差別と法について、思ったこと

先日のエントリー(日の丸と燃える十字架 - 小熊座)に、id:takammさんからコメントをいただいた。これに対する二度目のレスを書いているうちに非常に長くなってしまったので、ひとつのエントリーとしてアップすることにした。以下がその内容である。
 
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先日も書いたように、私はここのところヘイトスピーチ規制に関連する本や論文を読んでいるわけですが、そうしているうちにいくつか思うところも出てきました。無学非才の身ゆえ、生煮えな考えですが、この機会に書き留めておくことは私にとって無意味ではないように思えます。しばしお付き合いいただけたら幸いです。
 
まず第一点。
アメリカ合衆国判例が、ヘイトスピーチですら言論の自由により保障される、としていることは、このブログでも何度か書きました*1。当然ながらこのことは、合衆国法がそれだけ「言論の自由」を重んじている、ということを意味しています。が、もう一方で、この事実は、このような判例法理が形成されるほど、アメリカ社会がこれまで何度も人種差別的な言論や行為を禁止し処罰する法を制定してきた、ということの結果でもあります。もちろんこれは羨むようなことではありません。それだけアメリカ社会では人種差別という社会現象の害悪が熾烈だ、ということだからです*2
もっとも、翻ってそのような法が制定された経験を全く持たない日本社会がハッピーな社会か、というと、これまた全くそうとは言えないでしょう。確かに最近まで*3、日本社会において人種差別が深刻な社会問題として意識されたことはありませんでした*4
しかし、それは最近まで問題がなかったということでは断じてないし、必ずしも問題が「小さかった」ということを意味するとも思えません。実際には、在日朝鮮人アイヌ・沖縄出身者などをはじめとした人種的少数者に対する差別や弾圧は、ずっと行われてきたわけです。恥ずかしいことに私も最近までこのことをほとんど「知らなかった」。いや、むしろ「意識してこなかった」というべきでしょうが、そのこと自体、日本における差別のありようの顕著な特徴をなしていると考えられます。つまり、日本国家および社会は、人種差別の問題を「(ほとんど)ない」ことにしてやり過ごすことを選んできた、ということです*5。今、このことは何度強調されてもされすぎということはないように思います*6
政府や地方自治体による差別的政策(最近では朝鮮学校に対する授業料無償化の見送り)や、それらにおいて重要な地位にある者によるレイシズム丸出しの「失言」といった事件に対する、この社会のほとんど恐怖を覚えるほどの冷淡・鈍感・無関心(いや、正確には無言の共感、と捉えるべきか)は、その端的な現れ、と見るべきです。これも強調されるべきですが、この問題に関して日本国家と社会は(明治以来)強い共犯関係にあります。この社会において、ヘイトスピーチ規制立法を単純に「国民の自由に対する侵害」とのみ考えるべきではないと思うのは、こういう事情があるからです。差別に反対するということは、国家と手を取り合って差別を行う社会(国民)に反対する、ということにならざるを得ません*7
それにしても、「差別がない(ということにする)」という差別!なんという無知に居直った傲慢で嫌らしい連中でしょう…私もその「連中」の一人なわけですが。
ともあれ、憲法的問題は別にして、これまで差別的表現・行為に対する法的規制を持たなかったという事実は、日本にとって誇れるようなことでもなんでもない、と思います。
 
第二点。
各国で定められてきた*8差別的表現・行為を禁止・処罰する法の多くが、そのような表現・行為が社会に憎悪を掻き立てるがゆえに公の秩序を乱すということを規制の根拠としていることには、注意する必要があると思います。
つまり、これらの差別規制法は、必ずしも第一義的には、被害者(差別された個人や集団)の人権や人格権の保護を目的としているのではなかったようなのです。この意味するところは、私にも十分に捉え切れていません。人権や人格権といったものが立法の際に重視される要素とされるようになったのは、そんなに古いことではない(もしかしたら今でもそうなってはいない?)、ということなのでしょうか。あるいはもしかしたら、「集団的人権」といった問題とも絡んでくるのかもしれません*9
ひとつ言えそうなのは、このような観点からは人種差別撤廃条約をはじめとした国際人権法が非常に重要だろう、ということです。
 
第三点。
とはいえやはり、差別的表現・行為に対する法的規制が直ちに差別という社会的病理を治癒したりはしないだろう、と考えざるを得ません。法律というのはとても大きな影響を及ぼすものですが、にもかかわらず、それにできることは非常に限られています。もっとも、だからといって法的規制を無意味だと考えているわけでもありません。ヘイトスピーチに対する法的規制の可否という問題は、差別なる社会的現象に対して採られるべき対応の、一部をなすと考えるべきでしょう*10
「差別なる社会的現象に対して採られるべき対応」とは、何とも抽象的な物言いですが、たとえば、このブログでも何度か言及した*11「黒い彗星」こと崔檀悦(チェ・ダンヨル)氏の行為はそうした「対応」の一つではないでしょうか。あのような勇気ある行動は、誰にでもできることではないでしょう。しかし、あの行動の形でなされた呼びかけに呼応すること、彼が孤立しているのではないことを示すこと、自分の置かれた社会的文脈で「黒い彗星」たらんとすること、これらも「対応」でしょう。私がこうしたことを書くのも微弱ながら「対応」のつもりです。
こうした「対応」一つ一つは、いわゆる「対抗言論(more speech)」と呼ばれるものといっていいと思います。こうしたもののほかにも、第二点として述べた国際人権法と連動していくこと、反差別的観点からの教育(必ずしも児童に対する教育に限られません)など、「採られるべき対応」は多々あると思われます*12。これらは広い意味で「対抗言論」に含まれるかもしれません。では、こうした「対抗言論」を飽かずに繰り返していれば、やがて差別的な表現・行為を圧倒して社会から駆逐するか、と言われれば、なんだかそれも楽観的に過ぎるのでは、とも思わざるを得ません*13
おそらく多くの人がそう考えているでしょうが、やはり、差別に反対して「採られるべき対応」が実際に力強いものとなるには、社会運動の存在が不可欠なのではないでしょうか。差別的表現・行為に対する法的規制の実現も、その一環として考えられるべきでしょう*14。ひとこと付け加えておけば、そのような運動に加わることのみが「差別なる社会的現象に対して採るべき対応」ではないのはもちろんです。 
 
