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【ネタバレ】[新編]叛逆の物語の感想/魔法少女まどか☆マギカ

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マミさん?


…マミさん!


ふわぁぁあああ待ってたよぉぉおお会いたかったよぉぉおおマミさーん!
マミさん、マミさん、マミさん、マミさぁぁああん!
マミさんマミさん…あぁ…マミさん…アラサーのマミさんも好きだけど今のマミさんも好きだぁぁああ!結婚してくれぇぇええ!マミさん!僕は死にましぇぇえん!マミさんのコトが好きだからぁぁああ!マミさん!あぁ…マミさん…マミさん……マミさん?マミさん!まーみーさーん!マミさん!マミさん!ティロ・フィナーレ!!










……失礼、取り乱した。
こういうのはニュー速VIPブログさんの芸風なので、今後は控えるつもりだ。今回は劇場版まどかマギカ『[新編]叛逆の物語』について、ネタバレ全開の感想を書こうと思う。





ネットや新聞を眺めていると、最近の日本ではアンチ自由主義的な考え方が流行っているように感じる。
友人の1人が冗談めかして言っていた。『艦隊これくしょん』も『永遠のゼロ』も、軍国主義的な日本を取り戻すためのプロパガンダなのだ、と。さすがに妄想しすぎだしナンセンスなジョークにしかならないが、しかし最近、戦前の日本を見直そうという機運が(一部で)高まっているのは間違いない。それと同時に、自由主義や民主主義に対して懐疑の目が向けられるようになっていると思う。


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民主主義についての東浩紀さんの考察


保守主義への回帰、民主主義への懐疑──。私の感じている「空気」が思い過ごしでないとしたら、最近の日本で虚淵玄脚本の作品がウケるのは、ちょっと意外だ。というのも、虚淵脚本のアニメはきわめて自由主義的だからだ。ネオリベではない、もっと土臭くて伝統的なリベラリズムの物語を虚淵先生は書く。
そもそも自由は、孤独や混乱とセットだ。
自由であろとうすればするほど、人は孤独になっていく。誰もが自由にふるまえば、世の中は果てしない混乱に見舞われる。
一方で支配は、連帯や秩序とセットだ。
厳しい上下関係に支配された体育会系の部活では、しかし充実した連帯感を味わえる。どんな国でも、秩序を守るためには警察・軍隊による支配が欠かせない。
私たちが人生に悩むのは、人生を選ぶ自由があるからだ。私たちが恋愛に苦しむのは、誰かを愛する自由があるからだ。生き方や考え方を誰かに支配されれば、もはや悩みや苦しみはなくなる。自分らしさと引き換えに、平穏を手に入れられる。
「平穏な支配」と「苦渋の自由」のどちらを選ぶのか。
虚淵作品の登場人物は、それでも自由を選ぼうとする。『翠星のガルガンティア』のクーゲル船団では、「平穏な支配」が狂気として描かれていた。『PSYCHO-PASS』のヒロイン常守朱は、シビュラシステムの支配に対して嫌悪をあらわにした。虚淵脚本のアニメは支配への懐疑が──すなわち自由主義が貫かれている。



     ◆



ここからが『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』の感想だ。
私はこの映画を『PSYCHO-PASS』の続きとして見た。『PSYCHO-PASS』の常守朱は、支配を「悪」だと見なしながら、支配との共存を選ぶ。たった一人、真実を胸に抱えて生きていく。常守朱は支配を逃れた自由な存在だ。そして自由は孤独とセットなのだ。
たった一人、真実を胸に抱えて生きていく:これはテレビ版『まどか☆マギカ』のラストでほむほむが置かれる立場によく似ている。ほむほむは、アルティメットまどかの作り出した秩序から外れた、ある意味で自由な存在だ。そして自由である限り、孤独からは逃れられない。
常守朱は心の強い女性だ。彼女の精神状態が安定していることは作中で何度も示されていた。だから常守朱なら、どんな孤独にも耐えられるかもしれない。抱えこんだ秘密の重さに、潰されずに済むかもしれない。
しかし、ほむほむは違う。ほむらはどこにでもいる引っ込み思案な少女だ。強がって見せるのは、弱さの裏返しでしかない。劇中で彼女は、マミさんを「繊細な人」と呼ぶ。それ、あなたも同じでしょう! ほむらがマミさんを苦手なのは、同族嫌悪みたいなものではないのか。
ほむらは決して強くない。ただ、頑固なだけだ。
だから、孤独の果てに魔女になってしまう。



