合は――実際の当事者の方がどうおっしゃるかわからないのですが――、実際の事例や手記とかを読んでいると、自分に向かってくるベクトルになかなか気づきにくいということがあるんじゃないかと。他者からの志向性に対する様態に着目すれば、統合失調症と発達障害ではまったく逆になります。ここがいちばんの鑑別点だと思います。

 ただ、こうした鑑別以前に、私は発達障害に関しては、ソーシャルな問題がいちばん重要ではないかと思います。一言でいえば、社会病理がいちばん大きい。お二人もそういうふうに書かれていて、ああ同じだなと思いました。

 

綾屋 内海先生の『うつ病新時代』(勉誠出版)を拝読して、学生時代に「自分は“メランコリー型”というものの記述にだいたい当てはまるからこれなのかな」と思っていたことを思い出しました。何か大きくてゆるぎないものを見つけて、それを信じてしまうことで「これでもう大丈夫」と安心したいと考えていた不安定な頃の自分は、メランコリー型と言えるのかなと思ったのですが、熊谷さんに聞いたら、メランコリー型はもうちょっと別の感じなのだと言われました。

 

内海 メランコリー型は、字面だけみれば当てはまる人はたくさんいるのですね。たとえば、人に気をつかう、几帳面、あるいは秩序を重んじる。ただ、すべての前提のなかに「同調性」というのがあるんです。環境とか、社会、人と共振しやすい、一体感を持ちやすいというのがベースにあって、そのうえに出てくる記述です。そういう隠れた前提がある。精神科医でも間違う人がけっこういますね。

 

綾屋 なるほど。私は同調性からはむしろいつも外れている感じがあったので、その隠れた前提には当てはまりません。「メランコリー型に入りそうで何か違う」と感じていた理由が、いまわかりました。

 

内海 発達障害が社会性の要因がいちばん大きいということと関連するのですが、メランコリー型というのは、大澤真幸さんのいう「第三者の審級」がまだしっかり存在していた時代の話なのです。だから1960年代から1970年代にかけて注目されたわけです。第三者の審級があるということは、秩序や「コード」が設定されていることを、みんなが当然だと思っていている状態です。

 その第三者の審級が衰弱すると、今度はそのつどその場にチューニングしていかなくてはならない。周りに合わせていかなくてはならない。だから同調性の人にとってみれば、「こうやっておけば大丈夫だ」「一生懸命に仕事をしていればいいんだ」という今までのやり方が通用しなくなっている。そのつど、人の顔色とか、ご機嫌とかをみてやっていかなくてはいけないというしんどい状況です。

 メランコリー親和型が中心だった時代から、だんだんとらえどころのないうつが増えていくという変化の背景には、そういう社会の変化があると思います。おそらくは、発達障害の人にも、同じような問題があると思います。コードがないので、そのつど合わせていくように強いられるのは大変ですね。

 

 

「まなざし」は二次的な問題にすぎないのではないか                  

 

熊谷 うつから発達障害のほうへ話を持っていくと、綾屋さんと私は、発達障害の定義とされている「社会性の障害」「コニュニケーション障害」「志向性を感じにくい」「まなざしを感じにくい」などの特徴記述は本当かなと疑問に思っているのです。綾屋さんは、「社会性の障害ではない、コニュニケーション障害ではない、まなざしの問題ではない」というところから『発達障害当事者研究』を書きはじめた。ここに旧来の定義とするどく対立する部分があると思うんですね。

 たとえば、大阪大学の村上靖彦先生は「視線触発」という言葉をもちいながら、自閉症児は、他者のまなざしに過敏性があるか、もしくはまなざしに気づかないといった形で現れる、他者から向けられる志向性への特異な感受性があり、それが根本の問題であると現象学的に記述しておられます。しかし、視線触発という言葉を使うときに前提とされている「自閉症者にまなざしを注ぐ他者」は、自閉症者からはまなざし返されることのない特権的な位置におかれているように思います。そのようなまなざしの非対称性が組み込まれた状態で、自閉症者だけに「まなざしの感受性の問題がある」と記述してしまうと、「コミュニケーション障害」や「社会性の障害」という通説と近接してしまうのではないかという気がしているんです。

