尖閣問題:多様化する中国の意見 | Observing China

尖閣問題:多様化する中国の意見

尖閣問題がどんどんややこしくなっている。日中双方がヒートアップしているように少なくとも日本からは見えるが、それは本当なのだろうか。

先日、中文サイトを渡り歩いていて、「釣魚島は愛国の試金石ではない」という記事に出会った。どうやら元は経済観察報の記事らしいが、「敵に当たるときには国内の意見が一致していなければならない、という教育を受けてきたが、これには弊害もある」「日本製品をボイコットせよという人がいるが、ソニー製品の98%は中国で作られている。ボイコットは愚かなことではないか」(人民日報海外版に載った呉建民・前フランス大使の言葉)「韓寒とその支持者は本当に『非愛国』なのかどうかは、たったひとことをもって判断すべきでない」と、まともな議論が展開されている。日本で広がっている「大使館前で抗議!」というイメージとはかなり違う。

で、「韓寒とその支持者」の意見とは何なのか。レーサー兼作家で「80後」を代表する存在である韓寒の9月13日のブログに次の文章が残されている。

「違法な言葉」を守れ
韓寒 9月13日

以前「なぜ釣魚島事件について意見を公表しないのか、日本を糾弾しろよ」と聞いてきた友達に、私はこう答えた。「自分の土地ももっていないけど、領土問題には関心がある」。かなり早い時期、私はこの問題に関するある掲示板にかなり張り切って「釣魚島を守れ」と書いたことがある。するとこの掲示板は私が非合法な内容について発表しようとしている、修正して欲しいと連絡してきた。どう考えても理解できなかったので、スレッドを「尖閣諸島を守れ」を書き換えた。なぜかこれが合法だった。

一大事というだけあって、外交部は週末も休日出勤して過去に例のない糾弾を続けている。もしすべての中国人の生活がうまく行っていて、妻も子供も家も車も仕事も休みも健康も医療もちゃんとしていて、かつ暇をもてあましているなら、「脳ある鷹は爪を隠す」の反対ではあるが、民族的な熱情の赴くままに釣魚島問題を追及すればいい。だがもし自分の周りにちゃんとできないことがあるのなら、まず自分のことをやるべきだ。「前衛」を気取る必要などない。

「大事の前に個人の小事など何の意味がある」と言うかもしれない。そのとおり。でも個人によって「大事」って違うんじゃないか。この種の問題について、私はまず政府の対応を見守るべきだと思う。一個人は指導者の前を走るべきじゃない。指導者が糾弾の意思を表明するのは、国民に糾弾してもいいよという意味である。指導者が遺憾の意を表面するということは、国民に糾弾をやめよ、という意思表示だ。指導者が糾弾の意思を表明しているときに国民が「行動」したら――それは指導者の限界を超えている。彼らはきっと国民を罰するだろう。国家の指導者は巨大な将棋を指しているようなもの。国民は駒の1つに過ぎない。それがどうして盤の外に飛び出すことができるだろうか。(以下の2文翻訳不能)

釣魚島の問題について、われわれの政府が重視しているのは国内の安定であり、地下の石油についてはどうでもいいと考えている――私はそう思う。石油が必要なのは日本人であり、だからこそ彼らは70年代になって釣魚島に新たに色気を起こした。中国政府は安定を求めているだけで外交や軍事上の未知のリスクを欲してはおらず、それゆえもともと複雑でもない問題が複雑になってしまっている。

わが国の国土において、国家間の争いや局地紛争を起こしかねない釣魚島と似たような場所はそれほど多くはない。なのに、そのせいで不満があるとすぐ大騒ぎする国、というふうに中国の印象は変わってしまった。大衆や世論が問題の隅々まで了解しているはずもなく、政府はもし譲歩したければいつでも譲歩できるし、場合によっては不動産業者に売ることだって不可能なことではないのに。釣魚島の注目度が高いのは、とりわけ指導者が釣魚台迎賓館で外国の賓客を接待するから。もし釣魚島が他人のものになってしまったら、メンツがなくなる。だからこそ釣魚島は政府の領土問題の要であり、ボトムラインなのだ。きっとこの点は他人に譲れないのだと思う。

中国政府にとって一番いい解決方法は先延ばしである。海底の地盤がまた動いて釣魚島が福建省にくっつけば、コトは省ける。領海権や石油のことはその後でいい。だから私は釣魚島が事実上、日本人に占拠されていても心配していない。

今回の事件は、日本が船長を10日勾留し、われわれの強い糾弾と抗議が9日間続いたあと日本が船長を釈放し、われわれも抗議をやめる――というのが一番いい落とし所だ。英雄気取りのヒマ人があれこれ言っても大した邪魔にはならない。ただ深入りさせず、自分たちの生活に影響を与えさせず、自分がやるべきことをしっかりさせればいいだけ。自分たちほど指導者は盛り上がっていなかったと思わせてはならないのと同時に、自分たちがわが民族の「先鋒」であり、わが民族はもっと「先」に進まねばならない、とも思わせるべきではない。


前半のパラグラフと後半のパラグラフでやや論調のトーンが変わってしまう感はあるし、中国政府の姿勢に近く目新しいところもそれほど多くない。ただ9月19日に日本が船長の勾留を延長する前の13日の時点で「今回の事件は、日本が船長を10日勾留し、われわれの強い糾弾と抗議が9日間続いたあと日本が船長を釈放し、われわれも抗議をやめる――というのが一番いい落とし所だ」と予言していたのは、注目に値するだろう。

ところで、尖閣問題に関する韓寒のブログには、9月18日バージョンもある、という説がある。新浪のブログからは削除されているので真偽は確かでないのだが、タイトルは「主人、奴隷そして犬」。

「自分の土地ももたない者が他人のために土地を争い、自らに尊厳をもたない者が他人の尊厳のために戦おうとする――こういう人間は1斤いくらなのだろう? あるいは1斤で何人が買えるだろう?(注:つまり何の価値もないということ)」

「国内の問題についてデモも行えない民族が、外国に向かってデモをしても何の価値もない。ただのマスゲームに過ぎない」

と、より刺激的な言葉を連ねている。これが本当に韓寒のものかどうかは定かではない。ただ一昔前の中国では、こんな多様な意見が大衆の目にさらされるなどとは考えられなかった。今の中国は日本人が思っているほど単純ではない。日本や日本人の方がずっと単純だ。中国のこの複雑さを理解しない限り、日本はこの問題を解決できない気がする。