人文総合演習B 第10回 井上薫『平気で冤罪をつくる人たち』

平気で冤罪をつくる人たち (PHP新書)

平気で冤罪をつくる人たち (PHP新書)

「冤罪」はよくない、という直観的な価値判断を我々はもっており、それはなくすべきものであるということを、当然に考えます。そのとき我々は、そこで問題になっている事件が「冤罪」であることを知っています。つまり「犯罪者」として扱われている人が「無実」であることが、絶対確実な事実として前提になっています。「無実」なのに有罪にされて刑罰を科されるなんてひどい、というのが、冤罪=悪という価値判断のもとになっているわけです。このとき我々は、この世に起こっているすべての事実を、間違いなく認識できる「神の視点」に立っています。
ところが、冤罪はなくさないといけないのだから、実際になくせるような仕組みをつくっていこう、という段階になると、もうこの「神の視点」に居続けることはできません。もしすべての真実を知る「神の視点」に立ち続けることができるのであれば、誰が犯人なのかも正しくわかっているわけですから、その視点から直接犯人を名指しして罰(天罰!)を下せばいいだけです。でも、そんな能力を、我々人間ごときはもっていないのです。
そこで、冤罪を防ぐ制度設計というのは、誰が本当に犯人なのか、特に、被告人が本当に犯人なのか、それとも「無実」なのかどうかについては、絶対にわからない、ということを前提に進めていかざるをえません。そうなると、「無実なのに罰せられる」という事態は、我々の(それは良くないことだという)価値判断の源泉となる仮説的な想定ではあっても、我々が実際にこの経験世界で遭遇できる事態ではない、ということになります。
我々が経験的にチェックできる事態というのは、裁判でどんな証拠や証言が提出されたか、有罪の判決が出たか無罪の判決が出たか、有罪判決に対して証拠は「合理的な疑い」を容れない程度に十分だったかどうか、といった、司法手続上の、各アクターの動きとその適切性だけです。
「無実なのに罰せられる」という神の視点からしか捉えられない事態ではなく、人間の眼から捉えられる事態のなかに「冤罪」という現象を探すなら、たとえば、「無罪判決のはずなのに有罪判決を下される」といったことがあるでしょう。
刑事裁判は「無罪推定」が原則です。つまり、有罪か無罪かわからないときは無罪になることになっています(わからないので「推定」といいます)。そして、有罪と判断するためには、「合理的な疑いを容れない」ほど確実な立証が必要です。そこで、被告人を有罪とするにはまだ証拠が弱く、「合理的な疑い」を容れる余地があるにもかかわらず、裁判官が有罪の判決を下してしまったとすれば、これは、「無罪判決のはずなのに有罪判決を下される」という事態です。これを「冤罪」と呼んではどうでしょうか。
しかしこの、「本当は無罪なのに」という冤罪は、神の視点からの「本当は無実なのに」という冤罪と較べると、道徳的な直観に訴える力が弱いのもまた明らかでしょう。逆に、検察官が無能で、まともな証拠を提出することができず、(本当はやってそうな)被告人が無罪判決を受けたりすると、我々の道徳的直観は、「なんてひどいことだ!」とか「司法は腐ってる!」とか「法律が裁けない悪はオレが裁く!」(平松伸二的な←知らんよね・・・)とかいう方向に働くかもしれません。なぜかといえば、「無実の人が罰せられてはならない」という道徳的直観は、「本当に悪いやつは罰せられなければならない」という道徳的直観と表裏一体だからです。
えーと、例によって長くなりすぎているので、もうこのへんでやめますが、要するに、制度の改善へ向かう動機となる我々の道徳的直観は、現実には知ることのできない仮説的状況から力を得ているが、しかし、そこから実際に制度改善へ向けて踏み出すと、もはやその状況の不可知性を前提にせざるを得ず、その結果、制度の改善が別の道徳的直観に抵触する可能性が出てきてしまうのです。すると、次のステップとしては、その二つの道徳的直観のうち、どちらを優先すべきかという議論になってくるでしょう。
このように、制度の改善は、道徳的直観との微妙なすり合わせをやりながら論じていくしかありません(以上の議論ですらものすごく単純化した話にすぎません)。出席者の多くが「難しい問題」と感じ、報告者たちが議論構築に難儀したのはこのような事情のためだろうと思います。しかし、対象となる現象についての自分の道徳的判断の根拠を反省して捉え、また制度の現状とその改善が道徳的判断に及ぼす影響について、ひとつひとつ丁寧に考えていけば、一足飛びの結論が出ることはないでしょうが、考えるべきことを考えたという足跡は確実に残るでしょう。そして、学問的な議論というのはそれで十分なのです。
 
