漢字にも方言のような地域による違いがあると聞きました。具体的にどのようなものがあるでしょうか。
地域性を帯びた文字を方言文字あるいは地域文字、それが漢字であれば方言漢字とも呼びます。中国は国土が広く、方言差も激しいため、古くから各地で方言漢字が作られ、用いられてきました。
日本列島では、北海道から沖縄まで各地に存在しています。奈良時代以前より、金石文、木簡、文書や書籍では使用漢字に地域による変異が現れ、とくに近世以降、文芸や固有名詞の表記などに多数出現します。
近世から言及がなされ始め、近代以降は柳田国男、永野賢、柴田武、見坊豪紀、鏡味明克ほかがそれぞれの立場から概念と実例を提示してきました。
字(字種)としては、東北の「萢」(やち)「轌」(そり)、関東の「圷」(あくつ)、京都の「椥」(なぎ)、中国地方の「嵶」「垰」「乢」(たお、たわ、とう)、九州の「椨」(たぶ 旁が符、鹿、虫などの異体字もある)などが挙げられます。「閖上」など宮城の地名に使われる「閖」(ゆり)は、江戸時代の藩主による造字という伝承に対し、大水・水害という字義・用法がより古くにあったことが指摘できます。国字、国訓の一種に分類され、造字の方法は、六書で言うと会意文字が多いのですが、対馬の「𨺉」(さい)のように形声文字も見られます。
名古屋の「杁中」(いりなか)のように駅名では当用漢字表にないからといって仮名表記にされたケースがあります。また、岡山の「穝」(さい)のようにJIS第2水準に採用されそこなった結果、誤植されることが増えたケースのほか、違う地名に変更されたケースもあります。
中世以降の合字「袰」(ほろ・いや)は、「褜」(えな・いや)とともに東北と九州で地名や姓・人名に残り、周圏分布を呈します。九州では「やん」という語形が訓読みとなっているケースもあります。とくに人名に用いられる場合は、新生児に絡まるなどした胎盤による命名です。袈裟(けさ)と呼ぶ地域もあったため、袈裟の異名「福田衣」からと考えられる合字「畩」(けさ)を人名に当てるケースも薩摩で江戸時代から見られ、地名や姓にも用いられています。
隅田川を指す「濹」(ボク)は、近世の漢学者の造字ですが、永井荷風が書名に用いたことで全国的に認知されるに至ります。頼山陽は淀川に「氵奠(1字)」という字を作りました(個人文字であり、地域文字でもあります)。現代でも、日本に暮らす中国人の和平氏が神田川を「氵神(1字)」で表すような例が生まれています。
漢字の「隈」は大隈のように地名や姓で九州に多く、「辻」は地名や姓のほか、今なお普通名詞として近畿では根強く使われています。人名(下の名前)では神奈川や奈良で県名から取って「奈」を用いるケースが多いのです。
固有名詞以外では、エスカレーターなどに見られる「非常停止ボタン」の表示に用いられている「釦」(ボタン)は、近畿地方では使用がまれとなりました。漢字で64画もある「𪚥」(龍が四つ)は、和歌山の旧・龍神村(現・田辺市龍神村)辺りの俚言である「てち」(すごい、勢いがよいという意味)に当てるようになっています。
字体の差も、地名や姓に残っています。東北町の「𠏹(ほとけ)」、函館の「函(1、2画目が了)」、九州などの「卅」(三十ではなく州)、鹿児島などの「薗」などがそれに当たります。「潟」の略字「泻」「潟(臼の部分が旧)」は新潟、秋田の大潟、松江の白潟などに使用習慣がありますが、常用漢字表の影響もあって「共通字化」が進んでいます。
「軽」の略字「圣」は熊本の駐車場に多いのです。「葛(勹の中がL人・Lメ・ヒなど)」や「麴・麹」にも、字体上の地域による使用傾向が現れやすいです。これら各地の文字は、研究書や論文のほか、新聞、雑誌、テレビ番組やインターネット上などでも写真とともに紹介されることがあります。
路面に書かれる「止まれ」は、基準があるのですが県ごとに形などについての規定が異なっているために、字形レベルで種々の地域差が見られます。また、県単位の書写教育や県民性と字形に関連があるとされることもあります。
用法では、北海道のアイヌ語地名に対する「沼」(トウ)、「幌」(ほろ、コウ)、秋田の「牛(べこ)坂」のような地域音訓があります。「谷」は地名や姓で「や」「たに」の東西対立が顕著です。姓という限定を付ければ、「藤」は西日本では「ふじ」、東日本では「トウ」として使われることが多いのです。名古屋では「鯱」(国字だが音読みコ)、沖縄では「城」(ぐすく)「美(ちゅ)ら」「海人(うみんちゅ)」などの使用が見られます。
ほかにも、「茸」は各地で「なば」「たけ」「こけ」「きのこ」などの訓読みで用いられます。「鮴」は「ごり」「めばる」、「凧」は「たこ」「いか」「はた」、「鮭」は「さけ」「しゃけ」のように地域によって読みが変わることがあります。「家」を「うち」、「蕪」を「かぶら」、「掃く」を「はわく」と読む地域もあります。「一昨日」の「おととい・おとつい」という熟字訓にも地域差が見られます。「蛙」と表記された俚言・訛語は各地の方言文学、方言詩などに振り仮名となって表れます。
表記法では、スシは東京に優勢な「鮨」に対し、「鮓」が近畿に集中します。ハケは東日本の地名に化石のようになって残り、「峡」のほか「𡋽」「山爪(1字)」などの造字が当てられました。バッケ、西日本ではホキといった語形もあり、種々の表記が姓や地名に見られます。姓では、「坂本」は近畿で「阪本」、九州で「坂元」が優勢です。「羽咋市」という地名のある石川県民に「咋日」、奈良県民に「畿何学」と書く例があるなど、誤記にも地元での使用漢字の影響がうかがえます。大分では漢語副詞「だいぶ」が県名と衝突するため、仮名表記とされる傾向が強いです。
なお、漢字以外では、地域独自の音節に対して半濁点を加えるなど改造した仮名やローマ字も、気仙、宮古島などで使用が見られ、その地で独自に作られ用いられた文字も与那国島などに見られます。