『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』のお話をおさらいすると:
まず魔法少女4人がナイトメアと戦う世界が示される。ほむらは5人目として、この世界にやってくる。映画の観客は「何周目の世界なのだろう?」と考えながら物語を追いかける。やがて、ほむらは「この世界は何かおかしい」と気づく。たぶんこのあたりで全体の1/4ぐらい。
続いて、ほむらは街の外に出られないことを知り、ここが魔女の結界の中だと気づく。1人の少女の犠牲によって世界は救われたはずなのに、なぜ? ──ここでようやく、この映画のタイムスタンプが「前作の続き」であることがハッキリする。ほむらは、マミさんのパートナーが魔女シャルロッテだったことを思い出す。そして繰り広げられる、ほむらとマミさんのガン=カタ・バトル! ちなみに本作は英語圏では『The Rebellion Story』と呼ばれているらしい! リベリオン! たぶんこのあたりで全体の半分ぐらい!
ほむらは「魔女探し」を始める。さやか、杏子、まどかに話を聞いて、魔女の正体を探り出そうとする。そして、ついに自分自身が魔女だと気づいてしまう。ほむらは死を選び、街は火に包まれる。が、ほむらは死ぬことができない。QBが喋りはじめた瞬間の「真打登場!」って感じはハンパない。やっぱり黒幕はお前か! ほむらをまどかの影響から隔離されたフィールドに閉じ込めて、ソウルジェムが極限まで濁ったらどうなるか実験していたのだ。巨大な魔女の姿になるほむら。対峙する4人の魔法少女。無視されるQBと、信頼される新キャラなぎさ。たぶんこのあたりで全体の3/4ぐらいかな? いよいよクライマックスだ。
さやかはオクタヴィアを操ってスタンドバトルをしかける。杏×さやファン垂涎の見せ場が続く。そしてマミさんは最後までマミらない。さやかとなぎさの2人は、ほむらと同様にアルティメットまどかの秩序──「円環の理」から外れた存在だと明かされる。孤独だったほむらは、同じ例外的な仲間を見つけたことで救われる……という終わらせ方もできたと思うんだよ。うん、ハッピーエンドを目指すなら。

ところが……。
アルコール中毒者の見そうな象とともにアルティメットまどか登場、ほむらを救済しようとする。が、ここでほむほむ豹変。ソウルジェムの濁りを解放してしまう。うちゅうのほうそくがみだれる! かつてまどかが神になったのとは対極的に、ほむほむは悪魔になる。悪に堕ちる理由を、ほむらは「愛」だと説明する。



何故そこで愛ッ!?



まどかと一緒にいたい。ただそれだけの願いを叶えるために、ほむらは宇宙を作り変える。個人的で独善的な願望につき動かされていることを、ほむら自身よく理解している。だから戦場ヶ原さん ほむらは「悪魔と呼ばれてもかまわない」と言い切るのだ。



虚淵脚本のアニメではリベラリズムが貫かれている:この視座から『[新編]叛逆の物語』を見ると、非常にシンプルなお話に思えてくる。これは、ほむらが多重支配から脱出する物語だ。
まず観客の目の前には平穏な世界が提示されている。ナイトメアにお菓子を食べさせて退治する世界。「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット!」とか叫ぶ余裕のある世界。この恥ずかしいネーミングセンスはきっと【以下略】……話がそれたが、序盤に提示されるのは理想化された世界だ。それこそ二次創作の同人誌のように、願望が詰め込まれた世界だ。
ほむらは、この平穏さに違和感を覚える。
魔女に支配された結界の中だと気づき、脱出しようとする。支配から逃れようとする。
魔女化という方法ではあるものの、ほむらは自分自身の作り出した世界を打ち崩す。さらに仲間の力によって、QBの隔離フィールドも打ち破る。まず最初に自身、続いて自分を取り囲むQB……と、順番に支配者から逃れていく。そして、あらゆる支配から脱出した果てに、アルティメットまどかと対峙する。
アルティメットまどかは、世界の秩序を守る存在だ。究極の支配者だ。
ほむらは、支配者まどかに叛逆することを選ぶ。
概念である「鹿目まどか」から、人間である鹿目まどかをもぎ取ってしまう。
自分の独善的で個人的な願望のために──自由のために──世界の秩序さえも壊してしまうのだ。『[新編]叛逆の物語』は、幾重もの支配に閉じ込められていたほむらが、自我に目覚めて、支配を跳ねのけていく物語だ。常守朱のように支配との共存を選ぶのではなく、ほむらは自由を手にする。自らが悪魔になることと引き換えに。



アルティメットまどかと悪魔ほむらは紙一重の存在だと思う。
というか、そもそも支配から自由になる方法は2つしかない。1つは、自分自身が支配者になること。もう1つは、支配に叛逆して秩序を打ち破ること。後者の方法は、支配者側からは犯罪者と見なされ、「悪」と呼ばれる。
まどかは世界を愛したがゆえに、神になった。そのまどかを愛したがゆえに、ほむらは悪魔になった。2人を分けるのは、行動の動機が自己犠牲的なものか、それとも独善的なものか。それだけだ。
劇中で、さやかはほむらに「なぜ外に出たがるのか」を問う。しあわせな世界をわざわざ壊す必要はないのではないか、と。さやかは、「平穏な支配」と「苦渋の自由」のどちらを選ぶのかを問うている。
それでも、ほむらは自由を選ぶ。