 たとえば、私は自動車を運転した経験がありません。そうすると、車社会のルールを知らないというか、体得していない。どちらかというと綾屋さんのほうが車に乗る経験があるので、いま運転手がどこにまなざしを送っているのかが、私よりもよくわかるのです。私の電動車いすの後ろに綾屋さんが乗って移動していると、熊谷の運転の仕方がいかにあぶないか、空気を読めていないかがわかると綾屋さんに言われます。

 つまり「まなざしがわかる」とか、「視線触発される」という現象の背後に、もっと根本的な次元で「身体を乗りこなしているかどうか」という問題があるんじゃないか、と思うのですね。自動車を乗りこなしていれば、自動車という身体を手にして自動車社会のまなざしのネットワークの中に入れるのだけれども、初心者ドライバーだとハンドルのさばき方だけで精一杯で、外に意識を向けることがままならないということがあるでしょう。それとまったく同じように、仮に身体が乗り物だとすると、自分の身体の操縦だけで精一杯で、身体の外にある、人と人とのまなざしのネットワークみたいなものまで「気が回らない」ことだって十分にありうるのではないか。それが正しいとするならば、あくまで視線触発の特異性は二次的なものであって、おおもとにあるのが、身体内部の声を縮減できないということではないかと思うんですね。

 ここは、村上先生と綾屋さんの当事者研究が異なるところといえるのかもしれません。つまり、まなざしへの特異な感受性に重きをおいて、身体の図式化不全は二次的に起きるというのが村上先生の立場で、綾屋さんは身体の図式化不全が先にあって、まなざしへの特異な感受性の問題はその後にはじめて可能になるものだという、順序の逆があるのではないかという疑問を持っていたのですね。もちろん『リハビリの夜』でも述べたように、誰しもまなざしによって間身体的に図式化が進むということは、実際に起こることです。しかし、それが起きるための条件として、あらかじめ二者間で身体の図式化が近接している必要があるだろうと思うのですね(注)

 最近、ロボット研究をされている先生方や、胎児の研究をされている先生たちとやりとりさせていただいています。そこでの研究が示唆しているのは、まだ他者と出会う前、本格的な社会的なネットワークができる前の胎児の時点で、すでに身体の図式化が始まっているということです。発達障害といわれている人たちは、特異な図式化の状態で生まれるために、その結果、他の身体図式を持った人々からなる社会の中で困難を感じている可能性があると、綾屋さんや私は考えています。

 つまり、「まなざしってそんなに重要なんですか?」「他者ってそんなに言うほど重要なのですか?」というところに基本的な疑問があります。もちろん他者は重要なのだけれども、匿名で不特定で客体化できないこの他者は、実は定型発達者の別名かもしれない。少数派の現象学において他者概念を導入するに当たっては、慎重さが必要だと思います。そのことがDSMにも反映しているし、「こころの理論」にも色濃く反映されていると思うんですよ。

 

内海 私もさっき志向性の問題の話をしました。私は視線はいちばんわかりやすいから視線を使って説明するんですけど、実際の知覚のモダリティでは触覚のほうが重要ではないかと思います。また視覚にしても、単に志向性を感じないだけではなく、人の目が気になったり、志向性をびんびん感じる場合があるのは私も知っています。

 ただ、症状面ではなくて、もっと根底にある苦しみの元になっているのは何なのかと言ったときに、「触発」ということが問題になるのだろうと思います。触発して自分が立ち上がるところです。身体の図式もひとりでに出来上がるのか、あるいは何らかの志向性に対して「応答すること」によって立ち上がるのか、という問題があります。熊谷さんが『リハビリの夜』の最後に書かれているように、人間は隙間がある未完成な動物ですが、それを補填するために人間のあいだでの応答、呼び掛けが不可欠であり、そこがうまくいかないということが発達障害では問題となっているのではないかと私は思っているのです。

 

熊谷 「触発」という概念は重要なものだと感じます。別に人に限らず、自分の身体でも物でもなんでも、傷つけてくる予測外の刺激はとても重要だと思うからです。疑問なのは、なぜ生き物、特に人からの触発だけに特権的な位置を与えてしまうのか。やはり「コミュニケーション障害」とか「社会性の障害」という方向に安易に流れてしまうときに、「ちょっと待った」と言いたいと思う。「社会性の障害」と言ってしまうと、どんな社会になっても障害は消えないものになってしまうと思うのです。

