断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMT⑨-貨幣の起源

2014-07-05 01:10:20 | 欧米の国家貨幣論の潮流
MMTと主流派経済学の最大の違いは、
結局のところ、世界観にある。
これが貨幣の起源の説明の違いとなって現れ、
現在の貨幣システムの見方の違いとなって現れ、
当面の経済政策提言の違いとなって現れてくる。

Randall Wray が、繰り返し述べている
主流派経済学への批判を見よう。

主流派経済学によれば(と、Wray は述べる)、
その昔、貨幣が発明されるまで
諸個人は、物々交換をしていた。
しかし、物々交換が円滑に進むためには
常に欲望の二重一致の問題を解決する必要に
迫られていた。
つまり、こうだ。

私は、カモを2羽提供できる。
それで、靴を1足買いたい。
この人が、交換によって望みをすぐに実現できる可能性は
それほど高くない。
なぜなら、"私"は、靴の販売者を探し出さなければならない。
そして、靴の販売者を見つけたら、
彼が私の望む靴を打っているかどうかを確認しなければならない。
(ここまでは、今も同じだ。)
問題は、その靴を売ってもいい、と思っている人が
1足の靴を、カモ2羽と交換することを望んでいるかどうか、だ。
まず、彼は、カモを求めているだろうか。
そして、仮にカモを求めていたとしても
2羽で交換に応じてくれるのであろうか。。。
もしも彼が、カモを求めていない、としたら、
私は、靴を得るためにはその前に、
カモ2羽と交換に、靴の提供者が求めるものを入手しなければならない。
靴の提供者は、いったい何をどれだけ求めているのだろうか。
そして、彼が求めているものを、カモ2羽と交換に
私は得ることができるのだろうか。

こうした、質(カモと靴の交換)と量(2羽と一足)に関する問題を
解決するため、共通の交換媒体といわれるもの、
すなわち、貨幣が発明された、という。
貨幣(交換媒体)として用いられたものは、
歴史的には、様々なものがある。子安貝や穀物など。時には女性も。
歴史的にはいろいろあるが、最終的には貴金属、とりわけ
金へと収斂してゆく。
そして、交換媒体が統一されると、交換されるもの(商品)の価値は
この交換媒体との交換比率で表示されるようになる。
こうして数字によって表示される商品の価値が価格で、
そしてこの価格を表示するための数字が、計算貨幣だ。
そして、政府(主権者)が、一定量の金属に一定の数値をあてはめ
金属の重量を測り、その価値を保証したことによって
実物貨幣としての、金貨・銀貨が流通するようになる。
(ここでは、「政府が貨幣の価値を保証する」という言葉の意味は
「政府の刻印が推された金貨・銀貨は、
規定の重量の金・銀素材によって構成されている」
という意味である。)


さて、歴史的に、金(あるいは貴金属)が交換媒体・実物貨幣として
定着するが、
しかし、こうした金銀を常に身に着けて持ち歩いているのは
不便で危険も多い。そこで、金や銀を預かって、
代わりに「預かり証」を発行する人が現れてくる。
これが、ユダヤ人の金貸しである。
キリスト教徒は、金を貸して利子を取る、という行為を禁じられていたので
金を貸す、ということはユダヤ教徒にしか許されていなかった。
もともとユダヤ人たちは、金貸しをするときには、
実物金貨銀貨を手渡ししなければならなかったのだが、
そのうち誰かが、ものすごいことを思いつくわけだ。
つまり、普段から、安全のためとか何とか言って金銀を預かって、
預かり証を発行するようにしていれば、
そのうち、実際に金貨銀貨を持っていなくたって、
ただ預かり証を発行すれば、それでお金を貸して
金利を稼ぐことができる、と。
お金を借りた人は、ユダヤの金匠が発行した預かり証で
自分の買い物をする。そして、期日までには
そのユダヤ人の金匠が発行した(誰宛に発行した物かは
問わない)預かり証を、市場から集めて、
それでユダヤ人に返却する。
そうすると、ユダヤ人の金匠は、本当は金貨・銀貨を1枚も持っていない時でさえ、
お金を貸して、金利をせしめることができる、というわけだ。