第四点。
上に書いたことからもわかりますが、ヘイトスピーチ規制というのは比較的小さな限られた領域でのお話です。しかし一方で、ほかの多くの問題(その一部は非常に大きなもの)ともつながっていることも、ぼんやりと感じます。たとえば、この問題は、「表現の自由」を中心とした人権概念の体系に対する大きな挑戦となっているのではないか、と思っています。
ほかにもいくつか気になりだしたことはあるのですが、「ぼんやりと感じ」る程度のことをあまり書き連ねるのはよしたほうがいいかもしれません*15。今回はここまでにしておこうと思います。

*1:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101211/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101216/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1 なお、http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110128/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20030407/p1も参照のこと。

*2:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110128/p1およびhttp://d.hatena.ne.jp/quagma/20030407/p1参照。

*3:この「最近」とは、「安価な労働力として多くの外国人を受け入れるようになってから」および「中・朝・韓の近隣諸国に対する敵意がことさらに煽られるという風潮が強まるようになってから」という、最低でも二つの意味があると思われます。

*4:部落差別は数少ない例外といっていいかもしれませんが、それすら十分に受け止めてこられなかったのでは、と思えます。

*5:なぜそれが可能だったのか、というのは一つの問題です。また、この前書いた「私たちはいまだに明治を超えられていない」(より正確に「明治を超えようとすらしていない」と言い直すべきかもしれません)という言葉の意味は、一つにはこの「差別にたいする徹底的な無視はなぜ可能なのか」という問題にかかわっていると考えています。明治というのは要は戦前・戦中的体制ということなので、つまりは天皇制とも無関係ではありえません。

*6:そういえば突然思い出したのですが、夏目漱石の文章に「満韓ところどころ」というのがあります。この、今から100年前、1909年という時点における「国民作家」の作品におけるあからさまな差別的視線は、まったく過去のものとなっていません。もちろんこれは悪い意味でそうなのです。

*7:この点について、こちら(http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110125/1295975896)における米津篤八氏(id:mujige)が「黒い彗星」暴行事件に寄せて述べた「今回の事態は日本の国家政策の一つの小さな反映に過ぎない」「在特会が馬鹿だといって笑って済まされる話ではなく…私たち日本人は明らかに在特会の立場に立っている」という認識、およびArisan氏のブログエントリー(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110208/p1)における「民主主義の政治が、差別的でもある多数者の欲望の充足ということしか意味しない社会だ」という認識には、肯かずにはいられません。

*8:内野正幸『差別的表現』有斐閣(1990)は、合衆国、英国、カナダその他の英米法系諸国、およびフランス、(西)ドイツなどの例を挙げています。35−74ページ

*9:swan_slab氏のhttp://d.hatena.ne.jp/mescalito/20080606/p1 は勉強になりました。また、正直に言えば嫌な感じのする文章ですが、弁護士の山口貴士氏によるhttp://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2011/01/post-60e9.htmlも挙げておきます。

*10:どの程度の重要性をもった「一部」なのかは、今の私にはにわかには判断しかねますが。また、「規制」立法のみがありうる反差別法ではないことも指摘する必要があるでしょうか。

*11:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101211/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101216/p1

*12:ヘイトスピーチに対しどのように法的に対応すべきかについては、合衆国に「critical race theory(批判的人種理論)」という学説があるようです。これについては桧垣伸次「ヘイト・スピーチ規制と批判的人種理論」(http://ci.nii.ac.jp/naid/120002635205 pdfで閲覧可)がやや詳しく紹介しています。もっとも残念なことに、批判的人種理論を説く論文には、現時点でほとんど邦訳がないようです。

*13:もっとも、「社会的病理」「社会的現象」といった言葉を用いていることからも明らかなように、私は「差別するのが人間の本性だ」といった粗雑な認識に与するつもりはありません。このような言明は最悪の現状追認以外の何ものでもなく、また、事実としても確実にひどく間違っている、と考えます。

*14:地道な社会運動とは異なったルートで立法が成立することは十分に(もしかしたら運動の結実としての成立よりもずっと高い可能性で)ありえますが、その場合も社会運動の側からそうした立法を捉え返す(場合によっては反対する)ことは必要でしょう。

*15:それでもひとつだけ書くと、ややオタクっぽい話になりますが、上で触れた国際人権法と(各国の)憲法との間にある緊張関係をどう考えればよいのか、両者における「人権」概念にはズレがあるのではないか、ということが非常に気になります。