長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

タバコ、トリック、80`s!オール青春大進撃!! ~ドラマシリーズ『十角館の殺人』~

2024年04月11日 23時17分43秒 | ミステリーまわり
『十角館の殺人』とは!?
 『十角館の殺人(じゅっかくかんのさつじん)』は、推理小説家・綾辻行人のデビュー作品となる長編推理小説。
 1987年9月に講談社ノベルスから出版され、2012年出版の『奇面館の殺人』まで9作発表されている綾辻の「館シリーズ」の第1作にあたる。2017年7月時点で本作の累計発行部数は100万部を突破している。
 日本のミステリー小説界に大きな影響を与え、いわゆる「新本格ブーム」を巻き起こした。雑誌『週刊文春』が推理作家や推理小説の愛好者ら約500名のアンケートにより選出した「東西ミステリーベスト100」の2012年版国内編で第8位に選出されている。ちなみに綾辻の他作品では、『時計館の殺人』(1991年)が第20位、『霧越邸殺人事件』(1990年)が第82位に選出されている。2023年にアメリカのニュース雑誌『タイム』が企画した「史上最高のミステリー&スリラー本」オールタイム・ベスト100にも選出されている。
 2007年10月に講談社文庫から「新装改訂版」が出版され、綾辻はあとがきで「本書をもって『十角館の殺人』の決定版とするつもりでいる。」と述べている。
 清原紘の作画によるマンガ版が、『月刊アフタヌーン』(講談社)にて2019年10月号~22年6月号まで連載された。全31話、コミックス全5巻。


ドラマシリーズ『十角館の殺人』(2024年3月22日全5話同時配信)
 配信サイト huluの「 huluオリジナル」枠で独占配信された。第1話53分、第2話45分、第3話49分、第4話46分、最終第5話49分の計242分。

あらすじ
 1986年3月26日水曜日。大分県O市にある K大学のサークル「推理小説研究会」の一行は、豊予海峡をのぞむ大分県S半島J崎から約5km 沖に浮かぶ、角島(つのじま)と呼ばれる無人の孤島を訪れた。彼らの目当ては、半年前の1985年9月20日に凄惨な四重殺人事件が発生して焼け落ちた「青屋敷」の跡と、その別邸となる奇抜な十角形のデザインをした「十角館」と呼ばれる建物だった。島に唯一残っているその十角館で、彼らは1週間の合宿を過ごそうというのだ。
 その頃、九州本土では、研究会や青屋敷事件の関係者に宛てて、かつて研究会の会員で1985年1月に事故死した中村千織の死の真相が他殺であると告発する怪文書が送りつけられていた。怪文書を受け取った1人である江南孝明は、中村千織の唯一の肉親である叔父の中村紅次郎を訪ねる。そこで、紅次郎の大学時代の後輩だという島田潔と出会った江南は、一緒に中村千織の事故死と青屋敷の事件の真相を探ろうと調査を開始し、推理研メンバーの守須恭一に協力を求める。
 いっぽう角島の十角館では、合宿3日目の朝、推理研メンバーのオルツィが寝室で絞殺された上に左手を切断された状態で発見される。そして部屋の扉には「第一の被害者」という札が掲げられていた。残されたメンバー達は「自分たちの中に犯人がいるのではないか?」と推理を始めるが、第三者の犯行の可能性も排除できなかった。


おもな登場人物とキャスティング
※推理小説研究会の主要メンバーは、それぞれ有名な海外の推理作家にちなんだニックネームで呼ばれている。物語の時点でのサークル会員数は、少なくとも16名。
エラリイ …… 望月 歩(23歳)
 法学部3回生の21歳。色白で背の高い男性。金縁の伊達メガネをかけている。推理小説研究会誌『死人島』の現編集長。マジックが趣味で、バイスクルのライダーバック・トランプを赤青1組ずつ持っている。吸う煙草の銘柄はセーラム。

ポウ …… 鈴木 康介(26歳)
 医学部4回生の22歳。口髭をたくわえた大柄な男性。無口だがときどき毒のある発言をする。オルツィとは幼馴染。吸う煙草の銘柄はラーク。

ヴァン …… 小林 大斗(ひろと 24歳)
 理学部3回生。中背の痩せた男性。不動産業を営む伯父が角島を購入したことを推理小説研究会に伝えた。吸う煙草の銘柄はセブンスター。

アガサ …… 長濱 ねる(25歳)
 薬学部3回生の21歳。ゆるいソバージュの長髪の女性。男性的な性格をしている。

ルルウ …… 今井 悠貴(25歳)
 文学部2回生の20歳。銀縁の丸メガネをかけた、童顔で小柄な男性。会誌『死人島』の次期編集長で、今回の合宿を提案した。

カー …… 瑠己也(るきや ?歳)
 法学部3回生の22歳。中肉中背だが骨太で猫背の男性。三白眼で、青髭の目立つ顎はしゃくれている。ひねくれた性格で、何かにつけて他のメンバーに噛み付くことが多く、特にエラリイとは衝突することが多い。ポケットボトルのウィスキーを携行している。

オルツィ …… 米倉 れいあ(19歳)
 文学部2回生の20歳。頬にそばかすの目立つ、ショートヘアの小柄で太めな女性。引っ込み思案な性格。日本画を描くのが趣味。ポウとは幼馴染。

江南 孝明 …… 奥 智哉(19歳)
 推理小説研究会の元会員。苗字の読みは「かわみなみ」だが、島田は「こなん」と呼んでいる。研究会時代のニックネームは「ドイル」。吸う煙草の銘柄はセブンスター。

島田 潔 …… 青木 崇高(44歳)
 寺の三男坊。中村紅次郎の友人で年齢は30代後半。カマキリを連想させる痩せて背の高い男。次兄の修(おさむ)は大分県警警部。

島田 修 …… 池田 鉄洋(53歳)
 島田潔の次兄で大分県警警部。40歳過ぎの太った男。潔との兄弟仲はあまり良いとは言えない。

中村 青司(せいじ)…… 仲村 トオル(58歳)
 建築家で十角館の設計者。物語の半年前に発生した事件で死亡したとされている。当時46歳。

中村 和枝 …… 河井 青葉(42歳)
 青司の妻。半年前の事件で死亡している。旧姓・花房。

中村 千織 …… 菊池 和澄(25歳)
 青司の娘。物語の1年前に開かれた推理小説研究会の新年会の、大学構内の部室で行われた三次会の最中に急性アルコール中毒で死亡した。当時は文学部1回生。

中村 紅次郎 …… 角田 晃広(50歳)
 大分県別府市鉄輪に住む、高校の社会科教師。中村青司の3歳年下の弟で、現在は44歳。大学時代の後輩だった島田潔と親しい。

吉川 誠一 …… 前川 泰之(50歳)
 中村青司に雇われた庭師で、角島の青屋敷には月に1回数日間滞在して庭の手入れをしていた。半年前の事件では遺体が見つからず行方不明とされている。当時46歳。

吉川 政子 …… 草刈 民代(58歳)
 吉川誠一の妻。誠一と結婚する前は、中村紅次郎の紹介で中村青司の青屋敷で働いていた。現在は大分県安心院町(あじむまち)にある誠一の実家に住んでいる。

漁師 …… 鳥谷 宏之(44歳)
 大分県S町J崎の漁師。所有する漁船で推理小説研究会の一行を角島へ渡らせる。

船橋 弘江 …… 岩橋 道子(55歳)
 病院看護師。生前の中村千織の往診を担当していた。

松本 邦子 …… 濱田 マリ(55歳)
 江南の住むアパートの大家。


おもなスタッフ
監督   …… 内片 輝(53歳)
脚本   …… 八津 弘幸(52歳)、早野 円(?歳)、藤井 香織(50歳)
音楽   …… 富貴 晴美(38歳)
主題歌  …… 『低血ボルト』(ずっと真夜中でいいのに。)
製作著作 …… 日本テレビ
コメント
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恐ろしいのは、幽霊か?人か? ~映画『回転』~

2024年04月04日 21時00分32秒 | ホラー映画関係
 ヘヘヘイどうもこんばんは~。そうだいでございますよっと。
 いや~、花粉症キツすぎる……先月のけっこう後半まで雪が降るくらいの寒さだったのに、やっと暖かくなってきたかと思えば、すぐこれですよ! もう夜からぐずぐずよ!? 体中の水分がとめどなく鼻水として失われていく恐怖! 例年お世話になっている薬も、今年はなんだか効果が薄れているような気が……夕方の薬の切れがおそろしくってなんねぇ!! またお医者様にかからねば。

 そんな、春の訪れに喜べそうで実はそうでもない今日この頃なのですが、つい先日に私、話題の映画『オッペンハイマー』を観に行ったりしました。さすがは高度な空調設備がウリの映画館、観てる間は花粉症の症状も忘れることができてた……ような気がします。
 ハリウッドきっての硬派エンタメを得意とするノーラン番長らしく、やはりこの作品も緊張感と空想世界への飛翔のバランスがかなり巧みな3時間だと感じました。3時間よ!? この長さを1つの作品で退屈しないように見せてくのって、やっぱ偉業ですよね。まぁ、そもそも3時間クラスにする必要があるのかという作品も昨今はちまたに溢れていますが、この『オッペンハイマー』に関しては毀誉褒貶はげしい偉人の半生を描くものなので仕方がないかとは思います。
 非常に興味深い作品ではあったのですが、やっぱり核兵器誕生の経緯を真正面からとらえた難しいテーマですし、戦後のオッペンハイマーの動向に関しても私は不勉強でしたので、ちょっと我が『長岡京エイリアン』にて独立した感想記事をつづることは考えていないのですが、やはり日本人ならば観る必要のある作品なのではないかと思います。ましてや、原水爆の申し子ともいえる怪獣王ゴジラに始まる日本特撮が大好きな方ならば、自分たちの好きなジャンルが、一体どのような歴史的事実の苦い土壌から生まれ出たものなのかを知っておいて損はないのではなかろうか。少なくとも、『ゴジラ×コング 新たなる帝国』よりもこっちの方がよっぽど初代『ゴジラ』(1954年)に近い空気をまとっていると思います。ノーラン監督流に『ゴジラ』を撮ろうと思ったら、たどりたどってゴジラの「祖父」にあたるお人の生涯に行き着いちゃった!みたいな。
 ほんと、面白い作品でしたね。過去作品と比較するのならば、『アインシュタインロマン』(1991年)的なイマジネーションの世界から始まって『 JFK』(1991年)のような歴史ドキュメンタリー大作の様相を呈し、後半はオッペンハイマーという天才と、彼の引力に翻弄された叩き上げの男との『アマデウス』(1984年)のような愛憎関係を番長らしく熱く語る大河ドラマになっていたかと思います。老け役のロバート=ダウニーJr. が『生きものの記録』あたりの三船敏郎に見えてしょうがなかったよ! アジア人に似てると言われたら、ロバート殿はおかんむりかな?
 言いたいことは山ほどあるのですが、ノーラン番長作品によく登場する「ずんぐりむっくりな謎の女」枠が、今作ではまさかあの『ミッドサマー』のピューさんだったとは気づきませんでした。エンドロールでほんとにびっくりした! そしてノークレジットで特別出演したゲイリー=オールドマンの演技のすごみときたら……さすがは、世界帝国アメリカの大統領といった感じですね。引退なんかしないでぇ~♡