 

内海 わたしは近頃、「社会が病気なのだ」と言っています。まさに今の日本なんてそうですね。

 

熊谷 そうなんです。たとえばアメリカ社会における「社会性の障害」の内容と、日本社会における「社会性の障害」の内容は異なって当然です。なぜなら、各々の社会における「社会性」の基準は異なるからです。現在の「社会性の障害」という定義のままですと、社会が変化することで、誰が障害を持っているかも変わってしまいますね。これでは、置かれた社会環境からは独立した、「本人の特徴」を抽出した概念とは言いにくい。にもかかわらず、本人の特徴を記述した概念として「社会性の障害」を用いるなら、とても科学的な概念定義とは呼べません。

これを防ぐためにも、アスペルガーの定義を社会性の障害ではなく、できる限り社会性と切り離されたものに特徴を見出したい。それは、社会の病理性みたいなものをうまく逆照射するためにも不可欠な作業です。そんな理由で、「社会性の障害」という言葉に近づきそうな概念にすごく警戒心を抱いてしまうところがあるんです。

 

 

視線を特権化する前に

 

熊谷 一方で、村上先生のいう「現実触発」は、綾屋さんの議論と一致するのではないかと思うのです。つまり綾屋さんの言葉でいえば、「意味づけできない刺激」としての情報はまさに傷のようなもので、それが現実触発に対応すると思うんですね。その意味づけできない刺激は身体内部からも外部からも均等に入ってくる。そこを自己感につなげていくようなところがうまく図式化にまとめられないのだというのが、綾屋さんの考えです。

 

内海 ぼくも最初は視線に「現実的なもの」を託していたんですよ。それはジャック・ラカンの理論で対象aというやつでしょ。視線だけは特権的なものとして、対象化できないものとして入っていくわけだから。

 「視線」というと色々な意味合いがあって、ほんとうの視線のこわさ、そこに含まれている「現実的なもの」を明らかにしないとミスリーディングになっちゃいますね。

 たとえば、さっきの「応答」だけど、熊谷さんが『リハビリの夜』で脳科学の最先端の図を最初に描かれていますね。これなんかも私から見ると、いきなり意思がポンとたち上がるのは不思議な気がする。そういうモデルを採用すると、「脳が意思するのだろうか」とか、「自由意思はないのではないか」などという問題が出てくるのだけど、実際には、脳はかならず触発されているはずなんですよね。何もないところから立ち上がるのではなくて、まず何かがあって立ち上がる。そういう応答性を脳にも入れていかないと妙な図式になってしまって、脳の中に小人を想定するしかなくなってしまう。

 

熊谷 おっしゃるとおり『リハビリの夜』では、脳が何によって触発され応答しているかを、意識にのぼらないものとして、ブラックボックス化して記述しました。

 

――ケアする側からみたら、視線がまず最初に入ってくるじゃないですか。でも当事者にとってみると、その前に体感とかいろいろあるんですね。

 

熊谷 綾屋さんの当事者研究が示唆しているのは、「志向性が一本の矢印にまとめあがるまで」の過程は自明ではなくて、ばらばらの身体の状態、いわば若葉マークの運転ドライバーみたいな状態がまずあって、条件が整ったときにやっと一つの志向性にまとめあげる。その段階にまだ達していない状態のときに、「志向性を絡め合う」という前提で臨まれてしまうと、ちょっとおかしなことが起きるのかなという感じがします。それがさっきの痛みの話にもつながるのかなと思いながら聞いてました。

 慢性疼痛で自分のことにかかりっきりで、意識が身体の内側に向いてしまうことと、自動車内部のことににかかりきりになっている状態は似ている気がします。慢性疼痛は、自明だった身体図式が喪失し、その修復に意識がかかりきりになっている状態といえるのかもしれません。志向性やまなざしがまとめあがった状態を前提とすると、慢性疼痛や自閉症のばらばらな身体にアクセスしにくいのかなという感じはちょっとしていますね。

 

――コミュニケーション障害からスタートとするのではなく、その前を考えてほしいということかですね。

 

