2011年05月29日
外交を外注していた古琉球の王国
沖縄を創る人 第20回
歴史家 上里隆史さん(上)
7月から放映予定のNHK「BS時代劇 テンペスト」で時代考証を担当した歴史家、上里隆史さんに会った。琉球王国は意外な素顔を持っている。上里さんは、そんな王国の姿をさまざまな形で一般に伝えてきた。
上里さんは首里の出身。琉球大で琉球史を学んだ後、琉球を含む東アジアの国際関係史研究をさらに深めるため、東大史料編纂所で研究生として学び、さらに早大で修士号を取得した。現在は沖縄に戻り、琉球史コンサルタントとして活躍している。
歴史家と言えば、大学や研究所に所属している人が多いが、上里さんは違う。在野の歴史家、だ。
「大学に所属すると学内行政などに時間がとられて思うように研究できないことがありますし、どうしても機動力が落ちると思いまして。専門的研究と一般向けの普及活動を自由に行き来したかったので、あえて在野でやっています」
琉球史の専門的知識には、実はさまざまなニーズがある。琉球史に関する講演会や一般向け書籍の執筆に加え、大手旅行代理店の依頼で「テンペスト」ツアーの監修やガイドの育成研修をするといった仕事も入ってくる。
その上里さんが語る琉球王国像はエピソードに満ちていて、分かりやすく、興味深い。今回と次回で、その一端を紹介したい。
琉球王国は、アジア貿易で経済を繁栄させた。しかし、そのありようは時代によって違っていた。1300年代から1500年代の古琉球の時代と、日本の江戸時代にあたる1600年代以降の近世琉球の2つに大きく分けられる。今回は古琉球の話を。
「古琉球の時代の琉球王国は、琉球に来ている外国人に外交をアウトソーシング(外注)していました」
上里さんがいきなりパンチを繰り出した。外交の外注!
上里さんによると、テンペストの舞台になった江戸時代の琉球王国には官僚養成システムがあったが、古琉球の時代は、公的教育機関で自前の人材育成を行うのではなく、那覇にいた外国出身者の力をそのまま活用していた。
例えば、朝鮮と交渉するのに、対馬や博多出身で日本と朝鮮を行き来する那覇在の貿易商人を使い、公式の琉球代表として朝鮮に派遣した。商人にとっても、琉球の代表使節という肩書きによって自らの貿易を拡大できるメリットがあった。
中国との外交は、那覇の久米村にいた中国出身者を使った。東南アジアでは中国語が通じたから、そちらとのやりとりも久米村人材が担った。室町幕府とは、日本出身者が交渉した。例えば、日中琉をまたぐ禅宗の国際ネットワーク下で、首里の円覚寺の住職をしていた京都・南禅寺出身の僧侶が、琉球の公式の代表として室町幕府と交渉したりしていた。
なんという国際的なダイナミズム。そこには、琉球人より京都出身者の方が先方の事情や慣習に詳しいから、という合理主義があり、同時に、そういう人材ならば相手の弱点もよく知っている、という計算もあったはずと上里さんはみる。
「こういうやり方は琉球王国だけではないんです。交易によって成り立っていた国は、みなその傾向がありました。例えば、マラッカ王国でも貿易長官は外国人だったりしたんです。当時の交易国家には、現在の国民国家のような意識はあまりなかったと思います」
沖縄は珊瑚礁の島なので、船が入れるのは、当時は那覇港と北部の運天港に限られていた。特に那覇は、琉球で唯一都市の姿をしており、経済、政治、文化のすべてが集中していた。1300年代後半から日本と中国の往復は琉球を中継地にするルートが一般的になったこともあり、那覇は各国の商人、日本の僧侶や医師などが行き交う国際都市になっていた。
商人はもちろん貿易のために来琉した。日本の医師は、当時の先端技術だった中国の医療を学びに来た。僧侶は基本的には布教のために沖縄に来るのだが、当時、数少ない知識人でもあった僧侶を琉球王府は最大限に活用した。例えば、漢文を自由に読み書きできた彼らに、数多くの石碑の碑文を書かせたりした。そんな石碑は今も首里界隈にたくさん残されている。
逆に那覇港から、そのルートに乗って、数多くの琉球人が日本に渡った。例えば、京都の大徳寺には、1500年代に琉球の禅宗の信者などがたくさんやってきた、との記録がある。日本とのつながりは強かった。
「薩摩の侵攻を受けた後の江戸時代の近世琉球より、それ以前の古琉球の方がかえってヤマトっぽかったんじゃないかと思います」
ヤマトっぽいではあっても、あくまで琉球流。例えば、日本では、日本産のひらがなを公的な文書に使うことはなかったが、琉球はこれを使った。同時に、日本式の花押ではなく、中国式で捺印。年号も中国式だった。
あるいは、王府がとりおこなった正月の儀式では、中国風の衣服を着つつ、儀式の内容は陰陽道に由来する日本風のものだったりした。ヤマトのものをたくさん取り入れてはいたが、それらは琉球独自にアレンジされたものだった。