 さて、さんざん別の映画の話をしておいてナンなのですが、今回は核兵器とも戦争とも全く関係の無い、ある名作映画についてでございます。
 怖い……とっても怖い映画です。怖さに関して言えば『オッペンハイマー』に勝るとも劣らない作品なのですが、怖さの種類がまるで違うし、そもそもこの映画を「ホラー映画」とラベル付けしてよいものなのかどうか。取りようによってはホラーっぽい超常現象などいっさい起こっていない「サイコサスペンス」なのかもしれないんですよね……あいまい! そのあいまいさこそが、この作品の恐ろしさの本質なのです。


映画『回転』(1961年11月公開 モノクロ100分 イギリス)
 『回転(原題:The Innocents)』は、イギリスのホラー映画。ヘンリー=ジェイムズ(1843~1916年)の中編小説『ねじの回転』を原作とする。
 本作の冒頭で流れる印象的な独唱曲は、音楽を担当したジョルジュ=オーリックの作曲と、イギリスの脚本家ポール=デーン(1912~76年 代表作に『007 ゴールドフィンガー』や『オリエント急行殺人事件』など)の作詞による『 O Willow Waly(悲しき柳よ)』で、本編中ではフローラが唄う歌として、フローラ役のパメラ=フランクリンではなく、本作に別の役で出演しているイギリスの歌手で女優のアイラ=キャメロン(1927~80年)が吹替で歌唱している。
 ちなみに、この『 O Willow Waly』は本作のオリジナル曲であり、タイトルが似ているスコットランド民謡『広い河の岸辺(原題:O Waly,Waly)』や、ジャズの有名曲『柳よ泣いておくれ(原題:Willow Weep for Me)』(作曲アン=ロネル)とは全く関係が無い。

あらすじ
 ギデンズ嬢は住み込みの家庭教師としてある田舎町を訪れ、ブライハウスという古い屋敷に向かう。そこではマイルズとフローラの幼い兄妹が長い間、家政婦のグロース夫人に面倒を観られながら暮らしていた。兄のマイルズは、何らかの問題を起こして学校を退学処分になっていた。雇われて屋敷で生活して行くうちに、ギデンズは屋敷にいるはずのない男の姿を屋上で見かけたり、遠くからこちらを見つめる黒服の若い女性の姿を見かけたりと、さまざまな怪奇現象に襲われる。ギデンズはその謎を解明するためにブライハウスに関する情報を調べるが、自分の前任者の家庭教師ジェセル嬢が悲惨な惨劇に見舞われていたことを知る。

おもなキャスティング
ギデンズ先生  …… デボラ=カー(40歳)
フローラ    …… パメラ=フランクリン(11歳)
マイルズ    …… マーティン=スティーヴンス(12歳)
グロース夫人  …… メグス=ジェンキンス(44歳)
ブライ卿    …… マイケル=レッドグレイヴ(53歳)
メイドのアンナ …… アイラ=キャメロン(34歳)
クイント    …… ピーター=ウィンガード(34歳)
ジェセル先生  …… クリュティ=ジェソップ(32歳)

おもなスタッフ
監督・製作 …… ジャック=クレイトン(40歳)
脚本    …… トルーマン=カポーティ(37歳)、ウィリアム=アーチボルド(44歳)
音楽    …… ジョルジュ=オーリック(62歳)
撮影監督  …… フレディ=フランシス(43歳)
製作・配給 …… 20世紀フォックス


原作小説『ねじの回転』とは
 『ねじの回転(原題:The Turn of the Screw)』は、1898年1~4月にアメリカ・ニューヨークの大衆週刊誌『コリアーズ・ウィークリー』にて連載発表されたヘンリー=ジェイムズの中編小説。怪談の形式をとっているが、テーマは異常状況下における登場人物たちの心理的な駆け引きであり、心理小説の名作である。
 本作を原作とした映画が4作(1961、2006、09、20年版)、オペラ(1954年初演 作曲ベンジャミン=ブリテン)、バレエなど多数の作品が制作されている。また、本作の前日譚にあたる映画『妖精たちの森(原題:The Nightcomers)』(1972年 主演マーロン=ブランド)も制作されている。
 題名の「ねじの回転」の由来は、ある屋敷に宿泊した人々が百物語のように怪談を語りあうという設定の冒頭部分における、その中の一人の「ひとひねり利かせた話が聞きたい」という台詞からとられている。「(幽霊話に子どもが登場することで)『ねじを一ひねり』回すくらいの効果があるなら……さて、子どもが二人だったらどうだろう?」「そりゃあ当然ながら……二人いれば二ひねりだろう!」

主な邦訳書
『ねじの回転、デイジー・ミラー』(訳・行方昭夫 2003年 岩波文庫)
『ねじの回転 心霊小説傑作選』(訳・南条竹則、坂本あおい 2005年 東京創元社創元推理文庫)
『ねじの回転』(訳・土屋政雄 2012年 光文社古典新訳文庫)
『ねじの回転』(訳・小川高義 2017年 新潮文庫)


 いや~、うわさにたがわぬ歴史的名作でしたね! この作品。モノクロ映画の美しさの極地なのではないでしょうか。
 非常に不勉強なことに、私はこの作品を最近やっと DVDで購入して初めて視聴したのですが、ホラー映画の歴史を語る上で決して忘れることのできない名作として、この作品の名前はずいぶんと前から知ってはいました。

 いわく、あの映画『リング』(1998年)で爆発的ブームとなった「 Jホラー」の表現する恐怖表現のひとつの起源となる重要な作品であるとか。

 純然たるイギリス映画であるこの『回転』をつかまえて日本発のブームのネタ元とするとはおかしな話なのですが、死霊なりモンスターなりの「恐怖の象徴キャラ」が実体を持ってぐわっと襲いかかってくる欧米、特にアメリカ産のホラー映画と違って、いわゆる Jホラーにおける恐怖の象徴は、「視界のすみっこ」にぼんやり誰かがいるような、いるのかいないのかわからない、あいまいな空間からじわりじわりとにじり寄ってくる、その「実体のつかめなさ」にその独自性があるという分析が、私が夢中になっていたころの1990~2000年代のホラー界隈では定説のようになっていたと記憶しています。
 もちろん、最終的には貞子大姐さんなり佐伯さんのとこの母子なりが主人公の前に実体を現わしてクライマックスを迎える流れはあるのですが、どちらかというと、そこにいくまでの「呪いのビデオ」だとか「人死にがあったらしい住宅」といったお膳立てのかもし出す「不吉な雰囲気」を重視する作劇法こそが、当時の日本産ホラー映画の特徴だったようなのです。それは、『リング』よりも『女優霊』(1995年)だとか鶴田法男監督によるオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ(1991~92年)のほうが端的かと思われます。カメラのピントが合っていない所にたたずむ、あいまいなだれか。

 それで、そういった「あいまいな恐怖」を先駆的に描いていた作品としてよく名前があがっていたのがこの『回転』でして、他には『たたり』(1963年)だとか『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964年)あたりが伝説っぽく語られていたと思います。『シェラ・デ・コブレの幽霊』さぁ、実はもう海外版の DVDを購入してるんですが、まだ観てないのよね! 近いうちに必ず腰すえて観ようっと。

 それはともかく、まずこの映画の原作であるヘンリー=ジェイムズの中編小説『ねじのひねり』(私はこの邦題が大好きなのでこれで通します)こそが、当時の怪奇文学ジャンルの中で「恐怖の対象をあえてあいまいな描写にとどめる」という「朦朧法」の実践例としてつとに有名な作品なので、これが映像化されたときに「あいまいな恐怖」を描くのは当然のことでしょう。小説と映画という世界の違いこそあれ、人間の思い抱く恐怖をどのように表現したらよいのかと模索する試行錯誤は、まるで鳥とコウモリ、もぐらとおけらのように同じ道を目指していく収斂進化の様相を呈していたのねぇ。

 ジェイムズの原作小説『ねじのひねり』と映画『回転』との内容の違いを比較してみますと、まぁ物語の大筋の流れにさほど大きな差異は無いように見えるのですが、やはり主人公となるギデンズ先生の「追い詰められ方」、つまりはテンパり具合において、小説と映画とで印象の違いを生んでいるような気がします。

 まず原作小説『ねじのひねり』の方なのですが、こちらは上の解説情報にもある通り、後年のギデンズ先生と親しかったダグラスという紳士が、怪談会の中でギデンズ先生自身のつづった回想の手記を公開するという設定で物語が始まります。
 そのため、物語の視点は当時20歳そこそこだった若きギデンス先生からの完全一人称となっており、その彼女が古い屋敷の中で何度となく出会う、彼女にしか見えないらしい「見知らぬ男女」が、果たして幽霊なのか、それともまぼろしなのかというのが、原作小説の肝となっているわけです。

 ちなみに、怪談会の中でのある人物の話という実録形式で語られるこの物語は、現実に1898年に週刊誌で連載されるまでに、作者(ジェイムズ?)が最近死没した友人ダグラスから死の直前に託された、まだダグラスが健在だった時に2人が参加した怪談会の中でダグラスが紹介した、彼が約40年前、大学生だった時に親しくなった10歳年上のギデンズ先生からもらった、彼女が20歳だった時に体験したエピソードを回想した手記という体裁になっています。まるで『寿限無』みたいに長ったらしい、わざとエピソードの時代設定をあいまいにさせようとする入り組んだ迷路みたいな事情なのですが、ここらへんも、「友達の兄貴の彼女のいとこの先輩の体験したほんとの話なんだけどさ……」みたいな感じで始まる現代の実録怪談のご先祖様らしい、実にもったいぶった前置きですよね。作者ジェイムズはこの小説を発表した時は50代なかばですので、ダグラスが具体的に何歳なのかはわからないのですが、だいたいジェイムズと同年代かと推定すれば、その10歳年上のギデンス先生が20歳の頃に体験したということは、おおよそ半世紀前、つまり19世紀半ばころのイギリスの片田舎で起きた事件ということになりますでしょうか。そのころ、日本はまだ江戸時代でい、てやんでぇ!