熊谷 そうですね。触発という言葉ならわかるけれども、たとえば「視線触発」と限定されてしまったり、「志向性」という問題にきりつめられてしまうと、なにか危うい方向にいくんじゃないかなと思う。

 

内海 それはそのとおりですね。

 

綾屋 私が「視線触発」という言葉を聞いて思い出すことの一つは、自分が感じたことを親が感じないという幼少期のすれちがいの経験です。私が見ているものを親が見ていないので自分の世界に言葉がつかない。それに対する不安や苛立ちが2~3歳くらいからありました。

 わかりやすい例としてよくあげるのですが、幼少時の私は、夕飯に出てくる肉が柔らかくて飲み込みやすいときと、固くて飲み込めないときがあると気づきました。飲み込めておいしかったから今度もこれにしてもらうために名前を覚えておこうと思い、母にこれは何かと聞くと「鶏肉」と言いました。次にパサパサで飲み込めないときがあったので、これはもうやめてもらおうと思い、名前を聞くとやっぱり「鶏肉」と言う。まったく別物なのにどちらも鶏肉と言われて混乱していたのですが、大きくなってから、それは同じ鶏肉でも「もも肉」と「胸肉」の違いだったということがわかりました。母になんであのときそう教えてくれなかったのかと詰め寄ったら、毎回ただ安い肉を買っただけなので、そのような違いがあるとは知らなかったと言われてすごくびっくりしたのです。

 私の母が大雑把なのか、私が感じすぎているのか、双方で開きがあったのかはわかりませんが、「あの物体はなんだ?」「この光はなんだ?」と言っても共有してもらえなかった経験は数知れません。そのような経験を踏まえると、「視線触発が間身体性や間主観性につながるか否か」を決める背景には、「個々人が世界を見る時の細かさがだいたいそろっているか否か」という要素が働いているかもしれないと感じています。

 もう一つ思い出すのは、一般的に人の目を見て会話をするのは当然であるかのように語られていますが、私の場合は自然に身についたのではなく「教育された」という感覚があるということです。いま子どもたちを育てるときも、「相手の目を見て会話をしなさい」と言うことによって、目を見る時間が増える傾向があります。これは障害の有無に関わらず、相手の目を見て会話をするということが生得的な傾向というよりも、後天的に学習された要素が大きいことを示唆しているのではないかと思います。

 いっぽう、発達障害に限定して考えますと、相手の目を見ながら会話をするということ自体が、情報処理に負荷をかける側面もあるのではないかと感じています。私の場合は人の話を聞くときに相手の目を見ていると、まばたき、口の動き、表情の変化など、話以外の情報が大量に入ってきてしまい、話の内容がわからなくなってしまうことが多いです。また、自分が話すときは、自分の出した声を環境音から抽出しにくい聴覚特性を持っているせいか、自分の声が自分で把握しづらくなります。そのため発声に困難が生じ、その調整に意識の大半を使い果たすので、肝心の何を話すのかといった思考にまで意識がまわらなくなりがちです。それに加えて相手の目を見ることは、ますます思考の妨げになります。

 

 

言語によってフォーマットされるのか、

言語がインストールされるのか

 

内海 綾屋さんの体験の解像度は言語よりもきめが細かいですからね。言語はすごく暴力的じゃないですか。それについてぼくは、言語の入り方がちょっと違うのではという仮説を持っています。

 コンピュータの比喩を用いると、いわゆる定型発達と言われてる人種は、体験自体が、言語によって「フォーマット化」されているのですね。徹底的に言語によって構造化されていて、その外側に出るのは困難です。しかし発達障害の人の話を聞くと、どうも言語が一つのアプリとして「インストール」されているというか、道具のようなものとして装備されているんじゃないかと感じます。

 定型発達の人も、「言語って何?」と聞かれたら、ほとんどの場合「伝達のための道具」などと答えるでしょう。しかしすでに言語が経験に深く浸透しているというか、言語によって住まわれているといってもよいかもしれない。たとえば信号機の色だって“青”は「進め」ということになっていて、「あれは青じゃない、緑だ」といっても耳を貸さないですよね。すごく暴力的に経験を構造化しているわけです。これは発達障害の人とのすれ違いの大きなリソースになっているんじゃないかな。

 