そのうち、こうしたビジネスが定着し、規模が大きくなり、
近代的な銀行になる。
銀行は、今や「預金通貨」となったかつての「金の預かり証」を発行することで
産業へ資金の貸し付けを行えるようになる。しかし、
銀行間の決済や、顧客の信用を維持するためには
常に預金残高に応じて、その一定量の金を準備しておく必要があった。
こうして成立したのが、金本位制である。
しかしこの金本位制も、
中央銀行が金を十分に保有し、国内の銀行は
中央銀行が発行する預金を用いて決済を行うようになれば、
金は、中央銀行が保有していれば、
ここの民間銀行は保有している必要はなくなる。
さらに、第二次世界戦後には
アメリカの中央銀行が金を保有してさえいれば、
各国の中央銀行はアメリカの中央銀行に口座を開設して
そこでの準備預金のやり取りを通じて国際間の決済が行えるようになり、
もはや、アメリカ以外の国では
国内に金準備を保有している必要さえなくなった。
さらに、ニクソンショックが起こって
アメリカはもはや金準備を保有していないわけだが
この辺、主流派経済学の均衡理論がどう説明しているのかは、
ちょっとはっきりしない。

どうでもいい超蛇足だが、
Wray やMosler が繰り返し言っているとおり
今やFort Knox には、金の延べ棒は1本だに保管されていない、
というのが本当らしい。
ネットで、盛んに
「オバマがとうとうフォルト・ノックスから金の延べ棒を
運び出し始めた。とうとうアメリカが本気でデフォルトの準備を始めた」何ぞと
いう話がひところ飛び交っていたが、
もう、すでに、Fort Knox には、金っておいてないから。
と、なると、(破たん説の人たちに従うなら)アメリカ政府は、こちらの方面からも、
ちょっとデフォルトは無理なんじゃあないの、、、という話に
なってくるんだが(アメリカのデフォルトとフォルト・ノックスの金の間に
どんな関係があるのか、よくわからないんだけど。。。)
いやまあ、本当にどうでもいい蛇足なもんで、それはそれとして、、、


さて、WrayやInghamによれば、
こうした歴史観によって主流派経済学の均衡理論は正当化されている。
社会は、互いに利益の最大化を求める個人の取引によって形成される。
そこには、個人の取引の結果として形成されたもの以外の制度というものはなく、
あるいは、啓蒙時代以前の無知蒙昧な権力者によって作り出された
個人の利益に害をなす障害物があるばかりだ――もちろん、制度に対する
このような評価には、主流派経済学の内部にも
大きな違いがある。フリードマンのように、個人の自由な取引を妨げるものは
いかなるものも害悪なのだ、と論じる人もいれば、
スティグリッツやトービンのように
市場には大きな不完全性があり、政府がそれを外部から矯正する必要が常にあるのだ、
と考えている人もいる。が、根本的な考え方の枠組みに
違いはない。社会とは利益を最大化しようとする諸個人の集まりであり、
そこにはアンタゴニスティックな社会関係が常に存在している。
(だからこそ、市場の取引が不完全なものであることによって
大きな災いが発生しうるのだ)
貨幣とは、歴史的な紆余曲折があろうとも、
結局のところ、こうした個人の効用を最大化するための、取引費用を
節約するための、便利な発明物であるとされる。
だから、貨幣は、現在どのような形態であろうとも、
その根本は実物貨幣なのであり、
現在の貨幣理論も、実物貨幣をベースにしたもの(外生的貨幣供給理論)と
なっている。
そして、貨幣が、人間が発明した効用最大化のための道具である以上、
人間自身によってコントロールできるはずであり、
市場をより完全に動かすためには、
あるいは市場の不完全性を取り除くためには
で畏怖・中央銀行が貨幣をコントロールしなければならない(あるいは
貨幣に手を出してはいけない)、というわけだ。

