虚妄の言説

最近、こういう物言いが一段と増えてきて目に余るので、一言言っておかないわけにいかない。

東日本大震災:福島第1原発事故 崩壊した「ゼロリスク社会」神話=中川恵一
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110525dde018040043000c.html

ただし、喫煙や飲酒などは(リスクと知らない場合も多いかもしれないが)、“自ら選択する”リスクといえる。一方、原発事故に伴う放射線被ばくは、自分の意志とは関係ない“降ってわいた”リスク。放射線被ばくは自分では避けられないという意味で、受動喫煙に近いタイプのリスクといえるだろう。


今回の原発事故によってあからさまになった、原発という存在そのものが体現している悪の本質は何かというと、それは権力の問題であり、差別や搾取によって成り立っている我々の社会と生活、ということである。
社会の中で弱い立場にある人たち、地方に住んでいる人たちとか、原発の現場で危険な労働に従事せざるをえない特に非正規の労働者とか、被ばくすると高いリスクを負わざるをえない子どもたちとか、情報に触れることの出来ない外国人とか、行政サービスから排除されやすい日本国籍非所有者とか、避難することが困難な高齢者や障害者、妊娠してる人や重い病気の人とか、端的に貧しい人とか居住する家屋を持たないから放射能を防ぎようもない人とか、ともかくそういう人たちにリスクや危険を押し付けることによって、そうではない人たち、相対的に強い立場にある人間たちが豊かで快適な生活、また安全や安心を(主観的にすぎなくとも)享受しているような社会のあり方、その暴力性が、今回の事故を通して白日のもとにさらされ、より多くの人々に襲いかかっている。それが、今の状況である。


だから原発の問題は、権力を多く持つ者が、より少なく持つ者を支配し、搾取するような社会のあり方の問題なのだ。
もちろん、石油にしても石炭にしても、そもそも産業資本主義社会というものは、すべからくそういう構造の上に成り立ってると言えるのだが、原子力発電というものは、権力が人々の生の様式を否応なく決めてしまう、我々の社会の暴力性を極限にまで推し進めたものだといえる*1


したがって「原発のリスク」を語る場合、それが権力の論理によって、強い力を持つ者から弱い力を持つ者へと押し付けられるリスクであるという事こそ、重要なのだ。
上に引用した文の例で言えば、野宿者のおじいさんが一日の終わりにふかしたタバコの煙が、私のような相対的に裕福で健康な、日本人成人男性の肺に僅かに吸い込まれて、肺がんのリスクが上がったか上がらなかったか、というような話とは違うのである。
むしろ原発原発事故の暴力性は、東大付属病院の准教授という地位にある者が、専門家として大新聞に放射能汚染の無害を人々に洗脳するような文章を載せて、将来ガンで死んでいく人たちの数を大幅に増加させることに加担する行為と同質の暴力性である。
つまりそれは決して「降ってわいた」ものではなく、権力の不当な不均衡と、それを維持したいと願う連中の邪悪な欲望によって、数知れぬ無名の人たちに押し付けられる「リスク」であり、暴力なのだ。


原子力発電をやめると電力不足や経済の悪化によって多くの弱者が死ぬ」というような口実を用いて、こうした不当な権力の構造の温存を画策しようとする人たちが居る。
だが我々がするべきことは、どれほど数が少なくても弱い立場の人たちの生命が、強い立場の人たちの生命や生活を守るために犠牲にされているような社会のあり方を、必ず変えていくということである。
なぜなら、この犠牲の論理が正当なものとされている限り、実際にはほぼ全ての人間が、権力の構造を維持するための「犠牲」として、その生命と生活を搾取され、最終的には奪われることになるからだ。
こうした不当な社会のあり方の継続こそが、間違いなく最大の「犠牲」を発生させるのである。

*1:その意味では、「自然エネルギーへの転換」だけで、この暴力性の本質から我々が逃れられるわけではないだろうことは、あらためて言っておきたい。