熊谷 ロボット研究の浅田稔先生と綾屋さんが対談をしたときに、浅田先生はパースという人を引用して、記号を「アイコン」「インデックス」「シンボル」に分け、それぞれ記号とその指示対象との参照関係が違うのだと整理されました。

 アイコンはその指示対象と相似性で結ばれている。インデックスは時空間的なので相関性で結ばれている。例えばベルが鳴ればご飯が出てくるというように、学習によって結びつけられる記号とその対象物のつながりです。シンボルは恣意的というか、記号とその対象物の関係は、人と人との約束事できまっている。そして言語はシンボルに相当するものだとおっしゃっていました。ロボットを作っていると、インデックスまではいけるがシンボルまではなかなか到達できないという話をされたんですね。

 浅田先生は一貫して、発達障害とロボットがすごく近いところにいるんじゃないかという前提を置きながら話されていたのですが、そのときに綾屋さんがおっしゃったのは、シンボルとインデックスの間に大きな壁があるとしても、その壁は実はそんなに自明な壁ではないのではないか、ということでした。たとえばパブロフの犬の条件づけの実験で、犬にとって「ベル」と「えさ」は、自分のあずかり知らぬところで決まる相関関係なのでインデックスですが、実験計画者からすると、それはベルでなくてもよかったわけですから自分で恣意的に決められたシンボルだというわけです。そうすると同じ「ベル」という記号が、人から見るとシンボルで、犬の立場からするとインデックスになる。結局、シンボルとインデックスの境目を決めるのは、「参照関係を改変する権利」みないなものではないかという話でした。

 その関連で綾屋さんは、自分が言葉を使うときに、言葉とその意味が固定的につながっていないとすごく不安になって焦ってしまうという話をされました。言葉に限らず、部屋のレイアウトにしても、綾屋さんはそのレイアウトでなくてはならない必然性を感じるのに、他の人は何気なくレイアウトを変えてしまうのでパニックになってしまう。多くの人がシンボルのレベルで捉えていることを、自分はインデックスに近いレベルで捉えがちなのではないかというふうに綾屋さんが応答したのです。そのときに対談相手の浅田先生がすごく面白がっておられた。これもさっきおっしゃられた、言語のインストールとフォーマットの違いとどこかで関係しているのかなと思うのです。

 

 

自明性とは何か

――言語、参照枠、フレーム問題

               

内海 ブランケンブルグというドイツの精神科医がいます。彼は『自明性の喪失』という、現象学的統合失調症論のバイブルとされる本を書いた人です。「自明性の喪失」というのは、アンネ・ラウという女性の患者さんが自分の陥った状態を言い表した言葉なのですが、ブランケンブルグは、これこそまさに統合失調症の基本障害だとみなしました。ただ、私がみるところ、アンネ・ラウさんは通常の統合失調症とは違うし、今ではむしろ発達障害だったのではないかと思っています。たしかに「自明性の喪失」という言葉には惹かれますが、しかしそう表現しても、アンネ・ラウの苦しみには届いていない気がするのです。

 ある高機能自閉症の青年を診ていたとき、当時は「発達障害」としていう見立てがまったく思いつかず、私自身すごく苦しみました。彼は別に私を責めたりとか、操作したりとか、揺さぶってきたりするわけではありません。毎週やってきて、自分の苦しみについて語るのですが、それを「満足感がない」「現実感がない」といったフレーズでくどくどと執拗に語るのです。その内容をいくら聞いても、こちらに伝わってきません。彼はたいへん頭のよい学生でしたが、いくら説明してもらっても、次の診察のときにはそれが何だったのか、私自身が思い出せないのです。彼はいつもこうした訴えの周囲をぐるぐるまわっているのですが、それを毎回聞くのがとてつもなく苦しかったことを思い出します。

 この青年の例などは、発達障害の人の言語の性質を言い当てているように思います。物を描写する際にはとても正確ですが、自分の感情とか思いとか苦しみを表現するには不利ですね。定型発達の場合は、言葉を発すると、単に考えを言語化したり、伝達するだけでなく、自分の身体性のようなものに跳ね返ってくるようなところがあります。たとえば、話すことによって、感情的にカタルシスが起こったり、聞いてもらえたとか、伝わったという実感が得られるのだけど、どうもその青年とかアンネ・ラウさんの場合は、言葉は正確だけれども、言っている本人は何も救われていないのではないかと直感したのです。