 話を戻しますが、小説『ねじのひねり』は徹頭徹尾ギデンス先生視点で物語が進んでいきます。そしてそこに出てくる男女の幽霊(と、ギデンス先生が主張している存在)は、どうやらギデンス先生以外の誰にも見えていないらしいという事実がほの見えてくるのですが、ギデンス先生自身は、屋敷に住むマイルズとフローラの幼い兄妹に対して「見えているのに知らないふりをしている」という疑いの目を向けていきます。
 この状況を頭に入れつつこの小説を読んでいきますと、実はこの物語は幽霊たちが存在しなくても成立することがわかります。すなはち、ギデンス先生が見たという幽霊たちは実際にポルターガイストの如く屋敷の家具調度を飛ばしたり壁に投げつけて割ったりするでもなく、ただ現れるだけなのです。いつのまにか現れて、そこにいるだけ。それなのに、それがギデンス先生にとってはたまらなく恐ろしく忌まわしいのです。
 ギデンス先生は、この屋敷の関係者の中に、ここ1年かそこらのうちに不審死を遂げた使用人のクイントという男と、その彼とよこしまな関係にあり、その死ののちに精神のバランスを崩して自殺したという前任の家庭教師ジェセル先生がいることを知り、その2人が幼い兄妹になんらかの未練を残しているために幽霊となっているのではないかと推測するのですが、彼らは遠巻きに兄妹を見ていたり、兄妹を探して屋敷の周辺をさまようばかりで、特に何もしないでいるのです。このへんの、生者に全く何もしないけど確実にいる、襲いかかるでも呪うでもなくただいるだけという存在感が、一体何をしたいのかがさっぱりわからないだけに、ギデンス先生の理解の範疇を超えたコミュニケーション不能の恐ろしさをかもし出しているのでしょう。
 原作小説におけるギデンス先生は、親が教師ということで教育に関する素養こそ持っているものの、実践の経験は全くない若い女性に設定されています。そして、そんな娘さんに対して、彼女を甥と姪の家庭教師に雇った貴族の男性は、破格の給料を約束こそするものの、労働条件として「屋敷のことのいっさいを取り仕切り、自分に決して相談しないこと」という、働き方は自由のようでいてその反面、責任もむちゃくちゃ重い要求を課すのです。当初ギデンス先生はガチガチに緊張しながらも「それだけ信頼されてるんだな……よし、がんばるゾ☆」とはりきるのでしたが、着任して早々、寄宿制の学校に行っていて夏休み期間に帰省してくるだけだったはずの兄マイルズが「退学処分」という形で屋敷に転がり込むというトラブルが発生し、その頃からギデンス先生は幽霊たちを見るようになり、同時に兄妹が「私に何か隠し事してるんじゃないかしら……」という疑心暗鬼状態に陥っていくのでした。

 このシチュエーションを見て、ホラー映画ファンならば、あのスタンリー=キューブリック監督の超名作『シャイニング』(1980年)を思い出さない人はいないでしょう。あの映画もまた、分厚い積雪に囲まれた冬季閉業中のホテルの管理を任された主人公が、自身の作家業のスランプというきっかけから精神を病んでいき、気味の悪い幽霊たちに翻弄された挙句に自らの妻と息子に殺意さえ抱く極限状態にまで追い詰められてしまう「サイコサスペンス」という、原作者スティーヴン=キングも激おこのアレンジが施されていました。原作小説は純然たる超能力ホラーなんですけどね……

 つまり、原作小説『ねじのひねり』は、幽霊怪談の形式を採っていながらも、世間一般で言う幽霊とは、精神のバランスを崩した人が見てしまう幻覚なのではないか?という解釈も可能にしている、「幽霊の存在を信じようが信じまいが成立する」物語になっているのです。その真相をあいまいにすることこそが、作者ジェイムズがこの物語を世に出した意義であり、「いると思えばいる。いないと思えばいない。」というあやかしの存在を文学の世界に成立させた大発明だったのではないでしょうか。
 このジェイムズの筆のものすごさをイメージするだに私が連想してしまうのが、あの黒澤清監督のホラードラマ『降霊』(1999年)なのですが、あの作品でも、登場人物の一人がそういうセリフを言っているんですよね。殺人鬼ジェイソンや宇宙船ノストロモ号の中にひそむエイリアンとは全く別種の恐怖が、そこには黒々と存在しているわけです。直接危害は及ぼさないけど、確実に見る者の精神をむしばんでいく、理解不能ななにか。

 ちょっと、原作小説があまりにもすごすぎるので、本題であるはずの映画『回転』の内容に入るのがだいぶ遅れてしまいました! だいぶどころじゃねぇ!!

 ほんでもって肝心カナメの『回転』なのですが、こちらはある一点で、原作小説と大きく異なる変更がなされています。
 すなはち、主人公のギデンス先生がかなりの御妙齢に。アラフォー!

 単なるキャスティングの都合だろうと言われればそこまでなのですが、原作に比べて映画版のギデンズ先生が20歳も年上の、しかも演じるのが気品たっぷりの美貌と貫録を持つデボラ=カーであった場合、ギデンズ先生のキャラクター造形にどのような変化があらわれるのかと言いますと、そこには「教育に関する強い自信」と、それがゆえに「子ども達は私に嘘をついている!」という疑いを確信的にしてしまう頑固さを原作以上に強くする効果があったのではないでしょうか。

 おそらく、原作通りにギデンス先生が20歳そこそこの新人家庭教師だった場合、物語の中心にいるのは幽霊たちと子ども達の謎に翻弄され、あわれに疲弊してゆく若い娘さんだったはずです。その、ある種の万能感を持ってチャレンジしたはずの若者が理解不能な屋敷の不条理にぶち当たり挫折してゆく姿は、映画版とはまるで違う印象を観る者に与えていたことでしょう。それこそ、教え子との心の壁に苦悩するギデンズ先生を思わず応援したくなるような、普遍的なヒューマンドラマになっていたかも知れません。はたまた、日本の明治時代末期に一大オカルト旋風を巻き起こし、その渦中でもみくちゃにされた挙句、ごみのように捨てられてしまった「千里眼事件」の女性超能力者たちの悲劇を彷彿とさせる、つらい物語になっていたのかも。ヒエ~また『リング』につながっちゃった!

 だがしかし、実際の映画版での妙齢ギデンス先生はどう仕上がったのかと言いますと、正直言いまして「幽霊よりもあんたが怖いわ!!」と言いたくなるくらいに目をひん向いて「あの子たちは嘘をついてる! 私にはわかるの!!」とでかい声でつぶやき続ける、かなり危険なかほりを漂わせるヒステリックレディになっていたかと思います。そして、そういったカーさんの女優オーラに耐えうる実力を持った対抗馬として、疑惑の幼い兄妹を演じた2人の子役も、心の裏がまったく読めず、かわいらしく笑えば笑うほど薄気味悪く見えてくる恐ろしげな存在になっていました。
 つまり要は、ギデンズ先生が子ども達に淡い幻想を抱くほど青くなく、年齢的にも8~10歳くらいの子ども達との隔絶が大きくなってしまったがために、同じ「幽霊よりも人間が怖い」作品にするにしても、原作小説とはまるで違うアプローチで「人間の思い込みのかたくなさ」と「無邪気な子どもの中に潜む残酷性」を活写する作品に、映画版は仕上がっていたのではないでしょうか。
 かくいう私個人は、演じる子役さんの演技力次第で出来がだいぶ違ってくるので、子役が前面に押し出される作品はあんまり好きではないのですが、悠久たるホラー映画の歴史の中には、「子どもが怖い系」というジャンルも確立してるんですよね。そうか、この『回転』はそっち系の重要な先行作品にもなってるのか! そっちらへんで有名なのは『オーメン』(1976年)とか『ペット・セマタリー』(1989年)でしょうが、私が好きなのはやっぱ『ペーパーハウス 霊少女』(1988年)ですかねぇ。

 とにもかくにも、小説『ねじのひねり』も映画『回転』も、幽霊よりも「人間の怖さ」に焦点を当てた名作であることに違いはありません。しかし、かたや文字かたや映像ということで、人間のどこに怖さを見いだすかでまるで違うテイストの世界を築いているところに、21世紀の今もなお伝説の傑作として語り継がれるにふさわしい、双方の魅力があるのではないでしょうか。

 それに、映画版はともかく映像がきれい! ハマー・プロの怪奇映画の監督としても有名なフレディ=フランシスの手による撮影映像の巧緻な設計プランと融通無碍なセンスの世界は、どのカットを切り取ってももはや西洋絵画の域! モノクロという映像形式をまるで制約と思わせない、色が無いからこそ無限のイメージを喚起させる色の豊かさは、もうお話なんかどうでもいいやと思わせてしまう程の魔力を持っていると思います。また、夜のシーンが夜らしく見えない位に白さを強調している夜空をバックにしているので、実にあいまいな、今が昼なのか夜なのかが一瞬わからなくなる幻惑感を演出しているんですよね。ゴシックホラーだからこその思い切った挑戦、お見事!
 あと、映画版は映像作品らしく音声という点でも原作小説に無かったオリジナリティを発揮していて、フローラがなにげなく口ずさむ『 O Willow Waly』のメロディの美しさや、兄妹と幽霊たちとの過去のつながりを濃厚ににおわせるオルゴールの存在感は、物語に時間の奥行きを生む技ありな小道具になっていたと思います。辻村深月先生の『かがみの孤城』のアニメ映画にもオリジナルでオルゴールが登場していましたが、映像化作品に音のアプローチって、定番ですよね。


 さて、ここまでいろいろとくっちゃべってきて字数もかくのごとくかさんできましたので、そろそろ本記事もおしまいにしたいと思うのですが、気がつけば、部屋の隅から恨めしげにこちらを見つめて、

「あの~、おらだづのごとは、触れてもくんねぇんだべが……」

 と無言の圧力をかけてくる、2人の男女の影が。あぁ~ごめんごめん、今ちゃちゃっと言うから!

