安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「今」というのは(短命の根機を含んだ)無条件と理解して良いでしょうか?「今」、と言われても「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないのでしょうか?(スナオさんの質問)

「今の救い」の「今」について質問します。
今までの私の理解では、
「今の救い」=「短命の根機」
だから、「焦りなさい」「真剣になりなさい」だと思っていました。でも、「○○しなさい」だと「条件つき」で「無条件」の阿弥陀さまの本願とは違います。
そして、真剣に「なれる」「なれない」などは、「私の心」であって、救いには関係ない、と理解もしています。
「今」というのは(短命の根機を含んだ)無条件と理解して良いでしょうか?
「今」、と言われても「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないのでしょうか?
(焦りも真剣も、なかなか起きず、しかも起きても続きません)
「今」に対しての向き合い方(正しい理解)を教えて頂ければと思います。(スナオさんの質問)

スナオさんより質問を頂きました。有り難うございました。
阿弥陀仏の救いはただ今の救いという説明を聞かれてのお尋ねだと思います。スナオさんが以前理解されていたという「今しかないから焦りなさい、真剣になりなさい」という意味だと私も思っていた時はありました。
確かにお聖教には阿弥陀仏の本願は短命の根機を目当てに建てられたとかかれています。

そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。 (口伝鈔)

これは、いつ命が終わるか分からない私を救うには長い時間がかかっていては救えないといわれてのことです。確かに、今日しか本当に命がないのならば「今日しか助ける時はない」となりますが、「今日真剣にならないと救わない」とは言われていません。


今助けるというのは、言われている通り準備は必要ないということです。これこれした上で今助けるという「今」ならば、無条件とはいわれません。「今とはどういうことか」を理解した上で助けるということでもありません。
ですから、「急がねば、真剣にならねば」とプレッシャーに感じる必要はないはありません。

しかし、とかく「ただ今」助けると聞くと、「ただ今」の意味に拘りますし、「無条件の救い」と聞くと「無条件」の意味に拘るのが私という人間の性分です。

そういうことをあれこれ考えているうちに、命はどんどん縮まっていきます。明日という日は、いつもあるのではなく必ず終わりが来ます。どうなった今か、どうなったら無条件かということは、本願文にはありません。つまり、ないはずの条件を自分で作っているに過ぎません。そういう拘りは、うち捨てて南無阿弥陀仏に救われて下さいと勧められたのが、親鸞聖人を始めとする浄土真宗の先人の皆さんです。
間違った理解は訂正しなければなりません。ただ、阿弥陀仏の救いにあう人は「正しい理解ができた人」という条件はありません。ただ今救うの仰せをただ今聞いて下さい。