インターネット上に文書などを保存・共有するクラウドサービス『Evernote』を開発・提供する米エバーノート。2007年に創業した同社は、「あらゆるものを記憶する」という明快なコンセプトと使い勝手の良さから、瞬く間にユーザーを獲得。米西海岸有数のスタートアップとなった。全世界のユーザー数は、2016年時点で約2億を超える。

 共同創業者のフィル・リービン氏は知日派として知られ、日本でのファンも多い。同氏はエバーノート自体を日本の老舗企業のような存在にすることを目指し、長期的な視点で経営に携わってきた。本サイトでもかつて「エバーノートCEO シリコンバレー流を大いに語る!」と題する連載を持っていた。

 そんなリービン氏が、エバーノートCEO(最高経営責任者)を退任したのは2015年7月。突然のニュースは、米西海岸だけでなく、日本でも驚きをもって受け止められた。ただ、当時はリービン氏自身が退任の詳細な理由を明かすことなく、同年9月に米ベンチャーキャピタルのゼネラル・カタリスト・パートナーズに参画している。

 今回、約2年半ぶりに日経ビジネスオンラインのインタビューに応じたリービン氏。エバーノートを退任した理由、そして、現在進めている新たなプロジェクトについて聞いた。

(聞き手は伊藤健吾=日経BP社出版局)

<b>フィル・リービン(Phil Libin)氏</b><br />ゼネラル・カタリスト・パートナーズ マネージングディレクター。1972年、ロシア生まれ。幼少期にニューヨークに移住。ソフトウェアエンジニアでありながら、2社のインターネット企業を創業するなど、連続起業家として頭角を現す。2007年、インターネット上に文書などを保存・共有するクラウドサービス『Evernote』を開発・提供するエバーノートのCEO(最高経営責任者)に就任。全世界で約1億5000万ユーザーが利用するサービスに育てた後、15年7月にCEOを退任。その後は同社の会長職を兼務しながら、米ベンチャーキャピタルのゼネラル・カタリスト・パートナーズに参画する。日本食を愛してやまない日本通でもある。(写真:的野弘路、以下同)
フィル・リービン(Phil Libin)氏
ゼネラル・カタリスト・パートナーズ マネージングディレクター。1972年、ロシア生まれ。幼少期にニューヨークに移住。ソフトウェアエンジニアでありながら、2社のインターネット企業を創業するなど、連続起業家として頭角を現す。2007年、インターネット上に文書などを保存・共有するクラウドサービス『Evernote』を開発・提供するエバーノートのCEO(最高経営責任者)に就任。全世界で約1億5000万ユーザーが利用するサービスに育てた後、15年7月にCEOを退任。その後は同社の会長職を兼務しながら、米ベンチャーキャピタルのゼネラル・カタリスト・パートナーズに参画する。日本食を愛してやまない日本通でもある。(写真:的野弘路、以下同)

エバーノートのCEOを退いた理由を教えてください。

リービン:端的に言うと、私自身が掲げた理念を貫くためです。

 エバーノートにいた頃、私は「100年続く会社」を目指すと言い続けていました。この理念は日本の老舗企業からヒントを得て生まれたもので、彼らが培ってきた経営の知恵とシリコンバレー流のスタートアップ手法を組み合わせれば、流行り廃りが激しいテクノロジーの世界でも100年続く会社を作れるのではないかと考えたんです。

 そして、この理念を貫くために、いつかは私がCEOを退く決断を下さなければなりませんでした。どんなに医療技術が進歩しようと、エバーノートが創業100周年を迎える時、私は生きていませんからね。

 「人」が長く残るよりも、「会社」が長く残るための決断をしなければならない――。これは、イベントや講演で人前に出た時に何度もお話ししてきたことでもあります。決して、思いつきでCEOの職を放り投げたわけではありません。

 ただし、実際にいつ退くのかという明確な時期までは、深く考えずに話していました。誰かにCEOを引き継ぐのは20年後になるのか、それとも2年後なのか。私自身も分かっていなかったというのが本音です。

ではなぜ、2015年に決断を?

リービン:それは、CEOの役割をエンジョイできなくなったからです。

 仕事が楽しく、結果も出ているうちは、後任探しのことなど頭に浮かびませんでした。ところがある日、目の前の仕事を100%楽しんでいない自分に気が付いてしまったのです。ちょうど、社員数が350人を超えたくらいのタイミングでした。

 無責任な発言だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はむしろ、そのような状態でCEOを続ける方が会社のためにならないと考えました。それで、すぐに後任探しを始めたんです。

「解くべきパズル」が変わった

なぜ楽しめなくなったのですか?