 映画版で不気味な男女の幽霊を演じていたのは、使用人クイントがピーター=ウィンガード、ジェセル先生がクリュティ=ジェソップなのですが、どちらもセリフ無しながら非常に強烈なインパクトを残していたと思います。怖いというよりは忌まわしい、憐みを誘うたたずまいなんですよね。特にジェセル先生役のクリュティさんは、顔のアップさえほぼないのに、黒い喪服ドレスを着た遠景ショットだけで「あ、この人、生きてない。」という説得力を持たせるとんでもない才能を発揮していたと思います。そんな才能、幽霊役の他にどこで役に立つわけ!? でも、撮影監督のフレディさんは、本作の翌年に自身が監督したホラー映画『恐怖の牝獣』(原題:Nightmare 1964年)にもクリュティさんを起用してるんですよね。よっぽど気に入ったんだな……山村貞子さんの遠い遠いご先祖様ですよね。そういえば、雰囲気が木村多江さんに似てるかも。
 そして、不気味ながらもどこか、野卑な使用人とは思えない気高さをたたえる顔立ちをしていたクイント役のピーターさんなんですが、私、この人を見た瞬間から「どっかで見たことあるような……」とモヤモヤしていたんですが、30代半ばだった本作の時期よりも後年のお写真を見てやっとわかりました。この人、ジェレミー=ブレット主演のグラナダTV 版のドラマ『シャーロック・ホームズの思い出』(1994年 通算第6シリーズ)の中の第1話『三破風館』で、上流社交界の裏ゴシップに精通した怪紳士ラングデール=パイクを演じておられた方だ! 日本語吹替版の声担当は小松方正!! 

 小松方正さんと言えば、太平洋戦争の終戦直後に海軍兵となって広島に配属されていたのですが、あの1945年8月6日の前日の終電で東京へ出向したために原子爆弾の惨禍をまぬがれたという、もはや唖然とするしかない超豪運の持ち主です。原爆!? よし、これで本記事の冒頭につながったぞ!! もう、なにがなんだか。
  
 『回転』、合わない人にはちと退屈な作品かも知れませんが、ホラーな雰囲気が大好きな方にはたまらない歴史的名作です。おヒマならば、ぜひぜひ~!!
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おもしろ要素ばっかりなのに、なぜ退屈!? ~映画『間諜最後の日』~

2024年03月20日 20時18分37秒 | ふつうじゃない映画
映画『間諜最後の日』(1936年5月 87分 イギリス)
 『間諜最後の日(かんちょうさいごのひ 原題:Secret Agent )』は、イギリスのスパイ・スリラー映画。イギリスの小説家サマセット=モーム(1874~1965年)原作の連作短編小説『アシェンデン』(1928年発表)のエピソード『 The Traitor(裏切者)』と『 The Hairless Mexican(禿げのメキシコ人』の映画化作品である。
 ヒッチコック監督は、本編開始約8分にジョン=ギールグッドと共にスイスに降り立つ乗客の役として出演している。

あらすじ
 第一次世界大戦中の1916年5月10日、イギリス帝国軍大尉で小説家のエドガー=ブロディは休暇で帰国したところ、新聞に自分の死亡記事を発見する。ブロディは「R」と名乗る男のもとに連行され、Rはブロディに極秘任務を依頼する。それは、中東で動乱を引き起こすためにアラビアに向かうドイツ帝国のエージェントを見つけ出し排除することである。同意したブロディは死んだことにされ、リチャード=アシェンデンという新たな身分が与えられ、「禿げのメキシコ人」や「将軍」などと呼ばれる殺し屋の協力を得ることとなる。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(36歳)
脚本 …… チャールズ・ベネット(36歳)他
製作・配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
エドガー=ブロディ / リチャード=アシェンデン …… ジョン=ギールグッド(32歳)
エルサ=キャリントン …… マデリーン=キャロル(30歳)
将軍         …… ピーター=ローレ(31歳)
ロバート=マーヴィン …… ロバート=ヤング(29歳)
ケイパー   …… パーシー=マーモント(52歳)
ケイパー夫人 …… フローレンス=カーン(58歳)
R      …… チャールズ=カーソン(50歳)
リリー    …… リリー=パルマー(22歳)


≪本文マダヨ~。≫
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これは……『仮面ライダー』の原型、なのかな? ~岡本喜八 映画『殺人狂時代』(1967年)~

2024年03月10日 14時11分02秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。
 なにかと忙しい年度末、みなさまいかがお過ごしですか。私の住んでいる山形は、冬がなんだか遅くズレ込んで始まったような感がありまして、年が明けてからやっと雪が積もって冬らしくなったかと思ったら、3月も半ばになろうかという今になってもなかなか暖かい日がやってこない、不思議な季節になっております。おかげで花粉症のスタートも遅くなっているようなのでそれはありがたいんですが、ひな祭りだ卒業シーズンだと言っても春めいてこないのは、なんだかねぇ。

 さてさて今回の記事は、ず~っと前から取り上げたいなと思っていた、ある昔の映画の話題であります。日本の中でも『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)とか『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)とか『太陽を盗んだ男』(1979年)とか、「伝説のカルト映画!」と称される映画作品はあまたあるのですが、この作品もまた、栄光あるカルト映画の殿堂に悠然とその座を占める名作であると言えますね。そんな殿堂、行ってみたいようなみたくないような……


映画『殺人狂時代』(1967年2月公開 モノクロ99分 東宝)
 『殺人狂時代(さつじんきょうじだい)』は、1967年に公開された東宝製作の日本映画。
 もともとは日活で映画化されていた企画だったが諸般の事情で没となり、その権利を東宝が買い取って、小川英・山崎忠昭による日活時代のシナリオを渡された岡本監督が手直しを加えて撮影し、1966年にいったん完成した。しかし東宝上層部の判断により公開直前でお蔵入りとなり、翌67年に特に宣伝もされずにひっそりと公開された。併映にはあまり集客が見込めないドキュメンタリー映画『インディレース・爆走』(監督・勅使河原宏)が組まれ、また公開された時期が年間で最も客足が遠のく2月だったこともあり、結果として興行は東宝始まって以来の最低記録となった。監督の岡本も非常に落ち込んだという。
 しかし1980年代にリバイバル上映でされてからようやく評価され、今なおカルト映画として人気がある。作中、現在では放送禁止用語に指定されている単語がセリフとして飛び交うため、TVで放送されることはほとんどない。
 原作小説から主人公・桔梗の設定や後半の展開が変えられており、敵役の溝呂木の扱いが大幅に膨らんでいる。ド近眼でマザコンで偶然のように敵を倒していく桔梗と、奇抜なギミックを見せびらかしながら勝手に自滅していく殺し屋たちという喜劇的対決を速いテンポで見せ、残酷な殺人シーンで明るいカンツォーネを流すなど、ロマンティック・スリラーの演出が施されている作品である。
 ちなみに、岡本監督の歴史大作『日本のいちばん長い日』が公開されるのは本作公開の半年後の1967年8月。天本英世と並び称される岡本組の常連で稀代の個性派俳優・岸田森が岡本作品に初出演するのは、翌年の『斬る』からである。

あらすじ
 精神病院を経営する溝呂木省吾のもとへ、かつてナチス・ドイツで同志だったブルッケンマイヤーが訪れる。彼の所属するナチス残党の秘密結社は、溝呂木の組織する「大日本人口調節審議会」への仕事依頼を検討しているという。「審議会」は人口調節のために無駄と判断した人間を秘密裡に殺すことを目的としており、溝呂木は入院患者たちを、殺人狂の殺し屋に仕立て上げていたのだ。
 ブルッケンマイヤーは仕事を依頼するにあたってのテストとして、電話帳から無作為に選出した3人の殺害を要求した。殺害対象の1人として指名されたのは犯罪心理学の大学講師 ・桔梗信治。水虫に悩む冴えない中年男である。桔梗は自宅アパートで「審議会」の刺客・間淵に命を狙われるが、偶然にも返り討ちにしてしまう。警察にこの件を届けた桔梗だが、部屋に戻るとなぜか間淵の死体は消えていた。
 桔梗はたまたま知り合った雑誌『週刊ミステリー』の記者・鶴巻啓子、車泥棒の大友ビルと共に、桔梗を狙う「審議会」の刺客たちと対決することとなる。一方、ブルッケンマイヤーの言動に不審を抱いた溝呂木は彼を拷問し、実は目的が桔梗ただ1人であることと、その背景には第二次世界大戦中に紛失したダイヤモンド「クレオパトラの涙」の行方が絡んでいることを探り出すのだった。

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督 …… 岡本 喜八(43歳)
製作 …… 田中 友幸(56歳)、角田 健一郎(47歳)
原作 …… 都筑 道夫(37歳)『なめくじに聞いてみろ』(旧題『飢えた遺産』 1961~62年連載)
脚本 …… 小川 英(36歳)、山崎 忠昭(30歳)、岡本 喜八
美術 …… 阿久根 巌(42歳)
録音 …… 渡会 伸(48歳)
音楽 …… 佐藤 勝(38歳)
編集 …… 黒岩 義民(35歳)
監督助手 …… 渡辺 邦彦(32歳)
技闘 …… 久世 竜(59歳)

