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2007年06月04日

ミノタウロスの時代


牛頭人身の怪物ミノタウロスは
ギリシア神話のなかでももっとも有名なキャラクターのひとつです。

クレタ島のミノス王が海の神ポセイドンを欺いたために、
怒ったポセイドンがミノス王の妃に呪いをかけます。

その呪いとは妃が牛に性的欲望をおぼえるようになるというおぞましいもので、
やがて妃は牛と交わり、牛の頭を持つ怪物ミノタウロスを産みます。

ミノタウロスは成長するにつれてどんどん凶暴になり手に負えなくなります。
そのためミノス王はダイダロスに命じて(後にイカロスの翼をつくる天才発明家です)
迷宮(ラビリュントス)をつくらせ、ミノタウロスを閉じこめます。

そしてミノタウロスに与える生け贄として、アテナイから定期的に少年少女たちを
送らせるようになります。

ある時そのなかにアテナイの王の息子、テセウスが紛れ込んでいました。
テセウスはミノタウロスと戦い、その首を切り落とし、脱出不可能とされる迷宮から
ミノス王の娘アリアドネにもらった糸玉をつかって脱出するのです。
(このあたりの物語は、たとえば阿刀田高さんの『ギリシア神話を知っていますか』
なかにおさめられた「アリアドネの糸」などで読むことができます)

こんなふうには考えられないでしょうか。

牛の頭を持ち、子どもを喰らうミノタウロスはたしかに恐ろしい怪物です。
けれどもその反面、とても哀しい存在でもあります。
なぜならミノタウロスは自ら望んでそのような姿になったわけではなく、
権力の座に目の眩んだ父親が神を欺いたために
怪物として生きることを余儀なくされたのですから。


佐藤亜紀さんの新作『ミノタウロス』(講談社)は、
ミノタウロスのように生きることを余儀なくされた人間を描いた傑作長編です。
この小説は間違いなく今年のベスト候補だと思います。


ぼくが佐藤亜紀さんを初めて知ったのは1991年のことでした。
この年、佐藤さんは『バルタザールの遍歴』(文春文庫)という作品で
第3回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビューしたのです。

もし「完璧なデビュー作」というものがあるとしたら、
ぼくは真っ先にこの『バルタザールの遍歴』をあげたい。

ハプスブルク帝国が崩壊し、ナチスが台頭する時代を背景にして、
ひとつの肉体を共有する双子、バルタザールとメルヒオールの
めくるめく逃避行を描いたこの作品は、選考委員たちを驚愕させました。

選考委員の荒俣宏さんは当時、
「私はてっきり、ドイツ統一記念にミュンヘンあたりの幻想作家が書き上げた
海外作品の翻案であろう、と思いこんだほどである」と選評で書いています。

つまり佐藤亜紀さんは、デビュー作ですでに世界レベルの作品を書いていたのです。


以来、佐藤さんは数々の小説を発表してきましたが、
そのことごとくが素晴らしい水準にありました。
イチローだったらヒットを打って当たり前、とファンが考えるのと同じように、
ぼくは「佐藤亜紀だったら傑作で当たり前」と考えます。

ですから彼女の作品を読むときにぼくがいつも気にかけるのは、
作品の出来不出来などではもちろんありません。
大切なのは「佐藤亜紀という作家が何を語ろうとしているか」ということだけなのです。

では新作『ミノタウロス』で語られているのはどんなことなのでしょうか。


20世紀初頭のロシア。
革命によって社会の枠組みが壊れ、
力ある者が暴虐の限りを尽くす
そんな時代が物語の舞台です。

主人公は農場主の息子として裕福に暮らしていた少年です。
彼はフランス語でセルバンテスを読むような教養の持ち主ですが、
革命の混乱のなかで家を失い、家族も失い、
たったひとりで生きなければならなくなります。

少年は奪い、犯し、殺します。
そして、生き延びるために略奪と殺戮を繰り返す日々のなかで
少年はやがて喜びを感じるようになります。


「ぼくは美しいものを目にしていたのだ――人間と人間がお互いを獣のように追い回し、
躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、
川から霧が漂い上るキエフの夕暮れと同じくらい、
日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かな
ミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。(略)殺戮が?それも少しはある。
それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、
それが何の制約もなしに行われることだ。
こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、
何だって今まで起こらずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、
徒党を組めば別な徒党をぶちのめし、血祭りに上げることが出来るのに、
これほど自然で単純なことが、何故起こらずに来たのだろう」 (182ページ)


「力ある者が生き残る」というシンプルな原則に貫かれた世界。
ただ生き延びるためだけに力が行使される世界。
少年はそこに美しさを見出しているかのようにみえます。

もしも作者の目指した到達点が
暴力や破壊に美を見出すといった点であったなら、
この作品は、暴力や破壊に価値を見出してみせることで
通俗的なモラルや道徳観に異を唱えたつもりになっている
よくある小説のひとつに数えられていたことでしょう。

けれども佐藤亜紀さんほどの作家が
そのような底の浅いところにとどまるわけがありません。
彼女はさらに深く物語を掘り下げていきます。

そしてラストシーン近くで
ぼくたちは主人公のこんな問いに遭遇するのです。


「人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。
それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、
更にそこから流れ出して別の形になるのを――ごろつきどもからさえ唾を吐き掛けられ、
最低の奴だと罵られてもへらへら笑って後を付いて行き、殺せと言われれば老人でも子供でも殺し、
やれと言われれば衆人環視の前でも平気でやり、重宝がられせせら笑われ忌み嫌われる存在に
なるのを辛うじて食い止めているのは何か」(269ページ)


人間を人間たらしめているものが何かと考えてしまうのは、
少年がもはや人間ではないからです。

では少年は獣になったのかといえばそうではありません。
動物はそもそもそのような問いを発することがないからです。

少年は数え切れないほどの略奪と人殺しを繰り返すうちに、
人でもなく獣でもない「ミノタウロス」のような存在となってしまったのではないか。
ぼくはそう思うのです。


この小説を読んでいる間、ぼくが疑問に思っていたことがあります。
20世紀初頭のロシアが舞台となっているにもかかわらず、
現代に生きるぼくたちのことが書かれているような気がしてしまうのは何故なのか。

でもある一冊の本がそんな疑問について考えるヒントを与えてくれました。

『生きさせろ! 難民化する若者たち』雨宮処凜(太田出版)は、
ワーキングプアと呼ばれる若者たちの実態に迫ったルポルタージュです。

請負労働者として低賃金で働かされ最低限の生活さえままならない、
働いても働いても貧しさから抜け出せないような人々のことを
「ワーキングプア」と呼びます。


「闘いのテーマは、ただたんに『生存』である。生きさせろ、ということである。
生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。
俺は人間だ。スローガンはたったこれだけだ。」(10ページ)

雨宮さんが描く若者たちの労働の現場は、まさに戦場です。
その光景がぼくのなかで、生きるために富を奪い合う
『ミノタウロス』で描かれたような革命後の荒涼とした世界と重なりあいます。

現代とは人がミノタウロス化していく時代ではないのか。

佐藤亜紀さんのこのすぐれて現代的な小説を読んでからというもの
そのような問いが頭から離れません。

投稿者 yomehon : 2007年06月04日 10:00