江戸時代になると、事情は一変する。その話は次回に。
歴史家 上里隆史さん(上)
7月から放映予定のNHK「BS時代劇 テンペスト」で時代考証を担当した歴史家、上里隆史さんに会った。琉球王国は意外な素顔を持っている。上里さんは、そんな王国の姿をさまざまな形で一般に伝えてきた。
上里さんは首里の出身。琉球大で琉球史を学んだ後、琉球を含む東アジアの国際関係史研究をさらに深めるため、東大史料編纂所で研究生として学び、さらに早大で修士号を取得した。現在は沖縄に戻り、琉球史コンサルタントとして活躍している。
歴史家と言えば、大学や研究所に所属している人が多いが、上里さんは違う。在野の歴史家、だ。
「大学に所属すると学内行政などに時間がとられて思うように研究できないことがありますし、どうしても機動力が落ちると思いまして。専門的研究と一般向けの普及活動を自由に行き来したかったので、あえて在野でやっています」
琉球史の専門的知識には、実はさまざまなニーズがある。琉球史に関する講演会や一般向け書籍の執筆に加え、大手旅行代理店の依頼で「テンペスト」ツアーの監修やガイドの育成研修をするといった仕事も入ってくる。
その上里さんが語る琉球王国像はエピソードに満ちていて、分かりやすく、興味深い。今回と次回で、その一端を紹介したい。
琉球王国は、アジア貿易で経済を繁栄させた。しかし、そのありようは時代によって違っていた。1300年代から1500年代の古琉球の時代と、日本の江戸時代にあたる1600年代以降の近世琉球の2つに大きく分けられる。今回は古琉球の話を。
「古琉球の時代の琉球王国は、琉球に来ている外国人に外交をアウトソーシング(外注)していました」
上里さんがいきなりパンチを繰り出した。外交の外注!
上里さんによると、テンペストの舞台になった江戸時代の琉球王国には官僚養成システムがあったが、古琉球の時代は、公的教育機関で自前の人材育成を行うのではなく、那覇にいた外国出身者の力をそのまま活用していた。
例えば、朝鮮と交渉するのに、対馬や博多出身で日本と朝鮮を行き来する那覇在の貿易商人を使い、公式の琉球代表として朝鮮に派遣した。商人にとっても、琉球の代表使節という肩書きによって自らの貿易を拡大できるメリットがあった。
中国との外交は、那覇の久米村にいた中国出身者を使った。東南アジアでは中国語が通じたから、そちらとのやりとりも久米村人材が担った。室町幕府とは、日本出身者が交渉した。例えば、日中琉をまたぐ禅宗の国際ネットワーク下で、首里の円覚寺の住職をしていた京都・南禅寺出身の僧侶が、琉球の公式の代表として室町幕府と交渉したりしていた。
なんという国際的なダイナミズム。そこには、琉球人より京都出身者の方が先方の事情や慣習に詳しいから、という合理主義があり、同時に、そういう人材ならば相手の弱点もよく知っている、という計算もあったはずと上里さんはみる。
「こういうやり方は琉球王国だけではないんです。交易によって成り立っていた国は、みなその傾向がありました。例えば、マラッカ王国でも貿易長官は外国人だったりしたんです。当時の交易国家には、現在の国民国家のような意識はあまりなかったと思います」
沖縄は珊瑚礁の島なので、船が入れるのは、当時は那覇港と北部の運天港に限られていた。特に那覇は、琉球で唯一都市の姿をしており、経済、政治、文化のすべてが集中していた。1300年代後半から日本と中国の往復は琉球を中継地にするルートが一般的になったこともあり、那覇は各国の商人、日本の僧侶や医師などが行き交う国際都市になっていた。
商人はもちろん貿易のために来琉した。日本の医師は、当時の先端技術だった中国の医療を学びに来た。僧侶は基本的には布教のために沖縄に来るのだが、当時、数少ない知識人でもあった僧侶を琉球王府は最大限に活用した。例えば、漢文を自由に読み書きできた彼らに、数多くの石碑の碑文を書かせたりした。そんな石碑は今も首里界隈にたくさん残されている。
逆に那覇港から、そのルートに乗って、数多くの琉球人が日本に渡った。例えば、京都の大徳寺には、1500年代に琉球の禅宗の信者などがたくさんやってきた、との記録がある。日本とのつながりは強かった。
「薩摩の侵攻を受けた後の江戸時代の近世琉球より、それ以前の古琉球の方がかえってヤマトっぽかったんじゃないかと思います」
ヤマトっぽいではあっても、あくまで琉球流。例えば、日本では、日本産のひらがなを公的な文書に使うことはなかったが、琉球はこれを使った。同時に、日本式の花押ではなく、中国式で捺印。年号も中国式だった。
あるいは、王府がとりおこなった正月の儀式では、中国風の衣服を着つつ、儀式の内容は陰陽道に由来する日本風のものだったりした。ヤマトのものをたくさん取り入れてはいたが、それらは琉球独自にアレンジされたものだった。
江戸時代になると、事情は一変する。その話は次回に。