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
桔梗 信治  …… 仲代 達矢(34歳)
※映画版では「城南大学の犯罪心理学講師」という設定になっている
鶴巻 啓子  …… 団 令子(31歳)
大友 ビル  …… 砂塚 秀夫(34歳)
間渕 憲作(第1の刺客 トランプの殺し屋)    …… 小川 安三(34歳)
地下鉄ベンチの老人(第2の刺客 仕込み傘の殺し屋)…… 沢村 いき雄(61歳)
青地 光(第3の刺客 小松弓江の部下で鞭の殺し屋)…… 江原 達怡(29歳)
小松 弓江(第4の刺客 霊媒を自称する催眠術師) …… 川口 敦子(33歳)
第5の刺客 義眼の女殺し屋 …… 富永 美沙子(33歳)
第6の刺客 松葉杖の殺し屋 …… 久野 征四郎(26歳)
第7の刺客 レンジャー殺し屋ソラン  …… 長谷川 弘(39歳)
第8の刺客 レンジャー殺し屋パピィ  …… 二瓶 正也(26歳)
第9の刺客 レンジャー殺し屋オバQ  …… 大前 亘(33歳)
第10の刺客 レンジャー殺し屋アトム …… 伊吹 新(?歳)
池野(第11の刺客 ゴリラ男の殺し屋)…… 滝 恵一(37歳)
ヤス    …… 大木 正司(30歳)
ヒデの兄貴 …… 樋浦 勉(24歳)
『週刊ミステリー』編集長 …… 草川 直也(37歳)
バーのホステス …… 南 弘子(20歳)
咆える狂人 …… 山本 廉(36歳)
酒場の客 …… 西条 康彦(28歳)、阿知波 信介(26歳)、木村 豊幸(19歳)、関田 裕(34歳)
ルドルフ=フォン=ブルッケンマイヤー …… ブルーノ=ルスケ(?歳)
溝呂木 省吾    …… 天本 英世(41歳)

〈原作小説『なめくじに聞いてみろ』との相違点〉
・特殊技能を持つ殺し屋を養成した黒幕が、原作では桔梗信治の父・桔梗信輔であり、信輔は物語が始まる一ヶ月前に死亡している。
・原作の信治は山形県の山奥(桔梗信輔一家の戦時中の疎開先)から上京したばかりであり、アパートに入居しているが定職は無い。
・原作の鶴巻啓子は雑誌記者ではなく、調査会社「トオキョオ・インフォメイション・センター」の社員。
・原作での第1の刺客・トランプ使いの間渕との対決の場は、東京・世田谷区の遊園地・二子多摩川園(1985年に閉園)。
・原作の第2の刺客・仕込み傘の殺し屋は大竹という名前の長身の男で、スリの能力に長けた女マネージャーの妻がいる。
・原作では信治の協力者として鶴巻啓子と大友ビルの他にスリの名人の佐原竜子が登場する。
・原作での第3の刺客は、桔梗信輔が開発した殺人マッチを使用する占い師・弓削。
・原作での第4の刺客は、映画版の第6の刺客にあたる松葉杖の殺し屋・水野で、その死後は、水野の同性愛の恋人である美青年が復讐のために桔梗信治をつけ狙う。
・原作での第5の刺客は、映画版の第3の刺客に当たる殺人ベルト使いの柴崎。
・映画版の第5の刺客は、原作での第6の刺客(義手の女殺し屋)の設定と第9の殺し屋(眼帯の浮浪者)の殺人法がミックスされている。
・原作での第7の刺客は、殺人針の使い手のニセ刑事。
・原作での第8の刺客は、映画版の第4の刺客にあたる霊媒師の小松弓江だが、殺人の手法が違う。
・原作での第10の刺客は、毒入りカプセルの使い手。
・原作での第11、12の刺客は映画版の第12、13の刺客と同じ人物だが、どちらも殺人の手法が違う。
・原作での秘密組織「人口調節審議会」に所属している殺し屋は、第7、10、11、12の刺客の4名のみ。
・映画版の溝呂木省吾は、原作版の桔梗信輔と溝呂木とブルッケンマイヤーをミックスしたキャラクター設定になっている。
・原作版の溝呂木省吾は、上野の西郷隆盛像を想起させる大柄の男。


 いや~、ものすごい作品ですよ、これ。
 なんとなく、先ほど挙げたような他のカルト映画のみなみなさまと比べると話題に上る機会が少ないというか、インパクトが薄いような気もするのですが、ちょっと観てみてごらんなさいな。かなり面白いですよ~。
 まず、監督が岡本喜八さんということで、すでにかなりの高さのクオリティが確証されていることは間違いないのですが、この作品はあえて人の命を丸めたティッシュ程度の軽さにしか捉えていないといいますか、人間ドラマだのテーマ性だのと言った、本来ならば岡本喜八作品のキモにもなっている部分を気持ちいいくらいにポイっと捨てて、もう一つの喜八ワールドの特色である「映像テンポの軽快さ」に100% 全振りした内容となっています。
 ちなみに、私そうだいが一番好きな岡本喜八作品は『赤毛』(1969年)ですねぇ、やっぱ。キャラクターのマンガみたいな軽快さと、彼ら彼女らの運命の悲惨さのバランス感覚が奇跡的にすばらしいんです。結末、何回観ても泣いちゃう……
 余談ですが、岡本喜八監督ご自身は2002年まで現役バリバリで活躍されていたので(2005年没)、1980年代生まれの私からしてもリアルタイムに楽しめる映画監督だったのですが、映画館で観る機会はついに無かったんだよなぁ。いっつも TVの映画劇場かレンタルビデオかで……私の精神的成長が間に合わなかった! 喜八監督お許しを!!

 それで、くだんの『殺人狂時代』なのですが、いちおう蛇足を承知で注意させていただきますと、ある意味で喜八版よりも毒味の強いチャールズ=チャップリン主演・監督の同じ邦題の大問題作『殺人狂時代』(1947年)とは全く関係がありません。チャップリン版もものすごい伝説の一作なんですけどね……これには、タイトルが似ているということで『黄金狂時代』(1925年)と同じ捧腹絶倒のノリを期待してワクワクしながら視聴した小学生時代のそうだい少年も度肝を抜かれましたね。喜劇王、こわすぎ!!

 脱線した話を喜八版『殺人狂時代』に戻しますが、そもそも、私がどうしてこの作品を気にするようになったのか、その経緯を話します。

 つい最近のことなのですが、私はどうして、庵野秀明さんの一連の「シン」作品群に対して「なんか、みんなおんなじだなぁ。」という感覚を持ってしまうのかを考えていました。『シン・ウルトラマン』(2022年 庵野さんは脚本担当)しかり『シン・仮面ライダー』(2023年)しかり。もっとさかのぼれば『キューティーハニー』(2004年)の頃から感じていた既視感です。

 これらの作品に共通する要素はなにか。その答えは、「悪役の逐次投入パターン」の、悲劇的ともいえる遵守っぷりです。哀しい!!

 なんで悪の組織とか悪の親玉って、自分の手ごまを1コ1コ、個別に完成し次第投入しちゃうんだろうか。週1くらいのペースで新作改造人間か怪獣が作れるんだったら、1~2ヶ月くらいストックをためてみて、7~8体いっきに正義のヒーローにぶつけた方がいいんじゃなかろうか!?

 これ、特撮ヒーロー番組を観たことのある人だったら、誰でも2~3話観ていれば思いつく作戦なんじゃないのでしょうか。でも、悪の組織のえらい、もしくは頭のいい人達は、ついぞこの戦法を採用したためしがない! なぜなぜ Why ヴィラン・ピーポー!?
 そのくせ、一回ヒーローに負けた手ごまは、だいぶ後に思い出したようにまとめて再生させてドバドバっと出してはくるのですが、この「一回負けている」という点が大きくて、ヒーローに対する脅威度はびっくりするくらいにゼロに近くなってるから覆水盆に返らずですね。戦法の知りようのない完全新作をぶつけなきゃ、いくら束にしたって意味無いんですよう! 改造ベロクロンⅡ世、My Love!!

 わからない……悪の組織や悪の親玉は、なぜそんな、自分たちの勝算を限りなく低くする戦略しかしないのでしょうか。特撮ヒーロー番組やアニメにうとい私の記憶にある限り、手持ちのコマを全部いっきに投入する作戦を実行したのは『機動戦士ガンダム』のコンスコン少将くらいかと思うのですが、どうしてその手を使おうとしないのでしょうか……ま、コンスコン少将もボロ負けしてたけど。

 これはもう、悪の組織の首領が「わざとその戦略(全戦力の投入)を採用していない」としか言いようがないですよね。
 その理由としては、まぁぶっちゃけてしまえば「ヒーローが負けたら番組が終わっちゃうから」という身もフタもない大哲理が内在しているからではあるのですが、あくまでフィクションの世界の中での理屈としては、「悪の組織の内部で幹部クラス同士の足の引っ張り合いがある」とか、「首領がヒーローのある程度の成長を『実験観察』として望んでいる」とかいう、複雑な事情が絡んでいることが多いようです。なりほど。

 さてさて、そしてお話は庵野さんの諸作に戻るのですが、私が先に挙げた3作を例に取りますと、必ずしも全てに「明確なラスボス」が存在しているわけでもなさそうなのですが、ポツ、ポツ、と単体の敵キャラが個別に主人公に襲いかかるという流れが頑ななまでに一貫しています。そもそも、庵野さんの作品ということで言うのならば『新世紀エヴァンゲリオン』からしてそうであるわけなのですが。

 この流れ、週1放送という形式のある TVシリーズならば話もわかるのですが、90~120分くらいのひとつのまとまりになっている映画作品でこの形式を踏襲するのって、一体どういう了見なのでしょうか? これはおそらく、TV番組という形式が生まれる以前からすでに「敵キャラの逐次投入」という文法が、フィクションの世界で存在していたからなのではないのでしょうか。

 とすれば、それはもう「連載小説」というか「続きもの小説」の盛り上がり&ひっぱり演出として逐次投入法が開発されていたとしか考えられません。
 そうなると、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』に代表される「週1敵キャラ登場の法則」の起源が、本作の原作である都築道夫の連載小説『飢えた遺産』(のちに『なめくじに聞いてみろ』に改題)で如実に提示されている「1回のエピソードで異常な殺人法を持つ殺し屋が1人登場する」というパターンにあることは、メディアこそ違えどもエンタテインメントのあるジャンルの系譜として、まったく理の当然であるわけなのです。なるほど、昔のエンタメの主戦場だった新聞や雑誌が、昭和中期に TVに変わっていったことの一つの表れであるわけですし、その過程の中で双方に変換しうる別エンタメ=映画作品として、この喜八版『殺人狂時代』も生を受けたということなのですな。わかりやすい!