さて、Wray やIngham は、こうした経済観、社会観、歴史観を
大いに批判する。主流派経済学の歴史観は、事実として誤っているし、
理論的にも一貫性がないとする。社会観としても、倒錯している。
歴史的事実を言うなら、
貨幣は、全面的商品交換経済に先行しているし、
国家(地域社会の主権者)による信用、あるいは、社会の成員の
社会及び他の成員に対する義務感が、この信用を支えている、とする。
物質貨幣など、かつて存在したためしはない。
金や銀が貨幣として流通していた時代が
無かったわけではないが、それは、貨幣というものが何らかの物的形態を
まとう必要があったからに過ぎない。貨幣の素材に金が使われたのは、
王家のはったりというよりは
ギリシアの民主制のもとで、権力者が誇示したがる
金(きん)の無意味さを強調するためだった、とさえいう。

もうちょっと別の言い方をすると――後の論点を先取りする形で――
例えば、
私はカモを2羽持っている。靴を1足買いたい。
しかし、靴屋がカモを欲しがるとは限らないし、
2羽で取引に応じてもらえるかどうかも分からない。
そんな時、どうするか。
MMTによれば、私が、手形を発行すりゃすむ話である。。。

「この手形を私のところに持ってきた人には
カモを1羽差し上げます」という手形――紙に書いて、自分の拇印を押したものかもしれないし
金の板に自分の顔の肖像を刻印したものかもしれない――
を靴の生産者に渡す。
靴の生産者は、この、「私」が発行した手形を支払い手段として用いることによって、
自分の欲しいものを、第三者との交換で得ることができる。
欲望の二重一致を回避するのに、何も実物貨幣が発明される必要などない。
自分が、いつか誰かに対してカモを提供する、という約束をし、
そしてその約束が、社会全体に信用に値するものと受け入れられるなら、
別に、商品貨幣など必要ないのである。
とはいっても、誰が発行した手形であっても受け入れられるとは限らない。
「貨幣は誰にでも発行できる。問題は、受け取ってもらえるかどうかだ」というミンスキーの問題意識は
ここですら有効である。だから、そこに困難があるのは事実だが、、、、
でも、ごくごく普通に考えて、
この困難を(理論的に)克服するために、実物貨幣を先行させる必要性があるのだろうか。。。
普通に普通に考えて、実物貨幣の誕生を想定するより、
信用取引を考えたほうが、(共同体内であれ共同体外であれ)楽じゃない。。。。?
ここで、欲望の二重一致を解決する方法として
実物貨幣が重視しているか信用貨幣を重視しているかによって
その人の、現代社会に対する見方、ということがわかるんじゃないだろうか。
人間というのは信用できないものだから、
信頼できる信用制度というものを、相互の取引費用節約の結果として発明できるまでの間、
即時グロス実物決裁による取引しか成立しえなかったのだ、とみなすか、
人間社会というのは、何らかの意味での習慣なり慣習なりによって相互の行動が制約され
それによって、高度な信用システムがなくても、一定の範囲内で
信用取引が行われていた、と考えるのかどうか、
これは、実証的な問題というより、論者が、人間や社会といったものを
どのようなものと考えているかの問題である。


閑話休題。
以下、おいらなりの言葉で、Wray やIgham が、
どうやら言わんとしているように思われることを要約したい―ちょっと自信が
無い部分もあるが。

そもそも、主流派経済学とMMTが違うのは、
その出発点にある社会をどのようなものと描いているのか、
ということだ。
主流派経済学によれば、
そもそもの出発点からして、
社会とは、利益(効用)を最大化しようとして取引に参加する諸個人の集まりであった。
諸個人は、自分の生産物(あるいは、何も生産するものがなければ
労働力)を市場に持ち寄り、そこで交換する。
その際、欲望の二重一致という難問を解決し、取引費用を節約するため
貨幣が発明された、ということになるのだが、
MMTによるなら、
社会とは、そもそもそのようなものではない。
MMTが出発点として描く「原始社会」は、
カール・ポランニーの社会観を受け継ぐものだ。
16世紀17世紀の自然法思想ではあるまいし、原始社会から説き起こすことに
どんな意味があるのか、という人もいるだろうが、
しかし、マルクスが言うとおり、
どのような原始社会を夢想しようとも、そうして描かれた原始社会には
現在が投影されている。ブルジョア思想家が原始社会を描けば、
単純化されたブルジョア社会が、原始社会として描かれる。
主流派経済学が描く原始社会は、
要するに、貨幣を持たずに物々交換している状態のことだ。
そして、この原始未開の社会こそ、実は主流派経済学にとっては
一般化された理論モデル(一般均衡論においては、貨幣の存在する余地はない、
というハーンの指摘)そのものである。
MMTは、原始社会を明示的に述べているわけではないが
少なくとも、独立した諸個人が個別に生産活動を行い、
利益最大化を求めて交換することを通じて
社会が形成されている、とは考えていない。
その社会が、どのように形成されたものであろうと、
首長による独裁制か、平等な成員による共和制か、そんなことはわからないし
地域によっても違ったろうが、
いずれにせよ、地域社会の成員が、ともかくも協働し、
分配を通じて、生活資源を入手している社会である。
それは現代社会に負けず劣らず複雑なシステムの上に成り立っており、
単純にシステムとして描写できるものではない。