以下、出席者のコメント。

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掛け算の順序のはなし

菊池誠さんがブログにエントリをあげていた(掛け算の順序問題について)のを読んで、ちょっと思ったので書いておきます(Twitterでもちょっと書きました)。この論争(?)については、存在は知っていたけど中身はチラ見しかしていないので、同様のことは既出かもしれませんが。
話題の発端については、このTogetter(かけ算の5×3と3×5って違うの?)とそこからリンクされているアルファルファモザイクの記事(そういえば掛け算にはそんなルールがあったな)を参照していただければいいかと思いますが、要するに、テストで

りんごが3個のった皿が5枚ある。全部で何個?

という問題に対して

5×3=15個

と書いたらバツになる、ということです。


もちろん、数学的には「3×5」も「5×3」も同じことです。
他方、バツにする人の主張は、「3個の皿が5枚」なんだから「3×5」と書くのが正しい、というものです。論争では、この両者の表現をつなぐ理屈について争われている気がします(ちゃんと見てなくてすみません・・・)。
さて、数学的には正しいものを、(算数的には?)間違いだというからには、「3×5」と書いた人は理解しているけど、「5×3」と書いた人は理解していないことがある、ということのはずです。しかし、それが何なのか、私にはよくわかりません。
「りんごが3個のった皿が5枚ある」という文字列、あるいは、もとの設問をそのまま書くなら、

さらが5まいあります。1さらにりんごが3こずつのっています。りんごはぜんぶで何こあるでしょう。

という文字列を読んで、「りんごが3個のった皿が5枚ある」という事態を理解できているかどうかという問題は、掛け算ができるかどうか、式をどう書くかとは独立の、それに先行する問題でしょう。もしこれが理解できない人がいたら、まずは日本語の読解力を身につけさせるべきだと思います。
逆に、掛け算の式の書き方が話題になる場合には、この種の読解力はすでに身についていて、上の文字列を読んでそれが表している事態を理解しているということが前提になっているものと考えてよいと思います。


というわけで、問題は、「りんごが3個のった皿が5枚ある」という事態を理解できている人が、「5×3=15個」と書いた場合に、何が理解できていないのかということになるかと思います。
さて、「りんごが3個のった皿が5枚ある」場合に、りんごの総数はいくつかと訊かれて「15個」と正しく回答し、しかも回答を導くための方法として「掛け算」という(効率的という意味で)「正しい」方法を用いている以上、この人が「5×3」を「りんごが3個のった皿が5枚ある」という意味に理解していることは明らかです。そして、正答を導くのに、ここで述べた以上の事柄を理解する必要がないことも、これまた明らかですし、正答を導くのに理解しなければならないことだけ理解していればいい、ということも、やはり明らかだと思います。
したがって、この設問に正答するために理解していなければならないことで、「3×5」と書く人は理解しているけれど「5×3」と書く人は理解していないこと、というのは何もないと言わざるを得ません。


上の菊池さんも「導入時の論理」という言葉で述べていますが、思うに、「3個が5皿」なら「3個×5皿」としたほうが、教えやすいし、理解しやすいのだろうと思います。実のところ、私もそう習ったし、そうやって理解しました。
しかし、教えやすい、理解しやすいということは、正しいということではありません。テストというのは、正しいかどうか、理解しているかどうかを調べるものであって、その際には、正しいかどうかはもちろん、何を理解していなければいけないか(何を理解していればいいか)も考えなければなりません。「5×3」と書く人が、理解していなければならないことで理解していないことは何もないことは、上に示したとおりです。
「導入時の論理」というのは要するに教育者の側の事情であり、必要なことをすでに正しく理解している人にとっては、そんなこと考慮してあげる義理などはないわけで、それを不正解とされるのは理不尽以外の何ものでもないと思います。

