高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』(2018)

久々に怖い顔を見た。多分、昨年心霊ビデオで見た(タイトルを失念した)幽霊の顔がめちゃくちゃ怖くてトラウマ級だったのだけど、『霊的ボリシェヴィキ』に出てくる俳優さんは基本的に顔が怖い。例えば主演の韓英恵にあてられる照明のせいでまるで吸血鬼のような顔つきになるし、南谷朝子は気が狂ったおばさんって感じで近づきがたい。人を殺したという役をしている巴山祐樹はいかにも好青年が裏に何か抱えているヒミツを顔で表現できている。この『霊的ボリシェヴィキ』はまさに顔の映画であるともいえるのだけど、ようは顔というのは人を誰かとして判断するに一番重要視されるパーツであるということなのだと思う。のっぺらぼうが怖いのは顔がないからで、口裂け女が怖いのは口が裂けているからだ。自分たちと違うから怖いと思ってしまう。私たちは毎朝顔を洗って鏡に映る像を見てそれを自分だと認識する。そこで一安心するわけだ。ここには自分がいるぞって。でもそこに少し違う自分がいたとしてもそれは自分ではないと思うのだろうか。少し違うだけで判断できるのだろうか。

南谷朝子が夢で廃墟に訪れそこにいた女の人に「ここで〇〇がこんな風に死んで」とそこで死んだ人について詳しく説明されているとき、その女は本当に真実を語っているのだろうか。シチュエーションというものはどうにでも心理操作ができてしまう。それがすべて嘘っぱちでも廃墟で聞いてもないのにベチャクチャと気味悪いことを言っていれば怖いに決まっている。「怪談話をすればよってくる」というだけあって雰囲気は本物を呼んでしまうことがある。だから「顔を見ようとしてもモヤがかかっていて顔がわからなかった」と本当に怖い話になる。恐怖とは数式で本当に生まれてきてしまう可能性があることを示唆する。『霊的』であれば何かの廃工場のようなだだっ広い空間。レーニンスターリン肖像画(写真)、録音機と数々のマイク、トランプを取る手、幽霊の足、化物の声、百物語というシチュエーション。そして極めつけの生贄。そういったパーツが雰囲気を生んでいる。そのパーツを骨格のように扱って最後に血肉すなわち身体を手に入れる。流れる血は怪物を生み出す原動力となる。映されたパーツは怪物の身体のような役割を担うんだね。

雰囲気づくりの映画だと思った。歌っちゃえば雰囲気が変わるし、おかしくない話を馬鹿笑いすればそれは「わかったような」雰囲気の笑いになる。怖い話をしていれば時間はあっという間に経つし、夜に二人で怖い話をしていれば――または逆であるが――妙な切り返しが始まり、恐ろしい足が出現する。雰囲気を作るために宗教にかかわりのあるものは燃やされなければならないし、雰囲気を壊せば雰囲気を作るために殴られる。だからその場が破綻してしまえば当然のように全員殺してしまう。黒沢清の『予兆』(ドラマ版しか見ていないが)が久々に面白かったのも高橋洋脚本の賜物だろう。『旧支配者のキャロル』も発売したし買わないとな。

旧支配者のキャロル [DVD]

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映画の生体解剖~恐怖と恍惚のシネマガイド~

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映画の魔

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