ペトロニウス『サテュリコン』に関するノート


 いわゆる「近代小説」が語られるとなると、たいていその出発点はサミュエル・リチャードソンやセルバンテスからとなる。それ以前の文学作品はその多くが書簡形式であったり、吟遊詩人によって語られるロマンスに代表される騎士道文学や牧人文学という形をとっていた。しかし、西洋文学の根本を探っていくと、小説の古代的段階において、「古代ギリシア時代の小説」が慣例として考察される。
 ギリシア小説の特徴として挙げられるのが、「恋愛」のモチーフであり、その物語のパターンとしては、以下のようなものが挙げられる。


(1) 主人公は美貌の男女で、夫婦もしくは恋仲にあるが、
(2) 二人はなかなか結ばれず、
(3) 二人を引き裂こうとする人物・事件が登場・勃発するが、
(4) 女性は貞操を守りぬき、
(5) 二人はハッピー・エンドを迎える。


 しかしそこに到るまでに、主人公は様々な苦難に襲われ、それを見守る読者ともども波乱万丈の世界に誘われることになる。
 言うまでもなく、このような物語モチーフはホメロスの『オデュッセイア』に代表される叙事詩文学に顕著な、いわば類型的ともいえる物語構造を孕んでいる。


 本ノートで考察するペトロニウスの『サテュリコン』(SATYRICON)はアプレイウスの『黄金のロバ(変身物語)』と並び賞されるローマ小説の嚆矢である。
 ローマ文化が非征服民であるところのギリシア人の文化から多大な影響を受けたのは周知の事実であるが、この『サテュリコン』もまた、こうした『イリアス』、『オデュッセイア』に代表されるギリシア叙事詩や、ウェルギリウス『アエネイス』に範をとったと思われる箇所がいくつも見受けられる。


 そもそも、『サテュリコン』自体が、前述したギリシアの恋愛小説のパロディとして成り立っているのである。例えば、89章にてエウモルポスが絵画の意味を詩で説明する個所がある。この詩は、明らかに『アエネイス』2巻前半の詩句を模倣している。
 また、101章のエウモルポスの台詞、「わしらはキュクロプスの洞窟に入ったと想定するのだ。なんとかして脱出の方法を見つけなければなるまい」は、『オデュッセイア』の挿話をモチーフにしている。
 このような個所は『サテュリコン』の本文中にいくつも見られる。


 また、両性愛者の青年エンコルピウスが、プリアボス神の怒りに触れて、美少年ギトンとともに無頼と放蕩を繰り返すといった物語構造そのものも、前述したギリシア小説のパロディとなっているのである。その他の登場人物もみな、快楽を求めてさまよう娼婦とか半狂乱の詩人といった、一筋縄ではいきそうにない連中ばかりである。そして最後にはカニバリズムすら示唆される。『サテュリコン』は、まさしく古代ローマの「悪の華」と賞されるにふさわしい、実に不道徳な作品なのである。


 こうした『サテュリコン』を特徴づける種々の要素は、明らかに風刺を意図としたものであり、作品中にもそのような精神に満ちている。冒頭からして、それまでの修辞学校での教育を「若者を無類の馬鹿者にしている」と切って捨ててしまうのである。
 

 以上、少し例をあげただけでもわかるように、『サテュリコン』は当時の不道徳さを克明に描き切り(当時の口語や食文化を知るための資料となるほどである)、それによって社会そのものを相対的に戯画化したことによって(作者が意図していたがどうかはともかく)、テクストの多くが散逸してしまっているにもかかわらず文学的な価値を有してきた。
 しかし、何よりも特徴的なのは、『サテュリコン』の詩句が、ホラティウス以降の詩文文学形式にのっとって書かれたものである、という事実である。132章を見てみよう。

 三度、ぼくらはおっかなびっくり両刃の斧を手につかむ
 三度、ぼくらはたちまち刃物におびえ玉菜の茎よりもへなへなとなる。
 手がふるえ、じょうずに刃物が使えなくて。
 さっきまでやりとげたいと願っていたことがもうだめになった。
 あいつが臆病で凍てつく冬よりも冷たくなり、
 千もの皺にくるまって潤けた肉へと縮こまったから。
 そこであいつを処罰しようとしても、頭を公開できなかった。
 曲者の致命的な怯けにくわだての裏をかかれると、今度は
 あいつをこっぴどくやっつけるため言葉に訴えた。


 この詩句は、プリアポス神の祟りによって、ギトンと同衾したのにもかかわらず性的不能になってしまったことを嘆いて、エンコルピウスが歌ったものである。このような内容にもかかわらず、その形式は抒情詩のそれをきちんと踏まえている。同じ章の詩句をもう一つ見てみることにする。

 あいつは視線をじっと地面に釘付けにしたまま
 そっぽを向いていた。話を始めても顔すら動かさない。
 だらりと垂れた柳の枝ほどにも、物憂い茎の先の罌粟の花ほどにも。