まあ、原始社会がどのような政治社会体制だったのかは
わからないし、無限に多様であったことだろう。
(原始社会の構造や制度が現代社会に比べ
単純であった、と考えることは
19世紀的進歩史観の延長に過ぎない。
実は、「未開」の社会にも複雑な社会構造があり、
それによって社会関係が制御されている、というのは
今日ではもう常識に属することかもしれないが、
主流派経済学者には、なかなか受け入れられない。)
いずれにせよ、ある社会において、個人が自我を獲得し、
社会と個人の間に経済主体としての分節が明確になると、
社会と個人の間に、あるいは個人間に「義務感」が生じる。
社会は、協働なしに成立しないが、
個人が分節化される程度が大きくなるに従い、
この協働への参加が間接的なものとなる。
これは、地域社会あるいは主権者に直接、労働や生産物を提供することによって
あがなわれる場合もあれば、
諸個人間の債務として現れる場合もある。
ある人が、他の人から当座の食用のコメを譲ってもらえれば
譲ってもらった人は、それを何らかの形で返済する義務を負う―返済すべき相手は
必ずしも、当のコメを提供してくれた本人とは限らない。
現代社会では、借りたものは貸した本人に返すのが当たり前だし、
昔から、そういう地域・時代はあったことであろう。
だが、「タイムラグを伴うギブアンドテイク」(これは、確か
「わらじの仲間」の方だったと思ったけれど(ちがっていたら、ごめんなさい)、
ある登山家の言葉)ということも
今でも珍しくないし、昔はもっと頻繁にあったろう。
こうした、社会あるいは個人に対する義務感は、宗教その他、様々な
互酬の形式として社会的に成立する。
(たとえば、ヨーロッパに昔から伝わるシン・イーター(罪喰い人)の
風習や、アメリカンインディアンのトーテム神話、太平洋の
巨石貨幣の流通など)これらの社会的・個人的な
義務感が供犠に依って決済される形式が社会的に成立すれば、
それによって義務を転移することが可能になるのである。
つまり形式化された義務は、社会的に転移可能であり、流通するわけだ。
(だからこそ、互酬の形式になりうるわけだが。)
そして、こうした、社会の成員が、社会に対し、あるいは
他の成員に対して負う義務感を消去するための儀礼が
数値によって形式的に測量されるようになったものが
「(支払手段としての)貨幣」である。つまり、貨幣には、それに先行する
負債があるのであり、負債があるから、貨幣が流通する。
社会的に、負ったものは返済しなければならない、
返済しなければ、社会的な一員としてみなされず、排除される、
この感覚が、貨幣の前提にあるわけだ。


