『機動戦艦ナデシコ』角川スニーカー文庫)解説 1998.7.1作成




     解   説
大森 望  



 うーん、ユリカ派のオレとしてはルリルリ萌えな人たちとは一線を画してるつもりだったんだけどなあ。やっぱ星野ルリ一人称はダメでしょう。ゲラ読んでるあいだじゅう、南央美嬢に耳もとで囁かれてる感覚で、ついビデオひっぱりだして頭から見ちゃったり。
 われながら、こう簡単にボタン押されてていいのかと思いますが、ま、リチャード・ドーキンスも言うとおり、人間なんて遺伝子に支配されてる機械ですからね。星野ルリに反応する回路が、遺伝子の生存のためどう役立っているのかは定かでないが(むしろ有害な気がする……)、きっと深い意味があるにちがいない。

 それにしにても、人はなぜかくも「ナデシコ」に魅せられるのか。
 単純に、作画や演出のクォリティが高いという理由ももちろん大きいし、すべての登場人物(とくに女性)のキャラクターが立ちまくってることもあるんだけど、「ナデシコ」はTVアニメ三十年の遺産の最高にエレガントなリミックスだったんじゃないかと思う。
「新世紀エヴァンゲリオン」がTVアニメ論を展開しながら、最後にTVアニメの枠を突き抜けてしまったのとは対照的に、「ナデシコ」はあくまでもTVアニメの枠の中でTVアニメ文化を見つめる。細部まで計算された結末を持ってくることで、エヴァという嵐が去ったあとのTVアニメに、もてなしのいい日常を回復したのが「ナデシコ」だったというか。
 エヴァがそうであるように、「ナデシコ」もすぐれて自己言及的なアニメだが、ここではその自己言及性すべてがギャグとして対象化されている。その意味では、むしろ「トップをねらえ!」に近いかもしれない。ただし「ナデシコ」では、その手法がさらに徹底されている。

 TVアニメの「お約束」を縦横無尽に引用することで、「ナデシコ」は「お約束」の意味をあらためて問い直す。七〇年代アニメの熱血に、八〇年代アニメ的――というか、はっきりいえば「ガンダム」的な――相対主義をぶつけてみせること。単純な正義に対する盲信を抱くキャラクターと、正義や悪は立場によって変わる相対的なものでしかないという諦観を抱くキャラクターを対置させる構図自体は、たぶんそれほど珍しくないにしても、TVアニメを使ってそれを描くところにナデシコのナデシコたるゆえんがある。ゲッター・ロボ思想対ガンダム思想。クライマックスの対決で、アカツキ・ナガレはこう言い放つ。
「どんな人間にも立場があるように、それぞれの正義を持ってるものさ。だから、戦争も起こる。ちなみに僕の好きだったアニメには、敵にも味方にも正義があった。もっといろんなアニメを見るべきだったね、テンカワくん」
 じっさい、アニメ的な構図に疑問を呈する場合、おたく文化の外側にあるものを参照するケースが多いのだが、「ナデシコ」は、「人生で必要なものはすべてアニメで学んだ」立場を積極的に肯定しようとしているようにも見える。幅広い視野を持つために必要なのは、「アニメばっかり見てないで人生経験を積むこと」ではなく、「もっといろんなアニメを見ること」なのである。
 この種のおたく的な戯れは、ゲキガ・オンリーイベントや「あしたの艦長はきみだ」コンテストではてしなく暴走する。おたくのおたくによるおたくのためのアニメ。しかし、大多数の「大きいお友だち」は、キャラ萌えする自分を相対化する醒めた視点を持っているものだし、「ナデシコ」にもまた、みずからのおたく性を一歩引いて見つめる目がある。その役割を与えられたのがほかならぬホシノ・ルリだったわけで、だからこの小説版でも、彼女はアニメを「マンガ」と呼びつづけ、ゲキ・ガンガーに対して「どっちかっていうと、気持ち悪い、かな」と冷静な感想を述べる。その「気持ち悪い」に、「THE END OF EVANGELION」のエコーを無理やり聞きとってしまうタイプのアニメおたくの存在まで含めて、「ナデシコ」はTVアニメ文化を対象化している。