 こちらの内容は先のものに等しいが、形式としては長短短歩6歩格が用いられている。ほかにもエレゲイア風二行連句の様式を踏まえたものもある。
 こうした形式を整えることによって風刺の度合いが増すことは言うまでもない。しかし、ペトロニウスはこうした詩句の様式を踏まえることで、二重の意味での風刺を企図しているのである。


 それまでのギリシアにはプラティナスに始まる「サテュロス劇」(SATYRIKON)の伝統があった。「サテュロス劇」とは悲劇の様式をとりつつも、神話・英雄伝説の卑猥な要素を喜劇として取り上げたものである。そして、重要な点として、それは終始神話・英雄伝説の世界にとどまる。喜劇の特徴である、政治批判、人身攻撃、民衆の生活の反映などは見られない。


 もともと「サテュロス劇」の「サテュロス」とは、山野に住む半人半馬(もしくは羊)の好色な妖精のことを指す。「サテュロス劇」に登場するサテュロスは、ディオニュソスに従うコロスとして、その役割を果たす。
 ホラティウスの『詩論』には、サテュロス劇についての項目があり、こう記されている。

人を嘲笑し皮肉の矢を放つサテュロスの人気を高め、厳粛なものを滑稽なものに変えるにはには、適切なやり方がある。━登場する神や英雄は、さっきまで王たるにふさわしい黄金と紅紫の衣の姿をみせていたものが、みすぼらしい小屋に住んで卑しい言葉を使ったり、あるいは地面を避けようとして雲と虚空を掴んだりしないこと。悲劇は、たわいもない詩行を繰り出すことをいさぎよしとせず、あたかも祭日に踊りを命じられた貴婦人のように、少し恥じらいの色を見せながら厚顔無恥サテュロスの群れに加わるのである。」

 対して、『サテュリコン』には具体的な形の神は登場しない。プリアポス神は『オデュッセイア』におけるポセイドンのように、直接物語に登場してエンコルピウスに罰を加えるわけではない。「英雄」という観点から見ても、エンコルピウスやそれに付き添うギトンやアスキュルトス、エンコルピウスらの行動は、まさに「みすぼらしい小屋に住んで卑しい言葉を使う」ようなものである。ホラティウスが提唱したものとはまるで正反対である。
 このように、『サテュリコン』は「サテュロス劇」のパロディでもあったのだ。

 
 ここで視点を変えて、叙事詩の物語構造を見てみよう。ミハイル・バフチンによれば、叙事詩は、三つの本質的な特徴を持っている。以下列挙すると、


(1)叙事詩の主題は、国家の叙事詩的過去、ゲーテやシラーの用語に従えば<絶対的過去>である。
(2)叙事詩の源泉は国民的伝統である。(個人的体験や、それをもとに伸び育っていく自由な空想的産物ではない。
(3)叙事詩の世界は、絶対的な叙事詩的距離によって、現代性、つまり歌い手(作者およびその聴衆)の時代から分離されている。


 このような「絶対的な完結性、孤立性」が、叙事詩叙事詩たらしめている。換言するならば、叙事詩を小説とは異なった文学ジャンルたらしめているのである。対して、彼は小説の基本的な特質をも述べている。それは、


(1)小説の文体的三次元性。これは小説の中に現実化されている多言語的意識と結びついている。
(2)小説中の文学的イメージの時間的座標の根本的転換。
(3)小説中の文学的イメージの構成の新しい領域、つまり、完結していない形での現在(同時代)との積極的に接触する領域。


 となる。バフチンによれば、これらはいずれも互いに有機的に結び付けられており、それらはいずれも、ヨーロッパ人の歴史の中の明確な転機によって条件付けられている。この転機は、各国民間、諸言語間のつながりや関係が生まれるにいたって、ヨーロッパ人が言語、文化、そして「時」の多様性を知ることとなったのがきっかけとなって訪れた。


 四方田犬彦の言葉を借りれば、バフチンは「叙事詩の世界は自己完結的であり、登場人物はある一方向から描かれるばかりで、イデオロギー的自律性を欠落させているといって批判して」しており、対照的に、「小説は始まりも終わりも定かでない流動的な世界に生起する事象を多元的な視座からとらえ、硬直し生気を喪失した世界に笑いと嘲罵からなる新しい活性化の契機を与えてくれると賞賛して」いるという。
 このように、バフチン叙事詩の発展の先に小説がある、といった進歩史観を有している。


 また、バフチンは『サテュリコン』そのものにも言及しており、それによれば、「その小説史における役割は巨大であるが、学問の立場から十分な評価を受けるという状態からはまだほど遠い。これらの真面目・滑稽ジャンルは、生成しつつあるジャンルとしての小説の発展の真の最初の本質的な段階」と定義している。
 バフチンは『サテュリコン』を古代ギリシア・ローマの哲学的対話や戯作文学、あるいは詩と散文の混交といった、定義しがたい文学作品の類を、「メニッポス的風刺」と呼んでいる。そして、「リアリスティックに反映する広大な一幅の絵にメニッポス的風刺が拡大して行くさまをよく示しているのが、ペトロニウスの『サテュリコン』」だとしているのである。
 つまりバフチンは、『サテュリコン』を叙事詩と文学の橋渡し的な作品であると認識しているのだ。


