羅針盤なき航海

最近、外国人と話していて、よく聞かれるのが、日本人はものすごく几帳面なのに、どうして原発の運営はあんなに杜撰だったのかということである。日本人のサービス、日本製品の品質は素晴らしい、なのにどうして原子力発電所のような、最重要で管理しなければならない施設であれほどの杜撰さがなおざりにされていたのか、理解できないというのだ。
私は日本人であるから、それは少しも意外ではない。ものすごく日本らしいと思う。
国や国民というものは時代が過ぎても少しも変わらないのだなと改めて思うし、日本は徹頭徹尾、日本であったというだけのことだ。
原発事故に絡めて、空気が支配だの、長いものに巻かれろだの、日本の兵隊さんは強いと聞いているからまあなんとかなるでしょ的な無計画性を批判することは出来る。ただしそれは、日本のある種の寛容さや、日本が独立を守った歴史、そして経済発展など、プラスの要因にもなっている。
日本は結局のところ日本であるから発展し日本であるから衰亡するのである。そこに正邪を言っても始まらないという気はする。
日本と言うのは昆虫のようなものである。頭がなく、各部署の反射神経だけで動いている。
「頭」からもたらされる命令と、各部署の最合理の運動は日本では食い違っていて当たり前であり、「頭」からの命令は限りなくフィクションに近い。建前は建前として処理されるべきものであり、この国にあってはコンプライアンスとは、建前が実態であるかのように見せかけるある種の洗練、以上の意味を持たない。
それは批判に値するのかも知れないが、社会の各部署の運動が最適化され、神学論争的なイデオロギー対立で消耗することが少なかったのは、日本には頭がないというこの構造ゆえである。
一見、善なることの中に悪を見出すことが可能ならば、その逆もまた同じである。だからこの構造について正邪を言っても仕方がないと言っている。このことが変わり得るとは思わない。
太平洋戦争をもたらした力学と福島原発事故をもたらした力学は同じものである。そしてそれは高度経済成長や日本社会の安定をもたらしてきたものと同じものである。
それがたまたま、幸運とでるか、凶事とでるかの違いに過ぎない。
だから、外国人に先のような質問をされた時には私はこう答えることにしている。
「君は日本と言う国をよく分かっていないね。勉強しなさい」と。