華麗なるギャッビーと戦争

Executive Summary

 フィッツジェラルド『華麗なるギャッビー』は、当初それほど評判はよくなかったし、フィッツジェラルドも晩年は不遇だった。だが、第二次世界大戦の米軍兵士慰問用の推薦図書に含まれたことで、その命運は変わった。つらい戦場の兵士にとって、この小説は華やかで豊かな夢のアメリカのイメージを喚起する小説として人気を博したのだった。そして、それがフィッツジェラルドの戦後の読者層を確保したことで、彼は再評価されるに到ったという。



フィッツジェラルドの『華麗なるギャッビー』は、アメリカ金ピカ時代を描いた大傑作で、村上春樹が訳しなおしたりしている。作者存命中は全然売れず、その死後にフィッツジェラルド再評価の気運が高まって大ブレイクを果たしたというのも有名なところ。

村上訳『グレートギャッビー』の解説では、この作品が発表されたときには批評家のウケは良くて、その後も評論家や研究者の努力で、作品として再評価されたということになっている。他の解説がどうなっているかは見ていないけど、たぶんそんなにちがったことは書いていないと思う。wikipedia の記述もその線に沿ったものになっている。

でも Hannah Keyser "Tug of War," Mental Floss May 2015 pp.27-29 によると、かなり話はちがうらしい。

フィッツジェラルドは、第一次世界大戦の兵士としての配属先で出会った金持ち娘と結婚するために、ベストセラーを書こうとして本当にベストセラー(This Side of Paradise) を書いちゃった、当時としては立志伝中の人物みたいなんだけど、その後がいまいち。で、ギャッビーを書こうとする一方で、フィッツジェラルドは浪費家で、フィッツジェラルドは半分取材、半分は見栄で、ギャッビーに出てくるような空疎な大パーティーを日ごとに設けて散財。で、イギリスコート・ダジュールに渡ってやっと腰を据えて書き上げたんだが、批評家の評価は必ずしも高くはなかった*1、というか賛否両論スタイルはみんな誉めたけれど、みんなそんな大小説とは思わなかったとのこと。特に、当時のジャズと酒のバブリーな日々を描いていたこともあって、それこそ「なんとなくクリスタル」まがいの風俗小説という評価が主で、すぐに廃れると思われたんだそうな。実際、「ギャッビー」はフィッツジェラルド存命中は、20,870部しか売れなかったそうな。

 で、フィッツジェラルドの輝かしい作家生活はこれで終止符を打たれた。あとは金のための書き散らし生活となり、「ラストタイクーン」を書き上げることなく失意のうちに他界。

 だがその五年後に、「華麗なるギャッビー」復活につながる大事件が起きた。第二次世界大戦だ。

 第二次世界大戦では、出征するアメリカ兵のために、士気を高める小説を配ろうという運動が起きて、Council of Books in Wartime なる民間評議会が設けられた。そしてこの委員会は1943年に、いくつか小説を選んで、それを出征兵に送ろうという活動を(出版社の協力を得て)はじめた。ちょうど、雑誌印刷でつくれるペーパーバックの技術が完成したときで、バカみたいに安く本を作れるようになったこともある。そして送られた本がArmed Services Edition (ASE) というもの。

 で、兵士たちは暇だったし故郷が恋しかったし、そういう本を山ほど読んだ。そしてもちろん、その評議会が選定した本の中に、「華麗なるギャッビー」も入っていたんだって。1944年には、「華麗なるギャッビー」は120冊しか売れなかったけれど、ASE版では155,000冊頒布された。そして、ギャッビーがこのASE版に含まれたのは、ドイツと日本が降伏したあとだったんだけれど、このタイミングがすばらしかった。アメリカ兵たちは終戦後すぐに国に帰ったわけではなく、数年にわたり占領地に駐留していた。ギャッビーに描かれた酒とパーティーづくしのアメリカというイメージは、焼け野原だった日欧の戦場に残らされた兵士たちにとっては、本当に豊かなアメリカの繁栄を想像させるまたとない作品となった。それはかれらにとって、夢のアメリカになった。

 これが、戦後のフィッツジェラルド再評価の気運につながった、というのがこの記事の説。学者どもの再評価努力なんて、どこまで効くやら。でも実際に読んだ人たち--- そしてその小説にアメリカの夢を見た人々---がこれほどいたというのは大きかった。もちろん、このASE版の小説は1,227タイトルあったそうで、そのすべてがこういう再評価につながったわけではないから、なぜ「ギャッビー」だけなのか、という分析はもう少しほしいところ。でも、分析としてはおもしろい。そしていまでも、「ギャッビー」の魅力はまさにそのバブル時代の華やかさと虚しさを描き出せたところにあるわけで、その点からしても決して的を外してはいないとは思う。

 むろん、戦争嫌いな人は、「華麗なるギャッビー」人気が戦争のおかげ、とかいうのは嫌がるかも知れないけど。でもその一方で、小説の舞台であり前提となったアメリカの金ピカ時代ジャズエイジも、第一次大戦あればこそなので、『アイアンマウンテン報告』が言うように、芸術はすべて戦争が生み出し、戦争に奉仕するのかも……

追記

 フィッツジェラルドのベストセラーになった最初の2長編、This Side of ParadiseThe Beautiful and the Damned って、邦訳ないの??!! 驚き。(コメント欄によれば、前者はあるそうな)


 まったくの蛇足で行きがかりの駄賃のような言いがかりではあるが、村上春樹も、既訳のいっぱいあるものいじるよりは、未着手のものをやったらいいのに。そのほうがフィッツジェラルドでもチャンドラーでも、全容を知らしめる意味で社会的、文学環境的に有意義だったと思う。でも、まあ村上にそれは期待できないわな。それがまさに村上春樹の特長でもある。そういう大局的な環境とか社会性にはまったく関心がなく、ましてそれについての使命感とか、何かを引き受けようとかいう意識はまったくなく、自分の好きなものだけに耽溺して、それだけ書くなり訳すなりすればいい。好きな作家のいちばんの名作だけ訳しておしまい。それは村上のよさでもあるし、支持されている理由でもあるけれど、その一方でそれが村上にまつわる狭さの感覚の原因でもあるんだろう。そして本人もそれを気にして、壁とか卵とか言うけど、でも作品は一向にそうなってないんじゃないか——が、これはまったくの伝聞にもとづく余談で思いつきでしかない。

*1:当時の書評の見本:
「『華麗なるギャッビー』を読み終えると、残念な感じがしてならない。それは登場人物たちに対する気持ちではなく、フィッツジェラルド氏についてである」---ハーヴェイ・イーグルトン@「ダラス・モーニングスター」。
F・スコット・フィッツジェラルド最新の駄作」---「ニューヨーク・ワールド」。
フィッツジェラルドが作家扱いされている理由も、みんながそんな扱いをしてやるべき理由も、納得のいく説明はまったく聞いたことがない」---「ブルックリン・デイリー・イーグル」。