 しかし、このようなバフチンの解釈は正しいのであろうか。四方田によれば、バフチンフリードリヒ・シュレーゲルの影響を受けて、すべてのロマン(長編小説)を、それ自体が独自のジャンルであると規定している。


 バフチンはその論文『ゲーテ教養小説』の中で、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に代表される「教養小説」と、古典古代の自然主義からダニエル・デフォーの冒険的ピカレスク小説にまで至る「遍歴小説」との差異を明らかにしている。
 それによれば、「遍歴小説」では、「小説の全編を通じて人間は自己同一的なまま(変化しないまま)であって、数々の出来事が形成してゆくのは、人間ではなくて彼の運命(たとえ創造的なものにせよ)」である。対する「生=運命の形成が人間の形成と融合」し、その人間の形成は「歴史的形成と不可分に結びついている」としている。つまり、バフチンの言を借りると、「教養小説」は「口承文芸の民衆的・歴史的時間における成長してゆく人間の形象を構築しようとする偉大な試み」なのである。


 それならば、「叙事詩」や「メニッポス的風刺」は、「小説」よりも劣ったものなのであろうか。論者の考えは否である。「叙事詩」は「叙事詩」の、「メニッポス的風刺は「メニッポス的風刺」ならではの文学的価値があるはずである。それは文学史上におけるパイオニア的な役割を果たしたという敷石的な役目だけでなく、作品独自の芸術性によって、現在でもなおその輝きを失っていないのだと思うのだ。


 論者が考えるに、「叙事詩」の特性は、「完成されている故の美しさ」である。『エッダ』、『グレンディルのサガ』などの北欧の叙事詩、前述したギリシア叙事詩、果てはインドの『マハーバーラタ』に至るまで、叙事詩にはその時代の精神すべてが、たとえ「小説」ならば未完ともみなされるような構造の中であろうと、完璧なまでに盛り込まれており、それを省みることで我々は民族の、ひいては人間全体の根源に根ざす精神を見ることができるのである。
 ワーグナーの歌劇やトールキンの作品に根ざしている叙事詩的な構造は今でも我々を捉えて話さないし、視点を広げて考えれば、叙事詩的な構造をもった物語は、それこそ現在の大衆消費社会において数限りなく存在している。


 また、ギリシア小説においても、ラヴェルによって組曲化された『ダフニスとクロエー』のように、いまだに現代人の心をゆさぶる作品作品は数多い。同様のことは『サテュリコン』にもあてはまる。(必ずしも原点に忠実ではないものの)フェデリコ・フェリーニによって映画化されたことからもそれはうかがえる。
 次の誌句を見てみよう。

 ニュンペたちとバッコスの供よ。麗しきディオネから
 豊穣な森をまかされた神よ。有名なレスボス島と緑なす
 タソス島が服従し、七つの川の流れるリュディアの住人が崇め、
 あなた自身の町ヒュバイバに神殿を建てた神よ、
 おお、バッコスの護衛者にして木の精ドリュアスの喜びよ。
 ここに来てわが臆病な祈りを聞きたまえ。ぼくは忌まわしき血に塗れて
 ここに来てはいません。不敬な敵としてあなたの神殿に
 右手を近づけたことはありません。窮乏し命の糧を欠き、
 疲労困憊のすえ罪を犯しましたが、全身においてではありません。
 貧苦から満ちを踏み誤った者はみな、その罪は軽いのです。
 お願いです。どうか心の重荷を軽くしたまえ。ささやかな
 咎を許したまえ。幸運の季節が僕に微笑みかけた暁には、
 きっとあなたの栄誉を拝みたてまつることでしょう。
 わが神よ、家畜の父たる見事な角の牝山羊があなたの祭壇に
 歩いていきましょう。乳離れしていない小豚もぶーぶーと
 鳴きながらあなたの祭壇に行くことでしょう。
 今年の新酒が神前の酒盃の中で泡をたてることでしょう。
 ほろ酔いかげんの若者があなたを言祝ぎながら
 三度神殿を歩きめぐることでしょう。


 これは133章で描かれる、プリアポス神に向かって性的能力の回復を祈念するエンコルピウスの詩句である。日本語でさえ、この詩句の比喩の美しさは備えている。この場面に限らず、『サテュリコン』には全体に流れる残虐美のような退廃的な美しさのほかにも、こうした純粋に美的な要素も含まれている。
 また、たとえテクストが散逸してしまって全貌が見えないにもかかわらず、作品として成立しうるだけの文学的価値があると思われる。


 たしかに「メニッポス的風刺」の諸作品の中には、歴史的資料としての価値を除いては省みるに値しない駄作も多かったであろう。しかし、『サテュリコン』のように、他のジャンルにおいてはなしえない、「メニッポス的風刺」ゆえに持ちうるような多様な文学的価値を有する作品もまた、広い世界には存在したのだ。

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)