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何かを説明する時の、二つの「たとえ」



倉下忠憲
文章を書く上で「わかりやすさ」を意識するのは大切なことです。これはブログに限らず、他の人に向けて書かれた文章であれば何であれ共通しているでしょう。

どれだけ頑張って書いても、読まれなければ意味はありません。そして、わかりにくい文章は(難解さが売りになる本を除いて)あまり読まれません。

読んでもらいたい、あるいは読んだ上で内容を知ってもらいたいと考えているならば、「わかりやすさ」は重要なファクターになってきます。
※ドイツ哲学の古い翻訳本を開いてみると、難解な本を読むことの苦痛さが簡単に実感できます。

「わかりやすい」文章を構成している要素はたくさんあります。文の長短、文章の構成、使う言葉の選択、箇条書き・・・など一つ一つ列挙していけば教科書ができてしまいそうです。

それらをまとめてブログで紹介するのは難しいので、今回は一つ取っつきやすい方法を紹介しておきます。堅苦しい文章法を知らなくても、すぐに実践可能な方法です。

「何かを説明する時には、二つの<たとえ>を意識すること」

ただ、これだけです。


「例えば」を使う

一つ目の<たとえ>は、「例え」です。これは実例と言い換えてもよいでしょう。自分が書いたことの実際例をあげる方法です。

例えば、「ライフハック心理学」の「「50%ダッシュ」で先送りしない」では次のような文章があります。

『スピードハックス』(日本実業出版)に冒頭から書きましたが、小分けにする応用が「5分だけダッシュ」です。やりたくないことがあるなら、タイマーを5分セットして、5分だけはやる。

たとえば掃除がいやなら、5分だけやる。5分経ったらやめてもいいことにして、その代わり5分だけは集中する。意外にはかどるものです。

最初の文が説明で、後の文がそれを補強する「たとえば」になっています。とてもわかりやすいですね。

もう一つ「ライフハック心理学」さんから。「030 記憶の再認とATOK」より。

つづめて言うと、

「デジタル時代の生活の知恵」 → 「該当する心理学」

という流れのエッセイなのです。私は専ら「該当する心理学」を探す仕事をしていました。たとえば次のような実例を挙げることができます。

ATOK(文章変換機能) → 記憶の再認(該当する心理学)

最初の「→」で示されるのは抽象化された関係で、二つ目の「→」はそれを具体的な実例に置き換えたものです。

抽象化されたもの、あるいは一般化されたものは、汎用性が高まります。しかし、抽象的なものだけでは、いまいち実感がわきません。なんとなくそうかなぁ~と思っても、腑に落ちるというレベルまではなかなかいかないものです。

「たとえば」を使って具体的な例をあげておけば、読む人の理解を助けられます。具体性が不足しているものと読者をつなぐルートになるのが実例、というわけです。

「喩えれば」を使う

二つ目の<たとえ>は「喩えれば」です。つまり比喩を使うということです。あることを説明する時に、他の何かに置き換えて説明するというのがこの方法になります。

例えば、シゴタノ!から古い記事を引用すると「すぐ手が届くところに「発火本」を置いておく」というのがあります。

前置きが長くなりましたが、本を読みながら常に頭の片隅で渦巻いているそれの実態は、著者との対話です。もちろん、実際に対話できるわけではありませんから、想像上の対話になるのですが、この対話がうまくできると、そのまま読み続けるのが惜しくなるほどに、アイデアが次々と浮かんできます。絶え間なく空を煌めかせる連続花火のように。

このプロセスは、ちょうど誰かと実際に話をしている時のサブセットと言えます。相手のちょっとした言葉が、古い記憶を掘り当てて、思わぬ着想として意識の表層に浮上するように、その導火 → 着火 → 発火という一連のプロセスが一瞬にして完結し、それが連鎖するのです。

本を読むという行為が、他の人との対話という形に置き換えられています。

他の誰かと話すという体験は特に珍しいものではありません。そうした経験に置き換えると、読書をしない人にでもそこで起こっていることを伝えることができます。「あぁ、なるほど、そんな感じか」とイメージしやすくなるわけです。

文芸的表現では、直喩とか暗喩といったものがありますが、そういうのはスルーしておきましょう。自分の中にあるイメージで、他に似ているものは何かないかを意識して、似ているものが見つかればそれを「喩えれば」として書けば良いだけです。
※「喩えれば」という言葉を使う必要もありません。

こうした比喩は、コンピューターのファイル変換に似ているかもしれません。書き手は読み手にとって新しい事実を提示する場合があります。それは新しいが故に提示される価値のある情報ですが、新しいがゆえに受け取りにくい可能性があります。その新しい情報を、なじみのある別の情報に「変換」することで、受け取られやすい形に置き換えることができます。

さいごに

今回は二つの<たとえ>について紹介しました。

まとめると、

  • 書いた内容を補強する具体例は何だろうか?
  • 書いた内容に似た身近なイメージは何だろうか?

の二つを意識しておくということです。

これらは必ず書かなければならない、ということではありません。無理矢理に<たとえ>を使うと、読者の理解の妨げになる場合もあります。

例えば、「こうした比喩は、数学におけるフーリエ変換のようなものです」と書かれていても、あまり比喩としては機能しないでしょう。余計な比喩を使うぐらいならば、書かない方がマシということもあり得ます。

ただし、文章を書く際に上の二つを意識しておくのは重要なことです。その時うまい例が思い浮かばなくても、ちょっと考えてみた効果はきっとあります。別の情報に接したときに、「あぁ、このイメージ、説明に使えたな」と思い付くこともあります(メモ帳をすぐさま取り出しましょう)。

文章を書く際にこうしたことを意識していると、口頭での説明やプレゼン資料の作り方にもきっと影響が出てきます。説明力不足を感じている人は、ブログからでもちょっと意識を変えてみると良いかもしれません。

▼関連エントリー:

「50%ダッシュ」で先送りしない – ライフハック心理学
030 記憶の再認とATOK – ライフハック心理学
シゴタノ!すぐ手が届くところに「発火本」を置いておく
文章を書く心がけ

▼今週の一冊:

以前、佐々木正悟さんがお勧めされていたので購入した一冊。本棚の新刊コーナーに長らく並んでいましたが、つい先日読了しました。

実に面白い本です。

幻肢というものを通して、人の知覚の仕組みを解説していくという流れなのですが、その中で「自分」という感覚がいかに曖昧なものなのか、ということが明らかにされていきます。曖昧という言葉で悪ければ、変化しうると言い換えても良いでしょう。自分は自分について揺るぎない確信を持っているように感じますが、実体は結構あやふやです。

本書を読みながら、Evernoteが真の「第2の脳」となるには何が必要なのか、あるいは「自分」はどこまで拡張可能なのか、についていろいろ考えました。

書かれている内容自体も興味深いのですが、本の書き方としても非常に面白く読めるようになっています。脳や認知について興味がある人はぜひどうぞ。


▼編集後記:
倉下忠憲



ちなみに、『数学ガール』という本には、たびたび

<例示は理解の試金石>

という言葉が出てきます。とても良い言葉です。

きちんと理解できていなければ、うまく例示することはできません。他の人に教えようとして自分がたくさん学ぶ、という話をよく聞きますが、おそらくこれに関係しているのでしょう。何かをきちんと説明しようと思うと、そのイメージを自分の中で明確化しなければいけません。それが自分の理解につながるということなのだと思います。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。