人文総合演習B 第9回 山脇由貴子『友だち不信社会』

友だち不信社会 (PHP新書)

友だち不信社会 (PHP新書)

ウワサはされた人が嫌に思うので悪いことだ。悪いことはしちゃだめだ。やめさせるために罰を!
もちろん、報告者にしろ、コメンテータにしろ、ここまで単純な議論をしているわけではありませんが、どうしても、不快⇒悪⇒不正⇒禁止⇒罰という連想が、あまりにもするするとスムーズに流れていってしまっているような印象を受けました。道徳哲学的には、と大層なことをいう必要はありませんが、もう少し、各段階で、ごつごつとひっかかってほしい気もしますので、今回は、こういう倫理学的な、それから法哲学的なことについて、ちょっとコメントしておきたいと思います。
不快⇒悪について。本人にとって嫌なこと、不快なことが、必ずしも、本人にとって悪いことなわけではないことは、たとえば、泣き叫ぶ子どもに注射をするお医者さんのご苦労を思い浮かべればすぐ理解できるかと思います。
悪⇒不正について。「悪」という言葉、「善悪」という区別を、上の続きとして、ここではその人にとって悪いこと、という意味で使います。これに対して、「不正」という言葉、正不正という区別は、誰にとってということのない、客観的な道徳的判断として使うことにします。そうすると、ある人にとって「悪い」ことが、客観的にも「不正」であるとは限らないことは、何かの大会とかでたくさんのライバルを破って自分が優勝、という事例を考えれば、これまた明らかでしょう。自分にとって優勝が「善い」ことである反面、敗退した人たちにとってそれは悪いことでしょうが、だからといって頑張って優勝した自分が「不正」だと言われたら困りますよね。
不正⇒禁止について。不正なことはしてはいけないというのは、自明に思えるかもしれませんが、倫理学的には必ずしも自明ではありません。これは「why be moral」問題と呼ばれますが、極端に過激な言い方をすると、「なぜしてはいけないからといってしてはいけないのか」という問題です。ただこの問いについては、ほとんどセンスの問題、というか、たまたまこの問いが理解できた人にとってのみ問題になるというような種類の問題な気もしますので、ここではさらっと飛ばします。
禁止⇒罰について。実のところ、この両者をきちんと区別することが、学部生レベルでは一番大切だと思っています。大学生ともなれば、この両者は絶対に分けて考えなければいけません。なぜなら、何かが「してはならない」と禁止されているだけでなく、この禁止に違反したら罰を与えるということになれば、そこに、今まで登場しなかった「罰を与える人」が突然現れるからです。
禁止だけなら、それは「してはならない」という観念とその人だけの問題ですが、処罰となると、その禁止/違反関係の外部から突然「罰を与える人」が出てくることになるのです。天罰があれば問題ありませんが、残念なことにそんなものはなく、人間の社会では必ず、罰があるということは、罰を与える権力をもった人間が存在するということを意味します。そして、罰もまた人の行為ですから、実は、その罰を与えるという行為の正不正が、禁止された行為の不正性とは別に問われなければならないはずなのです。
(なお、法律や条例のレベルでも、禁止されてはいるが違反しても罰のないきまりというのはいくらでもあります。たとえば、新潟県青少年健全育成条例では、「何人も、青少年に対し、みだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない」(20条1項)と禁止事項を設け、その「規定に違反した者は、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」(29条1項)と罰則を設けている一方で、「この条例の罰則は、青少年に対しては適用しない」(31条)として、青少年を罰則の適用から除外しています。ということは、青少年同士で「みだらな性行為」をしても上記の罰則は与えられないということになりますが、しかし禁止されていることには変わりありません。)
ちょっと難しい話になりましたが、とりあえずは、それぞれの移行段階に、ある程度のでこぼこがあってスムーズには移行できないという感じをもっていただければよいかと思います。あとは、事例に応じて、自分で考えることです。
なお、以上の説明は、これでもものすごく単純化したものです。ある行為とか状態に対する(我々が日常的にやっている)道徳的評価というのは、善いか悪いか、正しいか正しくないか、みたいな二項対立には還元できません。しなければならない、したほうがいい、してもしなくてもどっちでもいい、してもいいけどしないほうがいい、してはいけない、といった言葉づかいの違いに見られるニュアンスの差に思いをいたしていただければ、事態の複雑さがよくわかるかと思います。