リービン:会社のステージが変わったからでしょうね。会社が成長し、規模が大きくなった結果、CEOとして解くべきパズルの種類も変わったのだと思います。

 スタートアップの成長について説明する際、よく使われる「アーリーステージ」と「レイターステージ」という言葉がありますよね。

 一般に、スタートアップは事業の“種”を育てるシードステージを経て、製品開発や初期のマーケティング活動を行うアーリーステージに進んでいきます。これらのステージをうまく乗り越えた企業だけがミドルステージに進み、最後には収益基盤を確立してIPO(株式公開)を準備するレイターステージへと進みます。

 幸いにも、エバーノートもレイターステージまで進むことができました。ただ、このステージで求められる課題解決の質は、それまでと全く違っていました。

 私が得意だったのはアーリーステージで製品を作り育てていくパズルを解くことでした。しかし、レイターステージでは、組織のマネジメントや財務体質の向上といった、管理系のパズルを解くことを要求されました。「レイターステージのパズルを解くのには不向きだ」と悟ったんです。

 パズルの種類が違うと気付いた以上、やるべき仕事はただ一つしかありません。新しいステージでうまく課題を解決できるCEOを探し、私自身と置き換えることでした。

 CEOを引き継ぐことに情熱を持っていて、かつ、レイターステージのパズルを解くのにふさわしい能力を持つ候補者を選ぶのは初めての経験でしたから、多少の不安はありました。

 でも、結果としてクリス・オニールのような好人物に出会えたのは、とても幸運でした。彼は私より優秀で、若い世代のエグゼクティブでもあるので。

エバーノートのCEOを退任した後、別の会社を起業しようとは思わなかったのですか?

リービン:ええ。当時は起業するより、私の経験をアーリーステージにいるさまざまなスタートアップに還元する方が良いと感じていましたから。私は私の得意なパズルを解くことにフルコミットするべきだと考えました。

それで、ベンチャーキャピタルに参画する道を選んだのですね。

リービン:そうです。縁があって、2015年に米ベンチャーキャピタルのゼネラル・カタリスト・パートナーズに参画しました。ただ、約2年間投資の世界に触れてみて、現在の起業支援には構造的な問題があることにも気付きました。

 我々ははまだ、アントレプレナーシップ(起業家精神)の本来あるべき姿を形にしきれていなかったんです。

投資家に転身して分かった起業支援の問題点

「起業家精神」の本来あるべき姿とは、どのようなものですか?

リービン:「Entrepreneurship is the pursuit of opportunity beyond resources controlled」。日本語に訳すなら、「起業家精神とは、自分がコントロール可能な資源を超越して機会を追求すること」でしょうか。

 これはハーバード大学のビジネススクールでアントレプレナーシップ研究の大家だったハワード・スティーブンソン教授の言葉です。私が起業家精神について議論したり、文献を読んだりしてきた中で最も好きな定義です。

 スティーブンソン教授は、あらゆるしがらみから自分自身を解き放つことが起業家精神だと言います。つまり、あなたが今どこにいて、何を持ち、どう始めるかなんて問題ではない、という意味ですね。

 しかし、現実にはこうした行動を取ることはとても難しい。特に大企業の場合は深刻です。どうしても、「今あるもの」を守ろうとしてしまいますからね。

 さらに、起業家を支援するベンチャーキャピタルにも、問題があります。彼らは、ビジネスモデル自体に矛盾を抱えています。

どんな矛盾ですか?

リービン:スタートアップを素早く成長させるには、資金調達をするのが近道です。そこで起業家は、ベンチャーキャピタルに事業のアイデアや製品のプロトタイプ(試作品)を売り込み、出資をお願いします。

 一方で、ベンチャーキャピタルの仕事の目的は、投資した後にリターンを得ることです。そのため、多くの投資家は、たくさんあるアイデアの中で最も成功しそうだと感じたもの・人にしか投資をしません。

 中には、毎年1000~2000くらいのスタートアップを見て、そのうちベストな1社だけに投資をするようなベンチャーキャピタルもあります。多く見積っても「1000人いる起業家のうち1人しか助けていない」という計算になりますよね。これでは圧倒的に支援する会社の数が少な過ぎるんです。

