世の中に、時間の使い方に関する情報は溢れている。ネット上では、時間に関するライフハック記事が日々量産されているし、本屋を覗けば、時間の使い方に関する本がビジネス書コーナーに山積みになっている。
しかし、実際のところ、これらを実践できたとしても、「時間に追われている感覚」から逃れることは難しいのではないかと僕は思う。自分の時間を作り出すために、日々の活動はものすごく忙しないものになるし、やっと捻出した自分の時間についても、「時間を無駄にしない」意識が働いて、焦りのような感情を払拭できないまま過ごしてしまうということはよくあることだ。いわゆる「時間の使い方がうまい」人でも、日々時間に追われている感覚から完全に開放されているとは到底思えない。
この時間というものの考え方について、見田宗介『社会学入門 ――人間と社会の未来』に、はっとさせる記述があったので、引用して紹介したいと思う。
たとえばバスを待つみたいな時間でも、田舎だったら「午前」に一本、「午後」に一本くるというバスを日だまりで待っているうちに、ペルーでこちらが日本人ならフジモリ大統領に似ているとか似ていないとかいう話題で、すぐにみんなで盛り上がってしまう。バスを待つ時間はむだだという感覚はなくて、待つ時には待つという時間を楽しんでしまう。時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか、お金と同じ動詞を使って考えるという習慣は「近代」の精神で("Time is mobey"!)、彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものです。
三田宗介『社会学入門 ――人間と社会の未来』p32
これを読むと、時間に追われる生活から開放されるために必要なのは、時間を効率的に使うための時間術ではなく、時間という概念の捉え方を「消費する」ものから「生きる」ものに変えることなのではないか、と気付かされる。
僕たちは、時間をすぐに無駄な時間と価値のある時間、というように分類してしまう。しかし、見田先生の挙げた例のように、バス待ちの時間だって楽しむことができるのだから、ある時間について一概に無駄とか有用だとか断定することはできない。時間を金銭のように消費するものと考えるのではなく、今流れている時間を精一杯楽しもう、というように考え方を転換すれば、時間に追われることもなくなるだろう。
自分の時間を捻出しようとして、様々な時間術を試してみては「うまくいかない」と思っている人は、一度このことを考えてみるといいのではないだろうか。本来は、24時間365日が自分の時間のはずである。もし、これは自分の時間ではないと感じている時間があるのならば、その時間を短くするのではなく、自分の時間に転換する方法を模索したほうが根本的な解決につながるように思う。
日本で生きていると(特に、都市に住んでいると)時間を消費するものから、生きるものに完全に変えるのは難しい。でも、このような観点を忘れずに、少しでも「生きる」ことができる時間を増やしていくことで、日々の「時間に追われる感覚」は少しずつ変わってくるのではないだろうかと僕は思う。
- 作者: 見田宗介
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/04/20
- メディア: 新書
- 購入: 15人 クリック: 176回
- この商品を含むブログ (132件) を見る