以下、出席者のコメント。

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Roemerの「機会の平等」メモ

Equality of Opportunity

Equality of Opportunity




T個の「タイプ」の集合。




タイプtの人が全人口のなかで占める割合。




タイプtの人が資源をx単位使い、努力をe単位したときに得られる成功度。




タイプtで、努力をe単位する人にあげる資源の量。つまり

は、タイプtの内部での、努力量に応じた資源配分のルール。




タイプごとの資源配分ルールを集めたもの。これが「政策」。




タイプtで資源配分ルール が採用されているとき、そのタイプのなかで努力順位が下からπ%(第π百分位)の人が得る成功度。
努力量に応じた資源配分のルールの存在を加味した上で、 を書きなおしたもの。




タイプtで資源配分ルール が採用されているときの、タイプtのなかの努力量の分布を表す確率密度関数




タイプtで資源配分ルール が採用されているときの、タイプtのなかの努力量の分布のなかで、下から割合πの人の努力量。このπは、おそらく分布を使い出したことが理由で、パーセントではなく割合に変わっているので注意(さっきまでの表記が50%なら、0.5になっている)。
これは、努力量が 以下の人の割合がπだということ。該当区間での分布の曲線の下の面積が割合なので、次のように書ける。



ここまでで、努力量eと、配分される資源xが、どちらも、資源配分ルール と分布の中の分位πで表されることになったので、 で書くことができる。



まずは、タイプ内での努力量の相対的位置πを固定した上で、この位置にいる人の成功度をタイプ間で「平等化」するような政策をさがす。なお、ここで「平等化」とは、(「成功度の値を等しくする」ことではなくて)マキシミンのこと。つまり次の問題を解く。

マキシミンなので、解はつねに存在する。この解=政策を と書く。



すべてのπについて、上の問題を解くと、政策の集合ができる。

(πの値を0.01, 0.02, ... 0.99, 1 という100個の数字に限ると、政策はそれに応じて100個。)
この集合の要素がただ1つだけなら、つまり、すべてのπについて「平等化」する政策が同一であるなら、それで話は終わり。しかし、そんなことはまずない。なので、以下のような妥協策が必要。



(注:ここでは、πは1から100までの100個の整数)
各タイプで第π百分位にいるの合計は、全人口の何割か。タイプ内の人口を100分割したうちの1つなわけだから、タイプ内人口の1%。で、すべてのタイプで1%なので、全体でも1%。だから、第π百分位にいるひとは、全人口の1%。
そこで、(1から100まで100個ある)各百分位ごとに、その成功度が一番低いタイプをさがし、そうやって見つかった、各百分位ごとの最小成功度の平均をとる。