 それに、起業家は無事に出資を得ても、今度は「製品」を作り育てていくのとCEOとして「会社」をマネジメントしていくのは別物だという問題に突き当たります。

シリコンバレーのスタートアップ・エコシステム(起業家を育む環境、生態系のこと)が抱える問題点について、さらに詳しくお話ししましょう。

 私が思うに、問題点は主に3つ。それらのせいで、シリコンバレーのイノベーション・モデルは破綻していると言っても過言ではありません。

イノベーションの輪が世界に広がらない3つの元凶

具体的に教えてください。

リービン:一つ目は、先ほども話した投資環境の問題です。

 最近のベンチャーキャピタルは、1000億円~1兆円レベルに成長しそうな事業アイデアにしか投資をしなくなっています。この「1兆円フィルター」は、おそらく99.9%の事業アイデアをダメにしています。

 この中には、1兆円規模にはならないにせよ、世の中の課題を解消する「良い製品」を生む可能性を秘めたアイデアがあったかもしれない。

 実際のところは、どのアイデアが1000億円~1兆円規模に成長するかなんて、誰にも分からないんです。

 (今では企業価値が7兆円を上回るといわれる)配車サービスのウーバーを立ち上げたトラビス・カラニックは、創業したばかりの頃、「100億円くらいの会社にはできるかもしれないけど、それ以上は難しいかもね」なんて話していました。

 同じく(今では企業価値で3兆円規模とみられる)空き室シェアサービスのエアビーアンドビーも、創業当時、誰もこんなに大きな会社になるなんて思っていませんでした。

 ですから、本来は事業の成長規模より先に、アイデアが持つ価値そのものに目を向けなければなりません。良いアイデアかどうかを見定めて、製品を磨き込む。その結果として1000億円~1兆円規模に成長する企業が出てくれば御の字、という姿勢が大切です。

 次に2つ目の問題についてお話ししましょう。多くのスタートアップが、エンジニアやデザイナーといった「クリエーター」をCEOにせざるを得ない状況に追い込まれているという問題です。

 最近は、クリエーターが共同創業者に名を連ねていないと、投資家から出資を得にくくなっています。クリエーターが経営者になれば、投資家は「アイデアを形にするのはあなた自身だよ」と言いやすくなりますからね。

 でも、これが起業後の非効率を生む元凶になっています。「良い製品」を作るために起業した人たちが、「良いCEO」になるとは限らないからです。

 私の知る限り、良いクリエーターでありながら良いCEOでもある、という人は非常にまれな存在です。クリエーターがCEOになると、ファイナンスや法務、組織人事といった「違った種類のパズル」を解くことに失敗して、辞めてしまうケースがとても多い。

 会社が失敗した理由は「製品」にあったわけではないにもかかわらず、ゼロからやり直さなければならないのは、とても非効率ですよね?

 そして、最後の3つ目。これが最も大きな問題になります。シリコンバレーのスタートアップ・エコシステムが、地理的にも人口的にも、とても限定的だという点です。

 現時点で、シリコンバレーが起業家精神を形にするのに最も適した場所だというのは間違いありません。世の中に何かしらの課題を感じ、その課題を解決したいという起業家たちが、今もここに集まってきます。

 しかし、世界を見渡せば、起業家精神を持つ人たちはもっとたくさんいます。そう考えると、実は投資を得られる起業家のタイプはある程度決まっているとも言えるんです。

 あそこで恩恵にあずかることのできる人物像を、ちょっとプロファイリングしてみましょう。スタンフォード大学の卒業生で、コンピューターサイエンスの学士号を持ち、年齢は22~25歳くらい。男性で、パロ・アルトから半径50マイル(約80キロメートル)以内に住んでいて…。条件に当てはまる人はごく少数ですよね。

 このエコシステムに属していないというだけで、支援を受けるチャンスを得られないなんて、どう考えてもよくない。

 私は、起業家精神を持つ世界中の人に、もっと多くのチャンスを手にしてほしいと考えています。そのためには、エコシステムから作り直さなければなりません。これらの問題に気付き始めた投資家は、すでに新しい投資の仕組みを作り始めています。

 私の問題意識はつまるところ、「良い会社と良い製品。世界をより素晴らしいものにするために、生み出すべきはどちらなのか?」という点なのです。より多くのイノベーションを生み出すためには、何が必要なのか。

 考え抜いて出した答えが、私がこれから始めようとしている新たな起業支援プロジェクトです。

インタビュー後編に続く

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