エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について

2011-01-12 mercredi

大学院のゼミも残すところ3回。
今期は私の書きものを一冊選んで、それについて発表者がコメントするという形式を採っている。
昨日は前田さんが『困難な自由』を選んで、発表してくれた。
『困難な自由』はレヴィナスの著作で、私の書きものではないが、私が最初に手に取ったレヴィナスの著作であり、それにうちのめされてやがて「弟子入り」に至る、私にとってはまことにエポックメイキングなテクストである。
個人的にはきわめて思い入れのある本なので、1985年と2008年と二回翻訳を出している。
前田さんが著作の紹介と、その中の「来るフレーズ」のご披露のあと、訳者への質問をご用意くださったので、それにお答えするかたちでゼミを進めることになった。
おおかたのゼミ生は『困難な自由』そのものを読んでいないので、本についての注釈ではなく、もっぱら、私がこの著作からどのような影響を受けたのかというパーソナルな話題に終始した。
「レヴィナスと私」について話しているうちに、いろいろなことに気づいた。
もう何度も書いていることだけれど、哲学者の書きものを読むというのは、徹底的に個人的な仕事である。
読む者が、そこに傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り、智者はその叡智を開示してくれない。
レヴィナスは「語られざること」(non-dit)が読み手に開示されるのはどのような場合かについて、次のような印象深いフレーズを書き残している。
「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる。この懇請なしでは言明のテクスチュアのうちに内在する『語られざること』(non-dit)はテクストの重みの下に息絶え、文字のうちに埋没してしまうだろう。懇請は個人から発する。目を見開き、耳をそばだて、解釈すべき章句を含むエクリチュールの全体に注意を向け、同時に実人生に-都市に、街路に、他の人々に-同じだけの注意を向けるような個人から。懇請は、そのかけがえのなさを通じて、そのつど代替不能の意味を記号から引き剥がすことのできる個人から発する。」(Emmanuel Lévinas, L’audelà du verset, p.136)」
レヴィナスの哲学に対する読者の構えについて、これ以上の言葉は不要であろう。
読者に課せられているのは、他のどのような読者もそこから読み出さなかったような読みを「記号から引き剥がす」ことである。
そのために、読者はテクストに没入すると同時に「都市に、街路に、他の人々に-同じだけの注意を向ける」ことを求められる。
「存在するとは別のしかた」(autrement qu’être) というレヴィナスの難解な概念がすとんと肚に収まったのは、父親が死んで、小さな骨壺と遺影を置いた棚に向かって、無人の家に帰るたびに「ただいま」と挨拶して手を合わせることが習慣化したときのことである。
死んだ父はもう「存在しない」。けれども、父の語ったこと、語ろうとしたこと、あるいは父がついに語らなかったことについて、私は死んだ後になってからも、むしろ死んだ後になって、何度も考えた。
そして、そのようにして「解釈された亡き父親」が私のさまざまなことがらについての判断の規矩として活発に機能していることにある日気づいた。
存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているものに「触れる」というのは「こういうこと」かと、そのとき腑に落ちた。
そのとき、「他の人々に注意を向ける」ことなしには「聖句」の「語られざること」は開示されないというレヴィナスの言葉の中の「他の人々」には死者たちが含まれるということに気づいた。
含まれるというより、むしろ「他者」とはレヴィナスにおいて、ほとんど「死者」のことなのだ。
「存在するとは別のしかたで、あなたがたは私に触れ続ける」という言葉は死者に向けて告げられる鎮魂の言葉以外の何であろう。
600万人の同胞の死の後に生き残ったユダヤ人であるレヴィナスにとって「鎮魂」以上に喫緊な人間的課題があるはずがない。
そのことに気づくために、私もまた親しい人を弔う必要があった。
レヴィナスは「倫理」を語る。
倫理とは思弁ではない。
それは「同胞たちと共に生きるための理法」のことである。
「共に生きる」という動作のうちには死者たちをも招き入れることが必要だ。レヴィナスはそう考えた。そう考えなければ、ホロコーストの後にも生き延びることはできない。
フッサール現象学における「他我」には「死者」が含まれている。死者たちは私たちとともに対象の超越論的構成に参加している。
ハイデガー存在論における「共存在」には「死者」が含まれている。
「共存在は、他者というものが現事実的に見あたらず、知覚されていないときでも、実存論的に現存在を規定しているのである。」(『存在と時間』)
死者たちとともに私たちは世界を作っているという基本的立場において、レヴィナスはたしかにフッサールとハイデガーの学統に連なっている。
けれども、フッサールとハイデガーの死者たちはある意味で「静かに死んでいる」。
ひどい言い方をすれば、「現事実的に有用」なしかたで死んでいる。
それはたとえばハイデガーが帝国のために死んだドイツの若者を顕彰する誇らしげなくちぶりからもうかがえる。
レヴィナスの死者たちは、それとは違う。
死者たちは「他我」や「共存在」として世界の構成に参加し、生きているものたちのために世界の意味に厚みを持たせたりするような有用な仕事をするよりも先に、レヴィナスにおいては、まずその痛みと悲しみを鎮めなければならないものとして切迫している。
死者たちは終わらない苦痛と、絶望の中で「存在しない」という様態を負わされている。
死者たちを鎮魂しなければならない。
この緊急な責務をおのれの哲学の主題として引き受けたという点に哲学者レヴィナスの「かけがえのなさ」はある。
エマニュエル・レヴィナスの哲学はホロコーストを経験した20世紀のヨーロッパでしか生まれなかったものだ。
そのような歴史的状況がレヴィナス哲学の出現を懇請したのである。
「都市と街路」と、何よりも他の人々のために、鎮魂の言葉を書き連ねる哲学者を懇請したのである。