さて、ここで決定的に重要なのは、
負債(義務)を測量する社会的な尺度が
どのようにして決まるか、である。
MMTによれば、
これを決定するものこそが国家だ、ということになる。
国家は、社会の成員が、社会に対して負わなければならない義務と
その義務を果たす方法とを指定する。
これこれの罪を犯した者は、鞭打ち100回の刑に処する。
鞭打ち、という贖罪の方法、そして、100回、という数字。
王様が新しい宮殿を立てるときには、
国民は、王様の身長に等しい長さのヒノキを
3本ずつ提供しなければならない。(国王の身長と同じ長さの
紐でも示して。)
こうした国家の、形式と数字を定めるという能力、
これこそが国家の、貨幣を生成する力の根源である。
こうして国家によって定められた計測の形式と単位は
様々な場面で、社会の成員同士のやり取りにおいても
共通の単位として使われるであろう。
ヒノキや杉の木の長さを測定する単位が
王様の身長を基準に設定されるであろう。
この意味で、国家の、納税・貢納を決定する能力、
何を、どれだけ提供しなければならないかを定める能力が
貨幣の生成にとって、決定的な役割を果たした、とされる。
たとえば、米を納税する際の単位が「升」で定められれば
一升のコメが、様々な諸個人間の経済的負債を表現する単位として
使われるようになるだろう。
この場合、実際にコメが支払い手段として用いられるかどうかは
どうでもいい話だ。現実問題として
米は、最後に、納税の時に必要とされるだけで、
それまでの間、米商人が振り出した手形が
貨幣の代わりに、というか、貨幣として流通するであろう。
網野善彦先生(MMTなど、一切かかわりなく、
おそらく生前お知りになる機会もなかっただろうが)によれば、
日本の出挙制度をベースにした貨幣の発展は
まさにこうしたものだったという。
和同開珎が使われなくなってから(どのように使われていたのかは
まだ論争の余地があるようだが)北宋銭が使われるようになるまでの間、
西日本では、出挙制度をもとにした米商人の為替が
支払い手段として流通していた。(東日本では
布が実物貨幣として流通していたが、
その貨幣価値は、中央政府に供する米との交換比率で決められていた
とお考えのようだ。)
地域社会の成員の私的な負債が、政府によって定められた
貢納の価値と数量を基準にして記されるようになることが
国家貨幣の誕生である。
国家貨幣とは、何よりも、こうした私的債務(一般的交換手段)が
政府の指定する単位によって記述されるようになることを
さしている。(現在の先進資本制国では、
政府・中央銀行の発行するIOUよりは、
民間銀行の預金通貨のほうが、はるかに一般的支払い手段として
活用されることが多い。)
Wray が繰り返し強調している通り、貨幣国定説にとって重要なのは
支払い手段としての貨幣ではなく、
民間経済主体が発行する様々な負債契約が、
国家の指定する単位によって記述されるようになること、
計算貨幣として、国内にいきわたることである。
そして、WrayやIngham、Tchernevaによれば、これこそが
ケインズの貨幣理論の中心にある考えたか
(だから、ケインズにとって貨幣の第一の機能は
「計算単位」となる)なのだそうだ。

何によって、どれだけ貢納・租税を国家に納めなければならないか、
これを定義する能力は、国家にしかない。
そして、現代国家においては、
通常、国家自身が発行するIOU(私的債務証書)を
租税の支払い手段として指定することが行われる。
国家はIOUを発行し、そのIOUによって
国内の生産物を購入し、そして、IOUによる納税を求める。
この場合、まず、国家がこのIOUを発行しないことには
誰も納税を行うことができない。
共同社会の成員の義務として、納税をすることを受け入れても、
実際に納税するための手段が不足していては
納税の行いようがない。
だから、まず、政府の負債が発行されなければならない。
政府は、財源が不足するから債務を発行するのではなくて、
国民が、滞りなく納税できるように、負債としての
政府貨幣を発行するのである。
政府貨幣が、政府の発行した国民に対する負債だ、というのは、
この意味である。
社会の成員は、地域社会に対する義務(負債)を果たすため、
主権者(国家)が、地域社会の代理として発行した負債を入手し、
それを自分自身の貢納の義務と相殺する。
これは、Mosler の言う垂直取引であるが、
この数字が、地域社会の成員同士の負債の発行・償還にも
使われるようになる。(水平取引。Moslerの場合、水平取引は
政府貨幣が直接、民間同士の取引に用いられることを
意味しているようにも取れるが、今日の資本制経済で
政府発行の貨幣が民間同士の取引に用いられるのは
銀行間の決済を除けば、大した比率ではない。
もちろん、例えば日本でいえば、
ベースマネー(利付きの超過準備のことは含んでいない)の、
おおざっぱに言って3分の2を
民間非金融部門保有の現金通貨が占めているので
ベースマネーに占める比率という見方をすれば、
結構、民間での取引に用いられていないわけではない。)