 もちろん、『飢えた遺産』が「敵キャラの逐次投入」パターンの始祖であるわけはなく、もっとずっと昔から、その形式にのっとったフィクション作品は世界中に存在していたはずです。今パッと思いつくだけでも、連載小説で言えばまず山田風太郎の『甲賀忍法帖』(1958~59年連載)から始まる「忍法帖シリーズ」の異能忍者敵キャラの百花繚乱ぶりははずせませんし、「ヘンな敵キャラが出てくる奇想天外な冒険物語」という特色で言うのならば、イギリスの小説家イアン=フレミングの「007シリーズ」(1953~64年 12の長編小説と2つの短編小説集)の世界的大ヒットを無視するわけにはいきません。本人はもちろん生身の人間であるのですが、明晰な頭脳と精力的な肉体、そしてムンムンにただよう「英国紳士の色気」で八面六臂の大活劇を演じる国際的凄腕スパイ・ジェイムズ=ボンドの存在感は、明らかに日本の正義のヒーローたちに通じる「ロマン」を漂わせているような気がします。
 ちなみに、喜八版『殺人狂時代』が制作されたのは1966年だということなのですが、その時点で「007シリーズ」はご存じの通り、初代ボンドことショーン=コネリーの主演で4作制作されており、当然、ボンドをつけ狙う世界規模の悪の秘密組織「スペクター」もすでにしっかりと映像化されております。スペクター!! 本作の溝呂木省吾ひきいる「大日本人口調節審議会」とか『仮面ライダー』のショッカーの直系の先輩ですよね。

 こういったことをずらずらっと時系列順にならべてみますと、まず、当時「ヘンな敵キャラを各個撃破していく正義のヒーロー」という形式のエンタメ作品が確立、ヒットしていたことがよくわかります。そして、すでにジェイムズ=ボンドという正攻法のスーパーヒーローが世界を股にかける大成功を収めている状況であった以上、スリラー冒険小説『飢えた遺産』を映画化するにあたり、主人公・桔梗信治を、原作通りにわりと序盤で相当な腕を持つ殺人術の達人という正体をバラしちゃう路線を「とらなかった」喜八監督のアイデアは、全く無理のない判断であると言えるのです。それじゃあまんま、ボンドや、本来この作品が映画化されるはずだった日活アクション映画のヒーロー系主人公の後追いになってしまいますからね。
 その結果、喜八版の桔梗信治には、都会のおんぼろアパート住まいの冴えない大学講師というオリジナル設定が付け加えられたわけなのですが、演じたのが魅惑の低音ボイスびんびんの仲代達也34歳ということもありまして、後半でコネリー・ボンドもかくやというスーパーヒーローっぷりを開放してくれます。
 でもまぁ……正直、前半のダメ講師・桔梗という設定は、現に襲い来る異常な殺し屋集団を「偶然のてい」であるにしても右に左にいなして返り討ちにしてしまっているので、「どうせ仮の姿なんでしょ」という後の展開がバレバレな感じになっていますので、意外性はそんなには無いというか、喜八監督がわざわざ脚本に取り入れる程効果的に機能しているようには見えません。単純に、言動がもっさもっさしている主人公はテンポが悪いし……

 余談ですが、このように物語の構造の部分では山田風太郎エンタメ小説や007シリーズの系譜を引き継ぎ、のちの『仮面ライダー』へとつながる位置にある本作と原作小説なのですが、「抜けたところもあるが異性にも同性にもやたらとモテるヒーロー」という主人公の魅力的なキャラクター造形という点で言えば、これは明らかに、本作の形ばかりの劇場公開後の約半年後にマンガ連載の始まった、あの『ルパン三世』(原作モンキー・パンチ)の先輩にもあたる作品なのではないでしょうか。ひゃ~、私の「怪獣」ジャンル以外で好きな作品が、ぜ~んぶこの作品をジャンクションにしてつながっちゃってるよ!! ただし、「(演技ではあるのだが)まぬけなヒーロー」という桔梗信治の属性は原作小説版ではなく喜八版オリジナルの設定で、その反対に喜八版ではヒロインが1人であるのに原作小説版では信治をめぐって2人の魅力的な女性がバチバチするということでモテ要素は原作版の方が強いので、ルパン三世ほどキャラクターがはっきりしているわけでもありません。でも、そう考えるとおんぼろ自動車を乗り回し、男女の相棒を連れて夜の街を駆ける仲代達也の姿がルパン(緑ジャケットの1st 版でしょう)のように見えてくるのも不思議ですね。髪の毛も、長くも短くもない微妙なヘアスタイルだし。

 そして、喜八版のもう一つの大きな変更点は何と言っても、桔梗信治と対決する「ラスボスが誰か」という点です。これはデカいぞ!

 映画版の大ボスは言うまでもなく、自身の経営する精神病院への入院患者をナチス・ドイツ仕込みの殺人哲学で異常な殺人法を習得した「大日本人口調節審議会」の所属殺し屋に養成してしまう院長・溝呂木省吾なわけなのですが、ネタバレぎりぎりで言っちゃいますと、溝呂木は大ボスであって「ラスボス」ではありません。この、「首領を倒したはずなのに、まだ刺客が!?」という意外な展開が、推理小説家としての原作者・都築道夫の面目躍如といった感じでいいですね。
 その流れで映画版の中で桔梗に襲いかかる刺客は溝呂木も含めて「13人」ということになるのですが、上の情報でまとめたように、原作小説『飢えた遺産』における異常な殺し屋集団の「開発者」は溝呂木とは全く別の人物(桔梗信治の父)で、しかもその人物は物語が始まった時点ですでに死亡している……というか、その人物が死亡したことで『飢えた遺産』の物語が始まるというシステムになっているのです。その設定がある上で、原作小説でも溝呂木省吾と「人口調節審議会」はいちおう別に登場するのですが、溝呂木はあくまで殺し屋の中の一人でしかなく、審議会も溝呂木が結成したきわめて自己満足的な美学にのっとった小規模な集まりでしかありません。

 要するに、原作『飢えた遺産』の主人公・信治は、あくまでも自分や12人の人間を、社会の裏街道でしか生きることのできない異常者に変えてしまった父の「遺産」を消去しようとする個人的な「遠回しの復讐者」でしかなく、そもそも元凶たる首領(父)が死んでいる以上、どうしたって信治が完全勝利することはできないという、きわめてビターな結末が待っていることは間違いないわけです。
 ここらへん、一連の事件の元凶が死んでいるという「死に逃げ」パターンは他のフィクション作品でもたま~にある設定なのですが、有名なところでは『犬神家の一族』もある意味でそうでしょうし、もっとわかりやすいもので言えば映画『機動警察パトレイバー』の第1作目(1989年)の天才プログラマー・帆場暎一なんか、もろにそうですよね。
 そして、庵野さんの作品で言えば『シン・仮面ライダー』でもその設定が踏襲されている感はあるのですが、人間としての首領本人は死んでるっぽくても、その遺志を継承した存在がちゃんといるらしいので、必ずしも「死に逃げ」とは言えない中途半端さがあると思います。なんか、その煮えきらなさが続編制作への未練みたいで、あんまりスマートじゃないですよね。

 それはともかくとして、そういった感じで主人公の極私的かつ不毛な復讐の物語として、軽快な中にもある種のほろ苦さをたたえていた原作小説に対して、喜八版は「稀代の異常俳優・天本英世」を生きた悪の組織の首領に持ってくることによって、非常に単純明快で映画的な「異常 VS 異常」の一大ページェントに変容させることに成功しおおせたのではないでしょうか。苦味なし! 観終わった後に残るものも一切ナシ!!

 いや~、この映画をカルトたらしめているのは、やっぱ天本さんの演技とも言えないリアルな狂気演技、これしかないですよね。
 だいたい、「殺し屋たちが精神病院の院長に調教された患者」っていう、この令和の御世ならば口にしただけでお縄をちょうだいしそうなムチャクチャな設定だって、原作小説にはどこにもない喜八オリジナルだからね!? 別に都築道夫さんの原作小説にお蔵入りになる原因があるわけじゃないんだからねっ。

 天本さんの活き活きとした悪人演技。もうこれだけを楽しむ映画ですよね、最高です……最高にイカレてます!!
 わかりやすく言うのならば、「死神博士じゃなくて地獄大使系アッパー悪の幹部を演じている天本さん」って感じになりますかね、喜八版の溝呂木省吾って。でも、なんたって天本さんなんですから、とにかく植物系の色気がハンパない! ファッション、持ち物、語り口、すべてに完成されすぎた漆黒の美学がゆきわたっているのです。くをを~♡
 演じているのが死神博士の天本さんで、スペインのフラメンコのように情熱的に自身の殺人哲学を語る熱っぽさは地獄大使のようで、しかもその前歴はゾル大佐も所属していたナチス・ドイツに通じているというのですから、喜八版の溝呂木はのちの『仮面ライダー』のショッカー3大幹部のよくばりセットみたいなキャラクターですよね! あれ、ブラック将軍は……?

 いろいろくっちゃべっているうちに、いつものように字数もかさんできましたのでそろそろおしまいにしたいと思うのですが、この喜八版『殺人狂時代』は、特撮ヒーロー番組の主人公サイド……ではなく「悪の秘密組織サイド」が大好きな方ならば、絶対に観て損はしない作品だと思います。確かに、喜八監督作品の中ではやや軽さが過ぎるいびつな作品だし、登場する人物たちは別に特殊能力を持ったスーパーヒーローでも人体改造を施されたミュータントでもないのですが、ともかく「俳優業そっちのけで自分の好きなことに邁進している人」がいる映画が、どれだけ楽しそうに見えるのかがよくわかる好例なのではないでしょうか。こんな英世みたことない!! 死神博士とか『 GMK』とか『平成教育委員会』とかだけで記憶されるべきお方ではないのです。すごいよ~。
 あと、ライダーライダーと言っていますが、あくまでもこの映画は東宝作品ですので、ウルトラシリーズで顔なじみになる俳優さんがた(一平ちゃんの西条康彦さん、イデ隊員の二瓶正也さん、ソガ隊員の阿知波信介さん)がチラッと出てくるのもお得ですよ。阿知波さん、完全なる一発芸キャラを楽しそうに演じちゃってるよ! 阿知波さんに限らず、この映画「とりあえず勢いで。」が多すぎるのよ……

 喜八版『殺人狂時代』は、ほんとに時代のあだ花と言いますか、1960年代中盤の日本の狂騒的なまでの活況ぶり、混乱っぷりを、低予算ながらもバッチリ記録した作品になっていると思います。同じ喜八監督の『日本のいちばん長い日』とか、同時代の黒澤明監督作品とかのウェルメイドな大作のみで昭和を振り返るばかりでなく、たま~にこういうバロック(ゆがんだ真珠)をめでてみるのも一興なのではないでしょうか。

 監督、俳優、時代、全てが若い!! そのエネルギーの奔流には、公開後半世紀以上が経っている令和の現代でも、見る人の心をつかむ魔力があると思いますよ。

 ま、倫理的には3アウトどころか即刻試合中止レベルの作品ですけどね……デンジャラ~ス!!
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混沌に七竅を穿ったようなおはなし ~映画『ボーはおそれている』~

2024年02月23日 23時54分27秒 | ふつうじゃない映画
 わおわお~! みなさまどもどもこんばんは! そうだいでございます~。
 2024年も始まってしばらく経ちましたが、みなさま息災でお過ごしでしょうか。今年はほんとにお正月から天変地異が相次いでねぇ。正直、いいことなんかあったかなと思ってしまうような1、2月なのですが、それでもとりわけ悪いことも起きていない我が身のしあわせを、ありがたく思わなければなりませんね。先月の健康診断、結果悪かったけどね! ことあるごとに野菜ジュース飲んでます……無駄なあがき!!