 これが、先ほどのフォーマット化とインストールの仮説を最初に思いついたきっかけです。ほかに傍証とすれば、小さい頃から言葉を大人みたいに使ったりするようなことが挙げられるでしょうか。ちなみにウィトゲンシュタインの兄のハンスさんが最初に覚えた単語は「オイディプス」だったそうです。

 

綾屋 自分ひとりで自分の感覚に合う言葉を探し、洗練させていこうとすると、おっしゃる通り、独り善がりで救われない部分があるように思います。それは言葉がシンボルになれずにインデックスの段階にとどまるということと同義かもしれません。ただそれは発達障害の逃れられない特徴というわけではないと思います。

 当事者研究では言葉をひとりで作るのではなく、仲間とのやりとりの中で共有される言葉を探っていきます。これはとても大切なポイントだと感じています。私の場合、当事者研究を行う前と後とでは、世界の体験がガラリと変わりました。それまでは、既存の言葉には自分の感覚や感情に当てはまるものがなく、自分も世界も把握できない感覚が大きかったのですが、当事者研究によって他者に自分の感覚や感情を拾われ、それらに言葉が付いた。こうして自分の身体の感覚をあらわす言葉ができてからは、自分というおぼろげな核のようなものができて、それを光源にして他者を含めた世界を照らし出し、世界を把握するというようなことが始まっていきました。

 また、そういう言葉を用いて発信するようになってから、似たような経験をもっている人たちと出会い、話す機会が増えるようになりました。それによって「たしかに私のこの感覚はある」という実感が増し、それと同時に他者に共感する場面も増えました。ここでいう共感というのは、わあっと高ぶって泣くとか、からだの芯から笑うとか、激しく怒って文句を言うといった、すばやくて直感的で行動を伴うものです。前から共感と呼べるような感情がまったくなかったわけではないですが、以前はその感情をアウトプットしてもいいと信じられなかったのです。アウトプットするにあたって参照するべき自分という核がなかった状態だったのが、「ああ、これは出してもいいんだ」というところまで自分を信じられるようになったというのが大きな違いとしてあるように思います。

 

内海 自己感みたいなものでしょうか。

 

綾屋 はい。自己感によって私個人としてはちょっとずつ楽になっている感じはあります。外界や人を判断するときに自分を参照できないと、すごく大変で……。アウトプットにつながらないで、インプットだけになってしまうというか。たとえば以前は選挙のときに、自分のことがわからないので、どこの政党に投票したらいいのかを決められなかったのですが、現在は「この政策では私の人権が守られず、やられてしまう」と判断でき、「こんなことを言っている党は信じられない」という怒りも出てくるようになりました。自分の立ち位置が決まって初めて、他者の意見に賛成したり反対したりできるという感覚を最近、味わっています。……あたりまえのことを言っていますね。

 

――自分という参照枠がないとあらゆるものが選択可能だということですよね。賛成も反対もできないで、選択肢が溢れてしまう「フレーム問題」になるわけですね。

 

熊谷 すごく面白いテーマです。ある意味でロボットのようになってしまう。

 

綾屋 そういう意味では、やっと人っぽくなったなという感じがします(笑)。

 

内海 ぼくも啓発活動として「かならず発達していくんだということは忘れないでほしい」と言います。「障害」という言葉はミスリーディングですね。障害ではなく「別の発達ルート」なんだという方が実情に合っているのではないでしょうか。

 

 

部分と全体、

あるいは全体という名の部分

 

熊谷 綾屋さんの言葉でいうと「意味づけできない刺激」としての情報が入ってきて、それを言い当てる言語が見つからないという状況がまずある。当事者研究によって、そこに言語が、しかもインデックスではなく公共的なシンボルとしての言語、すなわち他者と共有できる言語が立ち上がってくることで、それまで不確実で意味づけできなかった痛みが共有されて、「自己感」や「つながり」が立ち上がっていくという経験だったと思うのです。

