そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

翻訳者「25年前に頼まれた翻訳オワタ\(^o^)/」出版社「え」



塩尻公明さんの悲劇

岩波文庫ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』(原題:"On Liberty")のあとがきに、岩波書店吉野源三郎がこんなことを書いている。

 一九三八年ごろ、三木清、栗田賢三両氏と私とで相談して、岩波文庫に収録すべき哲学関係の文献のリストを作ったことがある。ミルの『自由論』もその中に入っていた。そして、その訳者としては河合栄治郎氏が最も適任だということは、私たち三人だけでなく、当時何人も認めるところであった。

吉野源三郎「あとがき」*1 
J.S.ミル『自由論 (岩波文庫)』(塩尻公明、木村健康共訳)*2 

吉野は河合栄治郎に学んだことがあり、河合もこの依頼を受諾。しかし自由主義者であった河合が軍部と対立して、いろいろあった結果休職処分となり(平賀粛学)、さらに出版法違反で起訴され法廷闘争を繰り広げることとなるにより『自由論』の翻訳どころではなくなってしまう。けっきょく河合は戦争の終わりを見ることなく1944年に亡くなっている*3

戦後、時しばらく過ぎて1948年に、吉野源三郎の旧制一高の同級生であり、吉野とともに河合栄治郎の講義を受けたこともある哲学者・塩尻公明が、自らの翻訳した『自由論』を岩波書店から出版したいと吉野に申し込んできた。戦中からこれを訳していた塩尻は、そもそも河合との話し合いにより翻訳をはじめたということで、吉野からすれば断る理由はなく、岩波書店も正式に刊行を決定した。

……ここまでなら、師の仕事を、学問と出版の道にそれぞれ進んだ教え子が協力して果たすという、それなりにいい話であった。

ところが、ここからちょっと歯車が狂い始める。


1950年になって、いざ出版しようというところで問題があった。戦中に書かれた文語調・旧仮名遣いの塩尻訳を、時代にあわせて改稿しなければならなくなっていたのである。塩尻は問題解決を吉野に一任して身を引き、吉野は自分で原稿を修正することを決める。

 私は、その任に堪えるかどうか、不安ではあったが、塩尻君の並ならぬ信頼に接して、これを引き受けることに決めた。そして、自分の仕事のかたわら、暇を見てはこの塩尻君からの委嘱を果すことに努めたが、原書と対比しながら、塩尻君の苦心の訳稿を、その見事な特色を生かしつつ修正してゆくことは、新たに翻訳するよりも時間を要する仕事であった。仕事は遅々として進まず、私は常に、塩尻君に対して弁解の言葉に苦しむ思いを重ねていた。一九五〇年以降、私は特別に多忙の身となっていた。(略)そして歳月だけが飛ぶように過ぎていった。考えるまでもなく、本来これは不可能に近い無理であったのだが、河合先生とのこと、塩尻君の男らしい申し出を思えば、私としては、これを中途で投げ出して他の人に頼むことはできなかったのである。

雑誌『世界』の編集長であり、岩波書店から刊行される書籍全体の編集責任者であり、また岩波書店の役員でもあったという吉野が多忙を極めるのは当然である。


「他の人に頼むことはできなかった」この意地っ張りがあだになる。


そしてそれゆえこうなってしまう。

 そのようにして、漸く全体の四分の一が出来あがったまま、また中絶を余儀なくされていたとき、突然、塩尻君が講義中に仆れ急逝されたことを聞いた。一九六九年六月のことである。私は「悔を千載に残す」とはこのことかと思った。焼鏝のような熱い悔であった。

しかし「悔やんでも悔やみきれない」という気持ちは伝わってくるのだが、冷静に数字を見ると1950年から19年かかって「やっと全体の四分の一が出来たよ!」とか70歳のおじいちゃんが言ってんですよ(吉野源三郎は1899年生まれ)。それだと完成するの130歳じゃん。明らかに計画性がおかしい。


しかも、次の段落で、

 私の訳文整理は一九七〇年の夏に、やっと完了した。

と、なんの説明もなくさらっと言うのである。四分の三残っていたのに、一年たったら「やっと完了した」である。これは「やればできる子」というようなレベルではない。


だから宿題は毎日しなさいとあれほど……!


で、それはまあとにかくさておき、そうして完成した校正刷の校閲は(本来は塩尻が行うことになっていたのだが)河合栄治郎の一番弟子で、塩尻の友人でもあった木村健康が担当することになった。木村は「大学行政上の要職で多繁な公務を控えながら」も、訳文校閲を行なって適宜修正を加え、訳注を補い、1971年10月16日、ついに岩波文庫から『自由論』が刊行されるのである。木村さんは勤勉だね。


そして吉野は感慨深げに言う。

このようにして、河合先生とミルの『自由論』の翻訳を計画してから三十三年目で、本書が世に出ることになった。

「出ることになった」じゃないだろうが。

この遷延の大半の責が私にあることは上記のとおりである。

「大半」じゃなくて九割九分九厘九毛だろうが。


「焼鏝のような熱い悔」と自分を責めたというのはわかるので、あまり厳しいことは言いたくないのだが、子供のころ、はじめて『自由論』を読み終わり、このあとがきに目を通したときは、吉野のあまりの計画性のなさにとても腹がたった*4。僕も『君たちはどう生きるか (岩波文庫)』にはそれなりに感銘したくちだが、これはいかん。まったくいかん。


塩尻が出版を督促しなかったことも、吉野のていたらくぶりを助長したと言えるだろう。それもむべなるかな。なにしろ塩尻は大学教授で、別に訳業によって生計を立てているわけではない。しかも原著"On Liberty"は、中村正直によって1872年(明治5年)に『自由之理』として翻訳され、一大ベストセラーとなって以降、さらに数人によって訳されており、急いで出版しなければならない学問的要求もなかった。

職業翻訳家ではない学者の仕事とはこうしたものなのである。



だからこういう人が出てくる。

翻訳の仕事が終わってみると、この論文に関する幾つかの感想が心に浮かんで来る。この論文の翻訳を岩波書店と約束したのは、二十五年前のことである。それ以来、いつも気にかかりながら、私はなかなか仕事に着手する気持ちになれなかった。*5

おい!


(この人どういう顔で学生のレポートを受け取ってたんだろう……)




「岩波白帯を100冊調べてみた〜塩尻親雄さんの憂鬱(仮題)」に続く?

*1:以下の引用も同じ

*2:1971年10月16日 第1刷発行

*3:以下余談。河合自身の業績はほぼ忘れ去られているに等しいが、河合の後継者が立ち上げた「社会思想研究会」の出版部門が「社会思想社」である――ということが個人的にはトリビアだった。

*4:たぶん同族嫌悪だと思うが

*5:太字強調は引用者による

*6:1972年1月17日 第1刷発行