 さてさて、前々からだいぶ働き方を楽にさせてもらっていると申してはおるのですが、それでもやっぱり私の職種は、年明けから年度末まで下っ端の私までもがあくせく働かねばならない忙しい習性がありまして、ろくに映画館に行くこともできないまま時ばかりが過ぎております。昨年は意識して映画をバンバン観ていたので、年明けからいろいろ観ていたのですが、今年は1月まるまるなんにも観てなかったんですよね。そして、2月に入って満を持して観た今年最初の映画も『鬼滅の刃 絆の奇跡、そして柱稽古へ』というぐうたらっぷり……いや、作品自体はいつもの ufotableクオリティで充分に面白かったのですが、なんてったって作者さんがその後の怒涛のラストスパートに向けて意図して作った「間奏」みたいな部分なので、前作、前々作のような大興奮は望むべくもありませんよね。あらためて、鬼いちゃんは相当がんばってたんだな……

 そんでもって本日、やっと人前で「映画観てきたよ~」と言えそうな作品を観てきたので、今回はその感想記をつづりたいと思います。なんてったって約3時間なんだぜ!? ボリューミ~。


映画『ボーはおそれている』(2023年4月公開 日本公開は2024年2月 179分 アメリカ)


 いや~、おなかいっぱいです。でも、そんなに長くは感じなかったかな。退屈はしなかったような気がしますね。これはたぶん、作品の内容とか面白さというよりも、監督のアリ=アスターさんが若干30代なかばということで、作品づくりのテンポというかリズム感覚が現代的だからなのではないでしょうか。巨匠監督の3時間とは違うんですよね、いい意味でも、悪い意味でも。
 それで早速、私がこの作品を観た率直な感想ですが、

かなりライトで見やすい……むしろ、物足りない!? 思ってたんと違う!

 こういう感じになりました。勝手に私の中の期待値が上がり過ぎていたのであろうか。

 アリ=アスター監督と言えば、私にとってはなんと言っても前作『ミッドサマー』(2019年、日本公開は2020年)……というか実は私、ちまたの批評でよく今回のボーちゃんとテーマが似ていると言われるアスター監督の長編第1作『ヘレディタリー 継承』(2018年)を、まだ観てないんですよね。ヒエ~、ホラー映画好きを標榜していながらこの不勉強ぶり、許してちょーだい!

 いや~、『ミッドサマー』にはビックラこいたんですよ。それについての雑感は我が『長岡京エイリアン』でもべらべらとくっちゃべったわけなのですが、今振り返ってみると、私はあの作品における「色彩のジェットコースター感」に参ってしまったのだと思います。
 いかにも北欧スウェーデンといった感じのパステルな淡さと、人間の無惨に損壊した肉体からしたたり落ちる血のドロッとした原色。いつまでも変わらないような暖かみを持つ牧歌的な共同生活村と、そこで繰り広げられる凄惨きわまりない儀式。人の心の弱さを無条件にゆるす村人たちの寛容さと、自分たちの村に来た以上たとえ部外者であろうとも自分たちのルールには死んでも従ってもらうという狂信的な厳しさ!!
 ここらへんの、自分の身の回りの空気が氷のように冷たいものにガラリと変わったことに気づき「ヒエッ……」と心臓が縮み上がる感覚。いつでも帰られると思っていた楽しい遊園地の門がいつの間にか閉まっていて、もはや後戻りできない状況にあることを知った時の恐怖! ここを見事に映像化しおおせていたのが、『ミッドサマー』の真価だと感じたのでした。わざと解像度と遠近感を狂わせたような CGの使い方も、実に挑戦的ですばらしかったですよね。ま、それだけにソフト商品を買ってまで何度も観たいとは思わないんですが……気持ち悪すぎ!!

 そういう前作を観た当時は、ちょっと予想よりも過激すぎたことへの拒否反応もあって「いや、アスター監督、もういい……」と引きまくっていたのですが、あれから数年経ち、あのホアキン=フェニックスを主演にすえたアスター監督最新作がいよいよ日本に上陸ということで結局、怖いもの見たさで本作を観に行ったわけなのでありました。昨年の年明けにも『マッドゴッド』なんて観てたし、歳をとるとお金を払ってでも刺激のあるものが欲しくなるもんなんですかね……3時間の映画なんて、もはや山伏の荒行レベルよ!?

 それで、とくに膀胱が破裂することもなく無事に観終えたわけだったのですが、あくまで私の印象のみで言わせていただきますと、今作は非常にサラッとした内容になっていて、『ミッドサマー』にあったような「見ろ!見ろ!おら見ろ!!」みたいな暴力的な鑑賞体験は全くと言っていいほど無かったような気がしました。
 いや、もちろん(?)主人公は最終的にひどい目に遭います。遭うんですが、具体的に観客の身に迫るようなエグい肉体損壊の描写などありませんし、本作が R-15指定になっているのは残酷描写が理由でないことは明らかでした。物語の行きがかり上ちょっとお色気シーンがあるからって感じですよね。ま、それもナイスミドル同士のアレなんで、そんなに観たいってわけでも、ね……

 本作は、宣伝では「オデッセイ・スリラー」と銘打たれているようなのですが、ジャンルとしてはブラックコメディ以外の何者でもないと思います。ただ、コメディだとすれば最後に来るオチが最重要ポイントになるわけなのですが、そのオチが「どこかで見たよーな」ものになっているので、そのオチで一応のまとまりはつくものの、かなりの物足りなさが残るものになってしまうと感じました。
 言ってしまえば「どんでん返し」オチなわけなのですが、こういう種類のフィクション作品の常として、生まれて最初に観た「それ系オチ」の作品がこの『ボーはおそれている』だったのならば宣伝文句通りに「永遠に忘れられないラスト」として記憶に残るのでしょうが、すでに過去の何かでそのオチを経験している人が観た場合は……「あぁ、それね。」どまりになってしまいますよね。まさに私がそうだったんです。

 う~ん……ホアキンさん演じるボーが車に轢かれるまでの「第1部」は、すっごく好きだったんですけどね。あそこはまさに映像のテンポからして笑いを取りにきてるアグレッシブさがビンビン伝わってきて実にステキでした。よくよく考えてみるとこの部分、一人称の視点の主であるボーが薬で虚実ないまぜ状態という「信頼できない語り手」になっている点や、何と言っても主人公を演じているのがホアキンさんその人という点で、どこからどう見てもあの『ジョーカー』(2019年)の本歌取りのような相似に気づかされます。そうなのですが、ボーの住む町に巣食うホームレスや犯罪者の集団が、まるで赤塚不二夫か高橋留美子の世界から召喚されたかのような陽気さに満ちているところや、ボーを演じるホアキンさんの、同じ病的でも『ジョーカー』の主人公とは人間性と育った環境が全く違うということを秒で伝えてくる稀代の演技力によって、退屈さを全く感じさせない時間にしてくれていると感じました。ところどころ、「これ『 Mr.ビーン』かな?」と見間違えてしまうかのような笑いどころがちりばめられていましたよね。

 ただ、私としては、なのですが、だいたい4部構成になっている本作の中で面白いなと感じたのはこの第1部だけでありまして、残りの3つのパートは、決定的につまらなくもないのですが、どこも「どこかで見たような展開」のきれいなトレースといった感じで、それほどアスター監督のオリジナリティを感じるような部分は無かったように感じたんですよね。つまらなくはないんですけど……

 前作『ミッドサマー』でもつくづく感じたのですが、アスター監督はほんとに過去の映画に博覧強記と言いますか、作品のところどころに過去の先達の名作の要素をたくみに取り込んだ部分がたくさんあって、観ているだけで観客の記憶に「あ、これ、どこかで……」みたいな既視感の刺激を与える体験も、アスター監督作品の楽しみ方のひとつなのではないかと思うんです。
 でも、今回は確かに長い長い旅を続けるボーという主人公の軸は一貫して作品に通ってはいるのですが、第2部以降にボーを取り巻く環境世界に、ボーの生命をおびやかす強烈さが無かったこと。これが本作の決定的な「緊迫感の無さ」につながっており、その原因こそが、第2部以降でアスター監督が選んだ「過去の先達」のチョイスの失敗だったのではなかろうかと私はふんでいるのです。

 そう。アスター監督は今回、決して相手にしてはいけない恐るべき大先輩を相手にしてしまったのだ。彼の作品には、順序も建前も秩序も、もはや哲学さえもが存在していないのかも知れない。栄光と狂気に満ちた飽食の国アメリカの生んだ大いなる暗闇、大いなる混沌。そう、彼の名は……

デイヴィッド=リンチ! デイヴィッド=リンチ!! デイヴィッド=リィインチ~!!! きゃ~。

 あかん! アスター監督、そらあきまへんて!! 相手にしたらあかんお方やでぇ。
 いや、こんなの裏付けもへったくれもない私の完全な思い込みでしかないのですが、第2部の作り笑いに満ちた医者一家のかりそめファミリーライフとか、第3部のボー爺さんのバカバカしいヴァーチャル人生劇場とか、第4部の若作りしまくり母ちゃんのいかにも人工的な豪邸とか、そこらへんの撮影手法の万華鏡のような転換っぷりが、どうしてもかのデイヴィッド=リンチ世界の自由奔放な視点の超越を意識している気がしたんですよね。