 誰にとっても「現実触発」は傷であるといえるでしょう。自分をおびやかすものとして、現実という名の未知の刺激が入ってくるのですから。それを言語なり、あるいは村上先生の言葉で言うとテレパシー的な空想によって埋め合わせる。他者とごっこ遊びみたいな感じで、傷を共有する。村上先生が超越論的テレパシーという概念で指示しておられた「共有することで自分の傷に蓋をしている」という話と、綾屋さんの当事者研究の話がぴったり合う気がします。

 ただ参照枠のことでいうなら、もしもアスペルガーという特徴が、綾屋さんが整理されてるように「部分に目が行ってしまって、引きで全体を見られない」というものだとするなら、また独特の問題があるといえるでしょう。多くの場合、人が新たな刺激を取り込むときには、大体こんなものだろうと決めつけた全体像のようなものを仮定して、目の前の刺激をその部分として位置づけ解釈する「解釈学的循環」みたいなプロセスがあるのだけれども、そこで仮定された「全体」みたいなものへの信頼を調達できずに、切り離された単体としての部分だけで入ってきてしまうときに、非常に困ってしまう。

 綾屋さんはPTAで輪になって話しているとき、一人ひとりの表情はばっちり記憶しているのですが、表情や所作、台詞が織りなす全体像を見失いがちなので、よく見ようとして部分的な細かい情報を取ろうとし、それによってますます全体像を見失うという悪循環があるそうです。そして、あとから意味がわからなかった表情や所作のフラッシュバックが起こる。全体像への信頼を元手に部分を見て、部分の情報をもとに全体像を更新するという循環がうまくまわらずに、部分だけに意識がフォーカスされる。そのことと、当事者研究によって得られる言語がもたらす効果に何か関係があるかもしれない。たぶん言語によってもたらされるものも全体像の一種かなと思うんですけど、そこで何が起きているのか、いま関心があることです。

 

内海 綾屋さんは全体像を見ようとして部分に行ってしまうのだと思うのです。健常者はパースペクティブで切っているのですが。

 

熊谷 切っているというのは?

 

内海 そのときそのときで、パースペクティブを設定することです。本当は全体ではないけど、パースペクティブが全体というものを与えてくれることになります。地平を切ると言い換えてもいいかもしれません。その上に体験が構造化される。ところが、綾屋さんの場合はその地平を切らないので、フラットに刺激がきて、見れば見るほど混乱する。

 どうやってパースペクティブが設定されるのかというと、たぶん自己が世界の中に入り込むというか、根付くということによってだと思います。たぶん自己感が形成されれば、パースペクティブもそのつど出てくるのではないでしょうか。

 村上さんがいっている「現実的なもの」っていうのも、ポンと入りこんできて、そこから世界が開かれる地点のようなものでしょう。言ってみるなら――これもまた視覚の比喩なのでミスリーディングなんだけど――ぼくらはどこかに「盲点」をもたないと、見るということができない。ちょっとマニアックな言い方だけど、盲点が経験の現実的な核になっている。その盲点は、おそらく他者の視線によって触発されるのでしょう。この触発が発達障害では希薄になっているのだと思いますが、今日お話をうかがっていたら、もっと後になってもできるんだということを確認できました。違うルート、違う神経回路かもしれないけども。

 

綾屋 パースペクティブってなんですか?

 

内海 本来は遠近法のことなんですが、今日の話では、視点、あるいはフレームの切り取り方です。

 

熊谷 健常な人たちは、世界はだいたいこういうものだろうと根拠なく地平を切っているということですね。

 一方で、これは村上先生が書いておられてなるほどと思ったところなんですが、パースペクティブに現れ出ていない隠れた部分に対して、それをどのようにとらえるかという問題もありますね。その例として村上先生が挙げられているのが、綾屋さんも先ほど述べられた「奥行き知覚」の話です。「奥行き知覚」と「未来」と「他者の心」の3つで共通しているのは、パースペクティブに現れていない隠れた部分に対してその存在を信じて名付けたものだという点です。

 たとえば奥行き知覚に関していうと、手前にコップがあって、向こうにおしぼりがあるというときに、コップはおしぼりの一部を遮閉しているけれども、コップの裏にはきっとおしぼりがあるはずだと信頼している限りにおいて、奥行き知覚が可能になる。その信頼がなくなると、単なるフラットな奥行きのない世界になる。手前のものが奥のものを遮断しているからパースペクティブに現れていないだけであって、その遮断がなくなれば奥のものは現れるはずだという信頼、見えないけれどもそこにあるという信頼がないと奥行きは成り立たないんじゃないかという話です。