さらに、政府は納税する手段だけではなくて、
その量の単位を規定する。
貢納をコメで求めるとき、それに先行して政府がIOUを発行し、
そしてそのIOUによる貢納を認めるのであれば、
このIOUの価値(単位)は、それによってコメを貢納することが
免除される量によって決まるであろう。
逆に言えば、このIOUによって買えるコメの量を政府が規定すれば
それがコメで測ったIOUの価値になり、
コメと他の製品の交換比率が、このIOUの購買力になる。
MMTでは、コメの代わりに(民間部門で雇用されなかった人々の)
労働力をIOUの価値の基準にする。
民間部門で雇用されきれなかった人々がいる限り
政府が貨幣発行によってこれらの人々を雇用するなら、
それによって、貨幣の価値が下支えされることになる。
つまり、8ドル(Mosler)あるいは10ドル(Tcherneva、Wray)が
1時間の労働に値する、あるいは、1ドルで6分の労働力を
購入することができる、というわけだ。
ただし、この民間部門で雇用されなかった労働者の時給の価値と
それ以外の商品の価値が変動し、
その結果として一般的消費者物価水準が上昇するとき、
つまり、労働力以外にも国内の生産力にはボトルネックが存在しているわけで
経済の拡張期にこうしたボトルネックの存在によって消費者物価が上昇しても
それは、相対価格の変化であって、インフレではないことになる。
そして、こうした相対価格の変化によって自動的に
景気変動は抑制される。つまり、
マーケットで常に価格が変動しているある一商品について
常にある最低価格での無限の弾力性を持つ需要が存在していれば、
それによって、システム内の物価は維持される、
というのが、MMTの(というより、一般均衡理論の)主張であり、
そして、そのある商品として相応しいものが、
MMTによれば、労働力だ、ということなのである。



現代国家においては、政府の義務が社会の成員の福祉の向上、あるいは
効率性の向上にあるとすれば、
地域社会内部(国内)で失業している労働者がいるときに
国家が貨幣を発行することでこれを雇用することは
国家の義務となる。
国内には、一時点に、少なくとも働く能力と意志を持つ
一定の労働力がある。
個別の企業の効率性の観点からは、
これがすべて雇用されるとは限らないが、
国家の観点から言えば、
実際に存在している労働力を、本人に働く意思があるにもかかわらず、
不稼働なままに放置しているということは
効率的というわけにはいかない。
そして福祉にとっても、適切ではない。
ある一時点において一定量の働く意思と能力のある労働力が存在しているとき、
個別的な効率性を求めて行われる生産関係のもとで雇用されることのなかった労働力を
失業状態のまま置かれていることは
国家の観点からは、決して効率的とは言えない。
国家にとっての効率性とは、GDPや株価で測れるものではない。
もちろん、GDPが上昇すれば、株価が上昇すれば、
国の経済の中で生きている人々にとって、利益になることもたくさんあることだろう。
だが、それがすべてではない。
GDPで測ることのできない国民福祉や国家の力というものもある。
それは、例えば、高齢や健康障害(障害!)のため、、
資本制経済にとっては効率的な生産要素とみなされず、
それゆえ、資本制経済のもとで、彼彼女自身の生活を支えるのに十分な報酬を
受けることができない人たちの生存権の問題かもしれない。
彼彼女らが資本制経済のもとで生存できないとしたら、
それはその資本制経済のもとで許容される十分な利潤を生み出すだけの資本性的な生産力がないためであるが、
しかし、国家にとってはそのような基準は問題ではない。
国家は、資本制経済の運動(マーケットメカニズム)をいたずらに阻むべきではないが
自らが資本制経済の原則に従わなければならない理由もない。
ここで問われているのは、「国家(地域社会)」の存在意義である
国家(地域社会)とは、資本制経済(私的利益の最大化を求める個人の取引の結果
生み出された所経済主体の取引の全体)ととらえるか、
国家のほうが、市場社会に先行し、利益を求めて行動する個人によって社会の進展が
支えられているという面を否定はできないにしても、
その個人は、結局のところ社会によって支えられているのか、という
社会の見方に帰着する。
そして、そこで、国家によって負債として発行される貨幣とは
何であろうか。