で、この平均値を最大化する政策を探す。



直前の式のπを、1から100までの100個の整数ではなく、0から1までの(連続)実数として書き直すなら、「和」を「積分」に換えればよいだけ。


人文総合演習B 第8回 加藤隆『歴史の中の『新約聖書』』

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

どうやら、「キリスト教」、あるいはもうすこし一般的に「宗教」という対象について、生活上の実感のある人がいなかったようで、報告者たちは苦労したみたいです。もっとも、かくいう私自身が、宗教団体や宗教活動とは無縁な生活をしていて、宗教というカテゴリーで括られる社会的活動が実際にどんなものなのか、実感としてはほとんど知りません。
他方で、ある対象について論じるというとき、その対象の内部にわけいって詳細を調べるということだけが、唯一の方法なわけではありません。対象の詳細は思い切って切り捨てた上で、その対象の何か一面にだけ着目し、そこから別の対象へと向かう、という議論のやり方もあります。それが、「比較」です。
比較という方法は、抽象(抽出)から始まります。抽象によって、別の対象が議論のなかに入ってこれるようになるからです。
たとえば、宗教にはエクスタシー、つまり忘我的な体験がつきものだ、ということを聞きかじったとします。宗教的忘我体験がどんなものかについて、さらに詳しく調べていくというやり方はもちろんありますが、比較という観点からは、むしろ、報告者がよく知っている社会的領域のなかに、宗教的ではないけれども忘我的な体験をもたらすものがないだろうか、と探してみることが大切です。セックスや恋愛はどうだろう? ゲームに夢中になって一日中やってたみたいなのは? 音楽は? アルコールや麻薬は? という感じです。
あるいは、宗教には聖書やコーランのような「正典」がある、ということから出発して、宗教ではないけれども「正典」のようなものがある領域はないだろうか、法律業界で憲法はそういう位置づけではないか? ガンヲタがいつまでもファーストガンダムの話ばかりするのは、あれは正典扱いということでは? みたいな感じの方向性もありでしょう。
このように、抽象と探索によって、ある点について共通した異なる複数の対象が得られます。たとえば、宗教と恋愛は忘我体験を伴うという点で共通だ、と。さてここから、「だから恋愛も宗教だ」みたいな議論も、ありといえばありです。しかし、忘我体験は共通でも、宗教にはある正典が、恋愛にはありませんから、それでも「恋愛も宗教だ」といえるためには、忘我体験があることは宗教の本質であるが、正典があることは本質ではない、という前提条件が必要です。つまり、「宗教(の本質)とはなにか」という大変難しい議論に入っていかなければならなくなります。これは、はっきり言って無理筋です。
他方で、「宗教は宗教、恋愛は恋愛で別もの」ということは維持した上で、しかし「忘我体験という共通点がある」というのにとどまるなら、上のような困難は生じません。でもこれだけでは、あまり「発見」的な感じがしないのも事実です。つまり、「比較」というのは「共通点の発見」で終わってはおもしろくないのです。おもしろくなるのはむしろここから、「共通点の発見」を出発点とした「相違の探索」です。
宗教と恋愛にはどちらも忘我体験があるとして、しかしそれを引き起こす要因、それに対する意味づけ、それが内外に引き起こす問題、等々はかなり異なっているはずです。この違いを列挙するだけで十分に発見としての価値がありますし、またこの作業を通じて、宗教的な現象としての忘我体験の詳細も、恋愛との差異によって明らかになっていくわけです。
共通点と相違点がセットになって、はじめて比較は完成します。今回の報告者の議論は、一方はキリスト教に親和的な民族そうでない民族(特に日本人)のあいだの相違点を、両者の共通点を軸に設定しないまま指摘し、他方はキリスト教の権威化と現代の環境問題の権威化の共通点を指摘するに留まっていました。いいことがいえそうなのに、どう進んでいいのかわからなくなるのは、上に述べてきた「比較」の基本形式がとれていないからだろうと思います。逆にいうと、比較というのは、対象についてよく知らなくても発見を導くことができる、優れた方法だということです。特に、あらかじめ対象について知識をもっていることの少ない社会科学では有効な方法だといえるでしょう。
長くなりましたのでこのくらいで。

以下、出席者のコメント。

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人文総合演習B 第7回 島宗理『人は、なぜ約束の時間に遅れるのか』

人は、なぜ約束の時間に遅れるのか 素朴な疑問から考える「行動の原因」 (光文社新書)

人は、なぜ約束の時間に遅れるのか 素朴な疑問から考える「行動の原因」 (光文社新書)