 同様に未来も、必ずやって来るものとして信頼しているから、それを想定できる。他者の心についても、現実には行為しかパースペクティブに現れないんだけれども、きっとその背後にそれを突き動かしているものがあるに違いないと信じている。いずれもパースペクティブの中に入らない何かを無根拠に信頼していることによって、可能になる世界観のようなものですね。

 この3つは、自閉症スペクトラムのなかで不得意とされがちなことです。もしかしたら根本にあるのは、「見えない領域への信頼」であるとか、あるいは「自分が見ている世界は世界のすべてではないのだ」という無知の知みたいなものへの実感の希薄さなのかもしれない。このような仮説については、本当なのかどうかわからないので綾屋さんと私はいまのところ保留しています。

 立教大学の河野哲也先生が「全体と部分」という分け方をもとに、定型発達者がその存在を信じて「心」と呼んでいるものが何なのかについて、解説してくださったことがあります。河野先生は、実在するのは行為だけで、多くの人が心だと思っているものは綾屋さんの言う全体パターン、つまり諸々の行為が織りなす全体像のほうに対応しますと述べられました。だから、先ほどのPTAの例が示唆するように、引きで見ないと「心」は見えないとおっしゃるんです。

 河野先生は、さっき述べた3つの中で「他者の心」に関しては、それが他者の「中」に実在するという考えを批判されたのですけども、綾屋さんの仮説である「全体が見えにくい」という特徴記述には同意され、さらにその「全体」とは、実際にはパースペクティブに入ってこない、不可知のものまで含んでの全体であるという立場だったんです。そうすると実際に見えているパースペクティブが全体なのではなく、無根拠な信頼を元手に、裏とか未来とか心とかいった隠された部分も含めてパースペクティブとしてみているのが、もしかしたら定型発達なのかもしれません。

 

内海 ぼくも村上さんも、フッサールは発達障害だったと考えているのです。彼はあまりにも愚直で、おそらくハイデガーはそこにうんざりしていたのだと思います。だけどそれは驚嘆すべき愚直さです。彼は、「ここから先は信ずるよりない」ということがわからないからこそ一生懸命に考えたのでしょうね。最後までわからなかったのが他者でした。

 

――「知」と「信」の問題ですね。

 

熊谷 慢性疼痛でも、自分の身に何が起きているかを「知る」のも大事だけれども、「信じる」という状態も大事になってくる。大澤真幸さんとの対談でも、信じるという状態がどのようなことなのかについて話をしました。

 

内海 これは大問題ですよね。ヨーロッパの思想史自体が、信じることと知ることの二本柱で形成されています。ヘブライズムが「信じる」ことであり、ヘレニズムが「知る」こと。それらが12世紀ごろにガチャンとぶつかってからヨーロッパの歴史が動きはじめ、今日までつながっているのですから。

(了)

 

 

この疑問については後日村上先生とお話したときに、「視線触発の問題が一次的で身体の図式化不全は二次的なものと考えているわけではなく、両プロセスは互いに影響を与え合いつつも並列的なものと考えている。したがって、二者間の身体図式の近さや遠さによって、視線触発のパターンが影響を受けることは否定しないし、十分にありえることだろう。ただ、『自閉症の現象学』では、当事者ではない他者の立場から現象学を記述するという方法論に立っているため、まず接近の入り口として視線触発のところから記述しはじめなければ欺瞞になってしまうという都合があった」と解説していただきました。

 当事者ではない立場から直に当人の身体図式に入り込むことは不可能なわけで、あくまで視線触発を媒介にして入り込むしかないという誠実で慎重な「記述の順序」をとられたということであり、その順序がそのまま「因果の順序」であるということではなかったということです。

 ただ、村上先生もその解説に引き続き述べられたのですが、ここには「他者である当事者の経験構造を現象学者が記述する『他者の現象学』」と、「当事者の経験構造を当事者が記述する『当事者研究』」の方法論の違いや、それぞれの可能性と限界が現れているともいえます。今後、両方法論が、一方が他方に領有されることのない対等な形で対話していかれたらと思います。

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