ポール・クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』

 クルーグマンの最新刊の山形浩生さんによる翻訳です。山形さんによる解説も適切でいいものです。本書では先行者としてのケインズミンスキーからの影響がかなり濃厚に出ているように感じました。また大統領選挙が近いという政治の季節を反映してか、クルーグマンの米国の政策批判のスタンスはやはりその影響を抜きにはみれませんね。

 本書のテーマは米国など先進国の長期停滞をさっさと終わらせるための処方箋を提供することにある。もちろん本書でいうところの「国債自警団」(財政負担を過剰に警戒する連中)の抵抗は大きいし、各国中央銀行の金融政策の姿勢も相変わらずいまいちから消極的なものまで失望するものだ。

 いまの大停滞が悪い原因は、ただ目の前の消費や投資が低迷しているだけではない。クルーグマンは長期的にも悪影響を与えるとしている。1.長期失業のもたらす労働者のスキルなどの腐食効果、2.低い事業投資が継続すると、経済が回復してもすぐに生産能力の限界やボトルネックにぶちたる、3.公的なプログラムが中断して政府の適切な役割がゆがむ……まるでいまの日本にも適切にあてはまるものばかりだ。

 停滞の深刻さは、米国経済が「鏡の国の経済」に突入してしまったことにある。FRB日本銀行もどんどんマネーを供給し、金利はゼロまで切り下がった。そして見事に?「流動性の罠」に嵌った。このとき米国はパラドクスまみれの世界に直面した。1.倹約のパラドックス=貯蓄すればするほど不況になる、不況がすすめば所得が減るので貯蓄も減る! 2.柔軟性のパラドックス=値段の切り下げ、賃下げは、所得を減らすことでさらに値下げと賃下げを加速する……これを解決するのは、政府と高いインフレ率だ。

 クルーグマンの本書では一部のエリート(金融業界や政治家や回転ドアの住人たち)への批判もいつになく辛辣だ。またオバマ政権が当初は積極的な財政政策を主張したのにすぐにエリート層たちになびき、政策を緊縮よりにしたのにも辛辣な批判を展開している。もちろんちゃんとしたデータをもとに。

 日本と同じで財政危機を煽る集団が米国でも主流だが、クルーグマンは経済が停滞しているときに財政負担の心配をしてどうするのだ? という。経済停滞こそが財政負担を結果的に招き、それが長期化してしまう。経済を再起動させるために財政支出の拡大が必要で、それによって債務・GDP比率も低下していき財政問題も解消に向かうのだ……クルーグマンの主張はまったく正しい。ただし僕には日本に応用するときはちょっと工夫が必要だ。クルーグマンも日本と米国の違いを明瞭に認識しているはず。

 米国への政策提言は3つ。一つ目は、いまやFRBに取り込まれたとクルーグマンが断じているバーナンキがかって主張した過激な金融政策をフル装備でやること。二つ目にはそれに財政支出の拡大が備わればさらに効き目がきく、三つ目は住宅対策だ(住宅ローンの減免だ)。

 財政政策については、中断した公的プロジェクトの再起動。そしてクルーグマンが住宅対策でいったように負債を減らす狙い撃ちの事実上の減税政策だ。

 クルーグマンの判断は、FRBへの失望とともに、財政政策の出番が中心になってきたといえるのかもしれない。でももちろん相変わらず高めのインフレ目標がベストであることは本書でも健在だ。だが訳者解説にあるようにやれることは全部やるのが重要なのは間違いない。

 日本の場合は、全部やるべきことのうち、金融政策の転換(より高めのインフレ率の予想と実現)がまったく未利用のままここまで来た。米国の停滞は4年目。日本は20数年だ。このとき日本の政策を考えたとき試されていないものの価値は極めて大きいと僕は考えている。それにこれだけ長いと原因はきわめて絞られてくる。特に為替レートの長期トレンドとそれに並行する実体経済の低迷を両方説明できるものは、金融政策のスタンスがデフレを許容している事に求めるのが最も妥当だ。この核心部分を叩くこと、これが日本が米国に教訓(未達成の成果だが)として与えることができる最高のものだろう。

 クルーグマンの示唆をそのまま鵜呑みにするのではなく、同時に日本の現状にそれを応用するときに、さらに本書に展開されているクルーグマン的視点を徹底させることが必要だろう。本書はその知的な鍛錬の踏み台になる。