本書が示す行動主義的な説明様式に対して、報告者は二人とも、価値観や意志といった概念によって対抗しようとする立場を示しました。
ただこれはなかなか、議論の戦略として厳しいものがあります。というのも、価値観とか意志とか〈自分〉というのは、それが何なのかよくわからないがゆえに、あるいは、自分ではよくわかっているつもりでも言葉で表そうとするとうまくいかないがゆえに、行動主義によって排除されているシロモノだからです。価値観とか意志というのが「何なのか」という問いは、非常に難しい問題なわけです。
他方で、「何なのか」はわからないけれど、それが存在している(と想定している)ことで「何が得られるのか」という議論は、「何なのか」の問いにちゃんと答えなくても可能です。これは、価値観とか意志といったものがなかったら、我々の意味の世界から「何が失われるのか」を考えてみることで回答可能だからです。たとえば、意志のない世界で「責任」という概念は成立できるでしょうか(この問いに対する答えは私もわかりませんが)。
そして、そのように問いを立てるならば、一言で、行動の「説明」とか「なぜ」といっても、実はその説明要求やなぜ疑問に込められた意味によって、というか、その疑問が通用する空間によって、求められる答えも変わってくるのだということにも気づくはずです。私たちは様々な意味の空間、様々な文脈の空間に同時に所属しながら生きているのであって、行動主義的な説明が、ある文脈でもっともらしく思えたり、問題解決に役立ったとしても、別の空間でもそうである保証はないわけです。これは、単に正解は一つではない、というだけのことではありません。
あと、ちょっと修正ですが、わたくし、環境決定論を、宇宙の始まりから未来永劫のすべての現象が因果連鎖でつながって全部決まっている、という極端な決定論の話に拡張した際に、その連鎖のすべてを見通して未来を予見できる存在のことを「マックスウェルの悪魔」と口走ってしまいましたが、えーと、これはウソです。正しくは「ラプラスの悪魔」ですので、間違えないでくださいね。

以下、出席者のコメント。

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人文総合演習B 第6回 清水真木『これが「教養」だ』

これが「教養」だ (新潮新書)

これが「教養」だ (新潮新書)

本書は、「教養」についた飾り(=読書とか)を削ぎ落として、教養の本来の姿を取り戻すことをテーマにしていました。それが、教養とは問題解決能力のことだという話なのですが、議論の中では、そのような形で定式化された教養に対して、あまり魅力が感じられていなかったように思います。
一つには、「本来だからなんなの?」という So what? 的な疑問があるでしょう。「教養」についていたのは不要な飾りにすぎなかったのかもしれないけど、その飾りが魅力的だったんだよねー、と。そして、削ぎ落とされた飾りは、実は「教養」以外のところではなかなか輝けないんだよねー、と。
もう一つは、問題解決能力という定式化それ自体の味気なさがあるでしょう。これも一つには、「問題が解決できたからなんなの?」という面があるでしょうが、問題解決能力という性質は、問題の発生に対してすごく受動的だという面もある気がしました。
問題というのは、すべての生き方に同様に降りかかってくるものではありません。他人と関わらないようにする、みたいな消極的な生活をしていれば、問題自体があまり発生しないでしょうし、様々なことに手を出し、様々な人とかかわりをもっていこうとすれば、そのぶん生じる問題も多種多様多量になるでしょう。ところが問題解決能力として定義された教養概念は、どのような生き方が好ましいか、潜在的な問題群に対してどのようなスタンスをとるべきなのかを何も教えてくれません。この点が、著者の(「本来の」)教養概念の魅力のなさに通じているように思います。
この人文総合演習自体が「教養科目」であることもあって、私自身も教養についてはいろいろと考えるところがあり、自分なりの定義じみたものも持っているのですが、そろそろ長くなったので(笑)、それは「啓蒙」概念と密接に関わるものだというヒントだけ示しておくことにします。いずれにせよ、大学生のみなさんは、教養とか知識とか能力とか研究とかといったことについて、少なくとも自分の人生と絡めて考え抜くことが望ましいように思います。この望ましさは、私の考える教養概念と関係することなのですが、それについてはこの授業をやっていく中で追い追い。
 
以下、出席者のコメント。

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