MFLOG 01:0708 富野由悠季「時空を越えるエンジン[1] 人間こそがタイム・マシン」

僕の世代では模型という言葉しかなかったのだが、現在はそれに類するものが巷にあふれかえっている。人がそれらのものを享受することを当たり前に思うようになったからなのだが、心痛む側面がないわけではない。
が、それはさておいて、模型そのものについて考えれば、時空を越えて、そのものがもつ特性なり性能なりといったものを圧縮しているものだと思える。
そこで具象化しているものは、具体的なものから抽象的なものまであって、コンピュータと連動させれば、無限そのものまで模することができるのではないかとも思える時代になった。
その意味とかディテールについては辞典類にまかせて、ここで言いたいことはそのような模型的なものが時空をつなげる道具になっていて、それは人という時空を越えようとするエンジンがあって実践されているのではないか、ということなのだ。
屁理屈であることを承知で、こんな思考回路を持つようになったのは、数年前から、所用があって甲府盆地にいくようになってからのことだ。
小田原で生まれ育ったのだから、伊豆大島の影がぼんやりとうかぶ相模灘を見ていたし、箱根連山はいやでも目にはいっていたのだが、小田原の景色を見るかぎり、そのようなことは当たり前のことで考えなかった。
が、甲府盆地にはいるまでのハイウェイにせまる左右の山並みやら、富士山の天辺がチラりと見える土地にたてば、小田原北条早雲の武将たちがここまで来たのだろう、と考えたときから、人の意識こそが時空を越え、時空をつなげる仕事をするのではないかと、と思うようになったのだ。
十年以上前に、スペインのバルセロナ港で、コロンブスが使ったサンタマリア号のレプリカを見たときに、こんな小さなもので大西洋を渡ったのかと思えば、呆れ、勇敢といえばいえるのだが無謀、といった感慨しかもてなかったものだ。
ジブラルタル海峡をこえたら、水平線は滝になっていると信じられていた時代に、地球は丸いはずであり、それを信じると思えた意思は学識というよりは、思い込みであろう。それがアメリカ大陸を発見させた(という表現は適切ではないのだが、この稿では問わない)。
その後のアメリカ大陸の実在感を考えれば、そのコロンブスの思い込みが時空を越えて、時空をつなげたエンジンになっているのだ。
そういう思考回路というか、感覚が強くなったのだが、書くまでもないことなのか……なぁ……?
SF的な感覚で困ることは、タイム・マシンという機械を欲しがってしまう感覚を育てることで、人間そのものがそれなのだ、と思わせることがないことで、人間こそがタイム・マシンで、それ以上の性能をもっているものではないかという視点を育てない点なのだ。
思い込みが、信念が、エンジンになっているからこそ、大陸や半島から移動してきた人が日本列島に住みつくようになり、それが文化をつくり、あまつさえ、戦国武将たちは、政治的版図をひろげることの意味がどうであれ、あの山々を縫い、越えてきた。それは凄いよね、こうやって甲府の町をつくっちゃったんだから、ということなのだ。
むろん、甲府の町ではなくて、ほかの町でも村でもいいのだが、すべからく人の思いの丈、または、どうしようもなくてそこに住みつくようになったにしても、その結果が村というような形をのこしたとすれば、それは時空を越えたて【なにものか】をつなげることになったのだから、と感動する。
直感だけで推論にもなっていないのだが、どこか憧れていたタイム・マシンというものが【われ】という人であろうという思いは、じつに嬉しい。
それだけのことなのだが、はたしてそうなのか、ということだけを考えてみたいと思って、いまキーボードをたたいている。
が、この一行にも、人のタイム・マシンとしての性能を考える上では、問題になるだろうと感じている。
なぜなら、ちょっと前までなら、「……ということを考えてみたいと思って、いまペンを執っている」。それ以前なら「……いま筆を執っている」となるところが「キーボード」になっているという事例は、人のタイム・マシンの性能が劣化しているのではないか、という不安があるからだ。
が、一方で、パソコンによってタイム・マシンの性能は飛躍的に上がっているという判定もまたある。
つまり、千年のこる紙(この製法に著作権はない)に書いたデータとパソコンのメディア(この中身は企業秘密)のデータのどちらが時空にたいして強靭か、という設問は、皆さん方も実感していよう。
このことから考えなければならない【われ】、つまり、「エゴ、企業利権、版権、著作権」といった問題は、人型タイム・マシンの属性として深刻な問題であると思う。

某大型古書店で2冊とも見かけたので購入。続きは後日。