 クルーグマン的視点から米国と日本の差異を考えるときは以下を読まれるように。

参照1:円高シンドローム(≒定常デフレ)の図表化(日本経済は日本銀行の政策を原因にして長期間のデフレ(定常デフレ)に陥っている。それを為替面から表現したのが円高シンドローム。ちょうど購買力平価を天井にして、円安(≒デフレ脱却)が抑制されている。:)
参照2:日本と米国の違いってなんだろうか?(簡単な図表から)
さらに日本と米国の違いと、クルーグマンの視点を日本の文脈で応用し、金融政策のスタンスが日本の長期低迷のキーであることを明らかにした画期的論文。
参照3:浜田宏一&岡田靖論文
書籍では僕のいくつかの本、最近ここで紹介している安達誠司さんの本、片岡剛士さんの本、岩田規久男先生の本、上念司さんの本、若田部昌澄さんたちの本も同じ系譜です。

さっさと不況を終わらせろ

さっさと不況を終わらせろ

松尾匡「リスクと決定から社会主義を語る」

  社会主義理論学会編集の『資本主義の限界と社会主義』に収録された松尾匡さんの新しい論文です。しかしこの論文集まさかもらえると思ってなかったので買ってしまってたw しかもよくあることだけど買った翌日に大学にいくと来てるとかの必勝パターンww 

 さてこのリスクを最も多く負担しているものに組織の決定を配分するのが最も効率的ではないか、という命題(以下略してリスク・決定テーゼ)を歴史的な事例や現実に応用していく対話調の読みやすい論説です。

旧ソ連でのコルホーズの運営などをみても一部の上級官僚、政治家たちの「国家資本家階級」のコントロール。でも「国営農場」ではなく「農民の協同組合」を装ったのは、不作のリスクを政府がかぶりたくなかったから。不作でも工場労働者には一定の支払をしなくてはいけないが、コルホーズの方は不作のリスクは農民がかぶり、他方で「国家資本階級」は豊作・不作に関わらず一定の分け前をピンハネ(安く農産物仕入⇒製粉工場などの破格の値段で売却して上前はねる)。

旧ユーゴの労働者管理企業の事例。古株労働者と新参労働者との世代対立が、過小な設備投資をまねく。なぜなら古株が消費せず蓄積した成果を新参が消費してしまうと予想すると、古株もそんな蓄積をしなくなるから。これを防ぐための工夫としての年功序列制、会員権方式がある。前者だと古株は新参の生き残りをできるだけ少なくする(極端では自分以外は皆パートにしてしまう)、後者は会員権を高額にしてやはりインサイダー(企業に残るボスたち)とアウトサイダー(パート労働)の区別を積極的にすすめていくだろう。ところで旧ユーゴはこの世代対立を回避するために設備投資のための資金調達を(上のように古参にまかすのではなく)地域の企業が管理する銀行を創設。しかしこの銀行は身内の企業に融資で差異をつけることができず、どんどん無差別融資⇒高いインフレに(他方で労働者への分け前もどんどん増やしていくコストプッシュの側面もあり)。この高インフレと民族対立が旧ユーゴ崩壊の原因。おまけにみんな平等すぎて、プチ権力もってる工場長が殺害される「工場長殺し」が起きた旧ユーゴ。

上記旧ソ連と旧ユーゴともにリスク・決定テーゼからいうとリスクと決定の配分がミスマッチなためにムダな設備投資が行われやすい。

では、資本家企業はどうか?資本家は出資者。労働者のリスクや事業のリスクをかぶるシステムとして出来高払い(労働者へのリスク丸投げ)から賃労働制(リスクにあまりよらず報酬与えるシステム)への以降で、資本家もリスクを担う形が一般的に。でも資本家が追わないリスクはいっぱいある。他方で資本家だけが相変わらず独占的に決定できる資本主義には固有のムダが発生しやすい。

例えば労働集約的な分野(介護、学童保育、沿岸農業など)のように労働者がほぼすべてのリスクをかぶるものには、労働者に決定権を与えるのが効率的。

ところで労働者の間の合意が得られないと資本が登場する。例えば部門ごとの専門知識もつオタク労働者はお互いの仕事が理解難しい。部門間の合意が難しいので外部の出資者がえいやと資本投入で事業全体がうまく回る可能性がでてくる。他方で部門間が合意できれば少ない資本や労働者同士の出資でうまくいく。

またリスク自体が減少していくことでも決定権の配分は変化する。ニーズをほぼ把握している場合の生協といった消費者主権の組織など。リスクの変化によって決定権の配分がかわることがムダをなくして望ましいのであれば、企業・組織の主権の変更ルールがより柔軟になることが望ましい。

大概こんな感じの内容です。あえて対話調(ヘンテコ革命家くずれと地下アイドルもどきとの無理無理対話w)にする必要があったかだけは疑問ですがw

関連するリンク先:リスクと主権の配分:松尾匡氏との対談(ミュルダールを超えて第13回)

資本主義の限界と社会主義

資本主義の限界と社会主義