ほむらだけではない。
常守朱は支配者を「悪」だと断じる。
「唯一絶対の圧倒的支配者が君臨することで民衆は思考判断の責務から解放される」というストライカーのセリフに対して、チェインバーは「思考と判断を放棄した存在は人類の定義を逸脱する」と答える。レドは「一緒にあいつを倒そう」と言う。
なぜ人は、そうまでして自由を求めるのか。(※人間じゃないのが混ざっていた気がするけど)どうして人は支配から逃れようとするのか。
QBの言葉を借りれば、人類には「好奇心」があるからだ。



なお、魔法少女たちが「少女」であって「女」ではないことも、この結末に関わっていると思う。
まどか☆マギカ』の世界では、自由を求めた結果として神になるか悪魔になるしかない。あまりにも極端だ。これは登場人物たちが年齢的に成長できず、したがって次世代を残し育てることができず、そのため結論を保留できないからだ。
「平穏な支配」と「苦渋の自由」のどちらを選ぶのか:
はっきり言って、これは究極の選択だ。結論の出しようがない設問だ。
オレオレ詐欺の不安な老人からキャッシュカードを取り上げるのは、ケアであると同時に自由の剥奪だ。自分の頭で判断したつもりになって、テレビCMに言われるがまま消費して、広告どおりのライフスタイルを実践する。これは自由に見せかけた支配だ。「平穏な支配」と「苦渋の自由」のどちらがいいのか、結論を下すには人生はあまりにも短い。
もしも「次世代」がいるなら、結論を保留できる。
自分たちの世代では答えを出せなくても、子供たちの世代が結論を出してくれるかもしれない。子供たちが無理なら孫たちが。孫たちでも答えが出せないのなら、その次の世代が──。ガルガンティア船団は、まさにこの方法を取っていた。船団では様々な問題が起きるが、そのつど対処するだけだ。船団の人々は絶対的なルールを作りたがらないし、結論を急ごうとしない。船団には、育てるべき次世代がたくさんいる。だから次世代の子供たちに願いをたくすことができる。
それができないと、気がふれてしまう。
魔法少女たちは成長せず、育てるべき次世代もいない。あらゆる問題を自分たちの世代だけで、個人的に解決しなければいけない。「平穏な支配」と「苦渋の自由」という究極の選択においては、神になるか悪魔になるかという極端な結論を下さざるをえなくなる。結論を保留して、次世代にたくすことができないからだ。
『[新編]叛逆の物語』では、まどかの母親は精神的に安定した大人だった。一方、担任教師は心の均衡を崩しかけているように描かれていた。もちろんギャグを狙った演出なのは分かるが、よく考えてみるとあまり笑えない。育てるべき次世代を持つ女と、そうでない女。なんとも示唆的ではないか。



     ◆



最近の日本では、保守主義への回帰や、自由主義・民主主義への懐疑をしばしば目撃する。歴史修正主義に発展しないことを祈るばかりだ。そんな現在の日本で虚淵脚本の物語がウケるのは、ちょっと意外だ。虚淵脚本のアニメには自由主義的な価値観が貫かれている。虚淵先生が書くのは、伝統的なリベラリズムにもとづいた物語だ。
支配と自由のどちらを選ぶのか。
社会と個人のどちらが優先されるべきなのか。
こうした問いは、物語のテーマとして繰り返し選ばれてきた。オデュッセウスのような英雄は、独立した自我を持つ個人の象徴だ。つまり、自由な個人の象徴だ。人類はそれこそ神話の時代から、「自由とは何か?」を考え続けてきた。虚淵脚本に一貫しているのは、そういう伝統的で本質的なリベラリズムだ。普遍的なテーマを持っているからこそウケるのだろう。
支配から逃れる方法は、究極には2つしかない。1つは、自分自身が支配者になること。アルティメットまどかのように、その分野の「神」になってしまうことだ。もう1つは、支配に叛逆しつづけること。ときには支配者側から犯罪者と見なされ、「悪魔」と呼ばれてしまう。
この場合の「神」と「悪魔」の違いは、じつはあまり大きくない。行動の動機だけだ。自己犠牲的で博愛的な動機にもとづいて行動すれば、神になれる。自己中心的で独善的な動機にもとづいて行動すれば、悪魔と呼ばれる。
けれど、誰もが博愛的になれるわけではない。
自己犠牲をいとわない勇気を、誰もが持っているわけではない。そして自分の願望をなくした人は、もはや人間ではない。
ほむらは、きわめて人間的だ。
弱くて繊細な人間だ。
引っ込み思案で、あまりにも頑固な少女だ。
私にはどうしても、ほむらが「悪魔」には見えない。





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