主流派経済学によれば、貨幣とは、たとえ信用貨幣になろうとも、
単なる交換の媒介物であった。政府が管理しているとしても
あくまでも実物貨幣の代理として政府が負債を発行しているにすぎなかった。
だから、政府自身の債務である国債と貨幣は、厳密に区別されなければならない。
貨幣は、市場経済が続く限り、永久に残るであろう。
貨幣とは、たとえ現実には政府が代わって管理していようとも
本来市場取引の産物であり、実物資産、誰にとっても資産である実物価値である。
それに対して、国債とは、政府が不足している経済的資源を
民間部門から徴用するために手段である。
これは、民間から経済的資源を借り入れ、それを何らかの形で
投資したか消費したか、いずれかであり、その将来の返済の約束である。
だから、国債は、ともかくもいつかは償還されなければならない存在である一方、
同じ政府の債務(形式的には中央銀行であるが)であっても
貨幣は、政府がうまく管理できている限り、
市場とともに、永久に残っても問題のない資産とみなされる。
国債は債務だが、貨幣は、たとえ形式的には中央銀行あるいは政府の負債であっても、
本当は実物資産だ、というわけだ。

MMTにとっては、貨幣は国家の負債である。生まれた時から国家の負債であり、
金貨や銀貨というのは、単に金額を記録するための素材が金やら銀やらであったに過ぎない。
だから、民間の取引が増えるのとともに貨幣が増えることは許容されながら、
民間の資産が増えるのとともに、国債、あるいは中央銀行が発行する利付きの負債が
増えることだけが問題視されことは、ナンセンスであり、
全く虚偽の問題設定とみなされる。どちらも同じ政府部門の負債なのである。
貨幣(ベースマネー)がなくならないのと同様、国債も、というかより正確には
IRMA残高も減ることはない。なぜなら、国債は、単に
貨幣(ベースマネー)が増えすげた結果として金利が低下しすぎるのを防ぐために
貨幣を吸収するために発行された、貨幣と同じ政府の債務にすぎないからである。
貨幣がいいのに国債はダメ、ということはないだろう。

そして、貨幣の供給過多が将来世代に害にならないのと同じ通り、
あるいは、害になるとすればそれと同じだけ、
国債の過剰発行も将来世代にとって害にならない、あるいは、害となる。
だが、はっきりさせなければならないが、
貨幣の供給量がある時点で過剰であることが
将来のある時点で害になるかどうかなど、
実は誰にもわからないのである。
少なくとも、外貨ペッグや政治による制約がなくコリドーシステムがとられている限り、
中央銀行は自分たちの(あるいは時の政権の)定めたインターバンクレートを維持する水準に
金利を定めなければならない。
そうである限り、政府による貨幣の過剰発行(それが、中央銀行の直接引き受けであれ何であれ)が
行われれば、インターバンク市場では、政府貨幣が吸収される。
その後、民間のIOUがどれだけ発行されるかは、
また別問題である。
貨幣を(つまりIRMAを)発行することなく、
現在の失業者を放置しておくことのほうが
貨幣を(つまりIRMAを)発行して雇用を維持することより
将来世代(その両親は、現在の失業者かもしれない)にとって
利益になる、というのは、
どうも、簡単には呑み込めない論理ではある。



まあ、いずれにせよ、MMTの貨幣観は簡単なものではない。
したがって、彼らが「貨幣を発行して雇用を維持しろ」と主張するとき、
あるいは、「パーティーが盛り上がってきたから、パンチボールを下げろ」というとき、
その先には、、
現在の、アンタゴニスティックな社会観に立脚した市場社会とは別の社会を生み出そう、
という意思が含まれているのであり、
政府支出を、簡単に、
市場経済を前提として、市場経済の活性化や経済成長のための呼び水にしよう、と言っているわけではない、
ということには、注意が必要だろう。


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