 あらゆるジャンルがそうであるように、日本のTVアニメは、TVアニメの伝統と切り離しては成立しない。
 ベルリン映画祭で「もののけ姫」を上映した宮崎駿は、外国人記者のインタビューで、「どうしてあなたの映画のキャラクターはあんなに目が大きいんですか?」という質問を受けている。アシタカヒコやサンの目がとくに大きいと思う日本人は少ないだろうが(「アキハバラ電脳組」とか「スレイヤーズ」とかを見せてやりたい)、それでもやはり、はじめて日本の商業アニメを見た人間に違和感を抱かせる程度には、宮崎アニメも日本製アニメの作画法にしがっている。
 これが「宇宙を舞台にしたロボットアニメ」となれば、さらに定型化される。視聴者は当然、過去の無数のロボットアニメを基盤に、作品を見ることになる。製作サイドは、あらゆる「お約束」を意識しながら、無数のパターンを組み替え、ひねり、ときには逸脱しながら作品をつくってゆくわけだが、それがTVアニメである以上、TVアニメの文脈から完全に自由になることは不可能に近い。「ナデシコ」は、この構造から逃れようとするかわり、徹底的にそれを意識化する道を選択した。
 ふつうのロボットアニメは、その世界にかつてロボットアニメが存在しなかったかのようにつくられている。極度に定型化されたジャンルである本格ミステリとくらべてみれば、その不自然さは明らかだろう。
 現代を舞台にした本格ミステリで密室殺人事件が起きれば、登場人物は過去の本格ミステリの密室殺人に言及する。綾辻行人以降のいわゆる新本格ミステリでは、こういう自己言及性そのものが定型化された観もあるくらいで、それを考えれば、「アニメに出てくるようなロボット」が登場するアニメなら、過去のアニメに言及することはむしろ当然なのである。
 登場人物のひとりが声優だという「アニメの存在する世界」を舞台にした「ナデシコ」では、作中アニメとして「ゲキ・ガンガー」を導入することで、「アニメみたいな設定」のお約束に対する自己言及を、それ自体ひとつのエンターテインメントにしてみせる。
 アニメ版「こどものおもちゃ」などでも、それに近い手法はコミックリリーフ的なギャグとして一部使われているわけだが、「ナデシコ」の場合、ゲキガの内容と本篇の内容が微妙にシンクロし、さらには作品自体のテーマと密接に関係してその存在がどんどんクローズアップされてくる。
 総集篇的な性格を持つ14話では、「ゲキガの登場人物たちがアニメのナデシコを見ている」という驚くべき転倒まで平然と採用されている。竹本健治の『ウロボロスの偽書』をTVで再現したようなメタアニメぶりには茫然とするしかない。どちらがどちらを見ているのか決定できない以上、もしかしたら「ナデシコ」の物語すべては、アカラ様が地球人の研究資料として見ているアニメの中の出来事かもしれないのである。
 こうした劇中劇の仕掛けは、視聴者に、自分がアニメを見ているのだという事実を強く意識させる効果を持つ。
「機動戦艦ナデシコ」というタイトルそれ自体が、「機動戦士ガンダム」と「宇宙戦艦ヤマト」への言及を暗黙裡にはらんでいるうえに、作中で七〇年代熱血ロボットアニメや魔法少女アニメが上映され、その同人誌までつくられてしまう。声優ネタあり、フィギュアあり、イベントありのおたく全方位外交ぶり。
 その意味ではTVアニメ文化に関する教養を要求する作品なのだが、では過去の無数のTVアニメを見ていなければ「ナデシコ」を理解できないかといえばもちろんそうではない。
 たとえば新本格ミステリが、黄金時代の本格ミステリを知らない読者層にも熱烈に支持されて、綾辻行人や有栖川有栖を経由してクイーンやカーを読む少年少女を生み出したように、「ナデシコ」はゲッター・ロボや鋼鉄ジーグを知らない層にも響くようにつくられている。
 オブジェクトレベル(物語のレベル)では快感原則にしたがって過剰なラブコメで視聴者を刺激し、メタレベルではTVアニメ論を語る。この二重性が「ナデシコ」核心だろう。
 たとえば登場人物の内面を語る第21話「いつか走った『草原』」では、謎の九人麻雀(?)が舞台として用意される。押井守ばりの(あるいは「エヴァ」の電車のシーンを彷彿とさせる)実験アニメ的な描写であるにもかかわらず、そこに麻雀をぶつけることで、「内面描写」という手法自体を対象化してみせる。
 そこから、ユキナのコメディエンヌぶりが最大限に発揮される22話を経て、佐藤竜雄監督自身が脚本を担当した第23話「『故郷』と呼べる場所」で物語は最大限に盛り上がり、結末に向かってなだれこんでいくわけだが、つづく24話では、「白鳥九十九の死」という悲劇さえ、(山田二郎の不条理な死にゲキガン・シールが貼りついていたように)「ゲキガンガー祭り」という喜劇と対置される……。

 ナデシコのもうひとつの特徴は、隠し味的に準備された「SFのお約束」にある。「機動戦士ガンダム」は、ミノフスキー粒子≠ニいう架空の粒子を導入することで、宇宙空間におけるモビルスーツ同士の近接戦闘に必然性を与えた画期的な宇宙アニメだったわけですが、「ナデシコ」はなんとびっくりボース粒子とフェルミ粒子を導入、モダンスペースオペラにふさわしい疑似科学的な説明を加えている。フォトンとか言わないところが渋い。
 エヴァのS2機関や「ディラックの海」が名前の響き優先のブラックボックスだったのに対して、ナデシコは相転移エンジンやボソンジャンプにもいちいち理屈を用意してある。
 だからそれにふさわしいハードSF的展開が用意されているかというとそんなことは全然なく、イネスさんがむなしく「説明」するだけなのだが、ラブコメのお約束を極めたあの最終回で、なるほど納得の解決をきっちり提示するあたりが「ナデシコ」のSF設定魂なのかもしれない。
 SFおたくな人にはSFおたくの楽しみを、キャラ萌えの人にはキャラ萌えの快楽を、ひねくれた人にはひねくれた喜びを、素直な人には素直な感動を、熱血の人には熱血の魂を与える。それが「ナデシコ」のコンペイトウ的なとんがりかたなのである。

 ……というわけで、この小説版を読んだばっかりにTV版を最初からぜんぶ見直すハメになり、大幅に仕事の予定が狂ってたいへんな今日このごろですが、待望の劇場版ナデシコもいよいよ公開間近。あれから五年、艦長に就任したルリルリの成長ぶりはいかに。このつづきはお近くの劇場に、レッツ・ゲキガイン!


1998年7月 大森 望   



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