 デイヴィッド=リンチの、あんた長編映画作る気あんの? ひとつの作品にまとめる気あんの!? でもついつい2、3時間観ちゃったよ……みたいな独特の世界が正真正銘、天然由来の混沌であるのならば、今作のアスター監督はその混沌を観察して「スケッチした」だけなのであって、最後はああいった実に説明しやすいオチを持ってきちゃうし、混沌を正確にトレースすればするほど、その真面目さばかりが目立っちゃって、混沌とは程遠い「アスター監督、まじめか!!」みたいなこぢんまり感しかもたらさない結果になっていたと思うんですよ。

 ダメだ、アスター監督。その若さでリンチ世界に挑んでは。

 中国の古典『荘子』に、私がものすんごく大好きな故事があります。


南海の帝を「儵(しゅく)」となし、北海の帝を「忽(こつ)」となし、中央の帝を「渾沌(混沌)」となす。
儵と忽と、時に相ともに渾沌の地に会う。
渾沌これを待すること、はなはだ善し。
儵と忽と、渾沌の徳に報いんことをはかりて曰く、
「人みな七竅ありて、もって視聴食息す。
これ(渾沌)ひとり有ること無し。試みにこれを穿たん。」と。
日に一竅を穿ち、七日にして渾沌、死す。


 まさにこれですよ、『ボーはおそれている』は!
 『荘子』に現れる中央の帝「渾沌」は、目も鼻も口も耳もない姿をしていて、何の秩序も存在しない自然の象徴だとされているのですが、それを見た南北二人の帝は、善意で自分達人間と同じ目・鼻・口・耳の七つの穴を渾沌に空けて整然とした秩序をもたらそうとします。しかしそれがかえってあだとなり渾沌は死んでしまった、という故事です。

「若干30代なかば、長編映画監督3本目のきみがリンチ世界の自由奔放さを取り込もうなんて、おこがましいと思わんかね……」

 なんだか、鼻が異様にでかい老人の幻影がアスター監督の肩に手をやっているようなイメージが脳裏に浮かんでしまうのですが、この『ボーはおそれている』って、アスター監督が口をがばっと開けて大物を呑み込んだようでいて、結局そのためにお腹が破裂しちゃいましたっていうか、馬脚が見えちゃいましたっていう作品になってしまっているような気がするのです。

 『ボーはおそれている』は179分ですよね。なんという偶然か、リンチ監督の現時点での最終長編映画である『インランド・エンパイア』(2006年)も、全く同じ179分なんですよ。
 同じ179分だったら、あなたはどっちがいいですか? 「どっちも嫌」っていう人が8割かとは思うのですが、私はだんっぜんリンチの方ですね。だって、わけわかんないんだもん! 『ボーはおそれている』は、一度観終わった後も「あぁ、あの描写はこういうことだったのか」っていう伏線の再確認を楽しむためにもう一回は観られると思うのですが、オチは変わんないのでそこまでじゃないですか。第3部の舞台演劇的な CGアニメーションも面白いかとは思うのですが、それにも限界はあるでしょう。
 『インランド・エンパイア』はすごいぞ……何回観ても意味わかんないんだから! 何十回観ても、オチてんのかどうかわかんないんだから!! でも、最後の『シナーマン』のエンドロールで、「たぶんオチたみたい……」的な空気にムリヤリ納得させられちゃうんだから!!!

 天然物の混沌と、人工のシュールものとの違いを知りたければ、リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』(1997年)か『マルホランド・ドライブ』(2001年)か『インランド・エンパイア』のいずれかと本作とを見比べてみることをおすすめいたします。いちばんいいのはなんてったってウサギ人間のホームドラマが超唐突に侵食してくるくだりなんか序の口の、「お話の長れなんかどうでもいいから、ちょっとこれ観てみてよ。今思いついたから。」みたいな狂気しかない『インランド・エンパイア』なのですが、これと『ボーはおそれている』を見比べることは6時間の浪費を意味しますので、これを拷問と言わずになんと言えましょうか。わたしのナタキンさまも、日本公開版では出番まるで無いしよう……

 話を元に戻しますが、この『ボーはおそれている』は、つまるところ主人公ボーに迫りくる試練というものが、苛烈のようでいてそんなにキツくはないように見えるのです。もちろん、本作におけるボーのおそれ(恐れにして畏れ)の対象は明らかにボーの母親で、第1部におけるその存在感の大きさは、電話口の声だけという制限があるだけに逆にリアルでかなりいい感じです。
 ところが、その母の存在は第1部の中で「死んじゃったらしい」という伝聞情報でいったんナシになり、ボーのおそれは「ママの葬式に行かなきゃ」という強迫観念に変容してしまうのです。これ、かなり大きなギアダウンなんじゃなかろうか。
 一応、ボーは相当重度の強迫性障害を患っている設定があるので、決めた以上は万障繰り合わせてでも実家に帰りたいという目的意識は一貫して持っているわけなのですが、作中で「葬式当日まであと〇日!」とかいう時間説明があえてぼかされているので、ボーの切迫感もふわっとしちゃっているし、それによって実家にやっとたどり着いた第4部の展開も、かなり意外なはずなのに現実感が無さすぎるので「はぁ、そうですか……ふ~ん。」みたいな白けムードになってしまうのです。現実感が無いというのは第1部からずっと続いている状態なのですが、それがうまく機能しているのは第1部のギャグパートだけで、それ以降は観客の没入感をそぐものにしかなっていないと思うんですよね。

 第1部のノリで最後までいったらよかったのに……良く言えば「めまぐるしく展開するイメージの奔流」なのでしょうが、今回の場合は「飽きっぽい映像作家のつぎはぎ作品集」にしかなっていないような気がするのね。あの名優ホアキンさんをほぼ出ずっぱりにしておいてこれなのですから、アスター監督自身が作ってる最中に「このままで大丈夫か?」と不安になって作風を変えてるような、若さゆえの焦りに見えちゃうんです。少しは高畑勲監督の不動心を見習……っちゃいけません。

 伏線回収がすごいとかも言われてるようですが、それって、ほぼボーの実家にあった母親の会社のポスターとか母親の遺体の特徴とか、みみっちい細部に関することですよね。ボーの父親のこととか、ボーが医者一家の豪邸のテレビで観たものとかの説明は投げっぱなしでしょ。なんか消化不良になっちゃうんだよなぁ。
 ボーの父親と言えば、今作における CG技術の使い方は、ほんとに『ミッドサマー』と同じ監督なのかと疑いたくなるほどに下の下の策だったと思いますよ。いや、あれに CG使っちゃいけないだろう! それこそ、『ポゼッション』(1980年)みたいにぐちゃぐちゃドロドロな実際の造形物で出すべきじゃないの? 全然怖くないんだよなぁ。いや、あれはギャグであえて CGアニメチックにしているのか……でも、だとしても医者一家から追いかけてきた狂人ジーヴスの最期とともに、盛大にスベッてますよね。

 やっぱこの映画、最後までコメディで通すべきだったんですよ。だとしたら、あのオチを選択するべきではなかったと思うんだよな。
 あと、今作には母性がつきまとっていたためか、出る女優さんがのきなみ熟れたてフレッシュだったのも、『ミッドサマー』での不気味な村娘マヤ(演・イザベル=グリル)の魔性にやられてしまった私には、ちとレベルが高すぎたのかも知れません。いや、今作の韓流アイドルに首ったけの不良少女トニもいたにはいたけど、彼女に魅力を感じるお客さんは日本にどれくらいいますかね……

 前作『ミッドサマー』を観た直後、私は「次回作なんか誰が見るか!」と感じていたのですが、今現在、私はその次回作を観てしまいました。これはやっぱり、ツンデレではありませんが、強引で暴力的ながらも、それだけ惹きつけてしまう異形の魅力が『ミッドサマー』にあったからだと思うのです。
 そしていま、私は『ボーはおそれている』を観た直後に、3、4年前と同じように「次回作なんか、誰が見るか。」と思っているのですが……心の中の温度はだいぶ違うような気がするんですよね。
 なんか、勝手ながらもアスター監督の底が見えちゃったというか、「3時間つきあう程の人でも、ないかな。」みたいな荒涼とした風が吹いております。前回のグラグラと煮えたぎる嫌悪感なんか、きれいさ~っぱりありゃしませんやね。醒めたもんです。

 いろいろ、なんでこの作品にこれほどがっかりしているのかと自分なりに考えてみたのですが、やっぱり、描き方は多少アレンジしているにしても、オチを先行作品と同じものにしているという点に、私はどうやら納得がいっていないようです。それは、あの『ゴジラ -1.0』に私がいまひとつ良い印象を持てていないことと同じなんですよね。
 いや、それだったらオーソン=ウェルズ監督の『審判』(1963年)のほうが悲劇的で身に迫る不条理さがあったし、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)のほうが怪獣が4体も出てくるからおトクだし!!みたいな。

 あともうひとつ、今回の鑑賞がイマイチだった原因として、もしかしたらこっちの方が重大だったのかも知れませんが、『ボーはおそれている』を観たのはついさっきの夜だったのですが、実は本日わたくし、お休みだったのをいいことに家で朝から昼間にかけて黒澤明監督の『七人の侍』を観ちゃってたのよね……
 いや~、これはアスター監督に悪いことしちゃったなぁ! そりゃ勝てるわけねぇって!!
 『七人の侍』が天下御免の「207分」なので、ボーちゃんの3時間に向けて身体をならす算段で観たのですが、何度目かの鑑賞なのに、や~っぱりおもしろい! 日本人だからというひが目では決してないと思います。

 ということで本日私の言いたいことは、「映画を観る前に『七人の侍』を観てはいけない。」&「『ボー』はどうでもいいから『七人の侍』は絶対に観て!!」に、あいなり申した。アスター監督、ほんとにごめんなさい……


 本作のラストの展開なんか、ボーがどうなるかよりも、「俳優のリチャード=カインドさんのゲジゲジまゆ毛、昔どの作品で観たんだっけ?」で頭がいっぱいになっちゃってましたからね。答えはドラマ『ゴッサム』シリーズでのゴッサム市長だったのですが、思い出したころには映画はエンドロールに入っておりました。

 何を見ても、何かを思い出す……歳はとりたくねぇもんだなぁ、オイ!!
コメント
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