遺産とはなにか:『トロン:レガシー』

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色んなところで『話がカラッポ』とか『ガッカリ』とか、えらく評判の悪い『トロン:レガシー』だが、いやいやいや自分は結構面白いなと感じたよ。何がって、話がだよ。
というか、この映画って、80年代に子供時代を過ごした自分のような世代には、特別な意味を持つ映画という気がするな。


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自分は旧作の『トロン』という映画にそれほど思い入れが無いし、面白いと感じた記憶も無い。初期のCG導入映画といえば、『トロン』よりも『ラスト・スターファイター』の方が100倍好きだ。しかし、『トロン』に思い入れたっぷりなクリエイターが多数いる、という事実は理解しているつもりだ。
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だから、本作『トロン:レガシー』に大きな思いが込められているのは、凄くよく分かる。リメイクではなく正統な続編であるというのはその証拠だろう。本作は『トロン』や、『トロン』が象徴していた何かを受け継ぐ作品なのだ。



80年代におけるコンピューターってのは、まさに夢のマシンだった。このままコンピュータが発達していけば、世界が変わる気がした。このままプログラムの腕を磨けば、ティーンエイジャーのままでオトナ社会を自由に冒険できる気がした。このままハードとソフトが進歩し、世界中のコンピューターが電話回線で接続し合えば、国境は無くなり、人類の価値観が変わる気がした。


子供時代の主人公の部屋の奥にMacintosh Plusが置いてあるのは、時代を表すアリバイという意味だけではないだろう。あの頃、Appleという会社は夢の世界を覗かせてくれる未来から来た会社だった。


しかし、約束された「素晴らしい未来」は来なかった。ハードとソフトが進歩し、パソコンを一人一台持つ時代になっても、余計な雑事に追われる日常は変わらなかった。プログラムの腕を磨いても、上位数%のスーパースターに富や評価が集中するだけで、それ以外のほとんどは中途半端なパソコン便利屋として、大資本が支配する既存の社会システムに組み込まれただけだった。インターネットが世界中のパソコンを接続しても、国境は無くならず、人類の価値観はほとんど変わらなかった。あの頃、パソコン少年たちが夢見ていた未来は失われたのだ。


そんなわけで、前作の主人公ケヴィンの息子にして本作の主人公サムは、大手IT会社となったエンコムの株を親父から受け継いだ大株主なのに不満たらたらだ。なにせ、昔は貧乏な学生やハッカーの味方だったのに、今やOS開発で荒稼ぎしているのだ。
「情報は全てフリー」「成果は全てコピーレフト」「互助精神に則れば皆が幸せ」という70年代西海岸ハッカー精神を親父や師匠のアランから受け継ぐサムは、エンコムの新商品をネット上にアップしたりして、ウサを晴らしたりしていた。
しかし、それでもサムの気分は晴れない。おれたちが子供の頃に夢見ていた未来は、こんなもんじゃなかった筈だ。こんな、特許や商標登録で既得権をガッチガチに守り、自分たちを脅かす新しいテクノロジーの開発を全力で潰し、格差社会の弱者から搾取しまくるマイク○ソフトみたいな企業が業界を席巻する未来が夢じゃなかった筈だ!


……というようなスタンスで作られたんだと思うね、『トロン:レガシー』って映画は。私のこのような見方は、決して妄想爆発ってわけじゃないだろう。


だから、自分が本作で最も興奮した箇所は、前作にも登場した親父の経営していたゲーセン跡を訪れ、電源を入れるシーンだったりする。失われし80年代ビデオゲーム文化の廃墟。そこで次々とアーケードゲーム筐体の電源を入れると、生き返ったように筐体のディスプレイが光り、大音量でいかにも80年代な洋楽(しかも、前作で音楽を担当したジャーニーの曲)が鳴り響く…… これは、80年代の「失われし未来」、それもコンピューターやビデオゲーム文化が、今まさに新たな形で蘇らんとする象徴なんだよね。



全然CGも使ってないし、3Dでもないし、ウリであるグリッド世界にまだ入ってないけど、一番興奮するシーンは此処だった。



で、そのグリッドは「良い父さん」と「悪い父さん」が永久の戦いを繰り広げる世界だったのだが、これはそのまま前述したスタンスを反映したものだと思う。
「良い父さん」ってのは、70年代ハッカー文化やヒッピー文化、80年代ゲーム世界を創ったクリエイターたちを象徴する存在だ。西海岸の大学で学び、フラワーチルドレンとして戦争を嫌い、東洋思想をレスペクトし、ビデオゲームを創りだしたわけだ。
一方、「悪い父さん」というのはビジネスに魂を取り込まれた情報処理産業だ。面白さや楽しさではなく効率を重んじ、孫受けや長時間労働で働き手を管理し、利益を出すこと――「完璧なビジネスの想像」が求められる。
「悪い父さん」にとって、ユーザーは客であると共に、時に自分たちに無茶な要求をつきつける敵でもある。だからグリッド世界でユーザーは嫌悪される。
「悪い父さん」は、自らの立場を脅かしそうなベンチャー企業は全力で潰す。だからアイソーなんて怪しい民族は虐殺だ。「良い父さん」は戦争が嫌いなので、黙ってそれをみていることしかできない。
しかし、「良い父さん」も「悪い父さん」も、現在の隆盛を極めた情報処理産業の光と影の象徴であったりもする。コンピューターへの夢と、現実を見据えたビジネスの両面があったからこそ、IT産業は発達したのだ。


また、この物語が迎える結末も象徴的だ。IT技術の発展の為には「良い父さん」も「悪い父さん」の両方が必要だった。だから、今こそ二人は一つに戻るのだ。



そんな中、クオラは真に未来への希望だ。美人で黒髪でショートカットだからという理由だけではない。親父が慰み者にしていた綾波レイだからという理由でもない。コンピューター世界で、思いもかけぬ形で生まれたアイソーというのは、ネットの集合知や、閉塞した現状を突破するキーのようなものの象徴だからだ。
たとえばクオラは、いかにも70年代ヒッピーが好きそうな老子だの孔子だの書物を「貴方の父さんに教えてもらったの」と紹介した後、「実はこれが一番好き」とジュール・ヴェルヌの小説を手に取ったりする。それは80年代や70年代よりもずっと前、更に古い時代の「失われた未来」の象徴だ。遥か昔、SFの祖たるセンス・オブ・ワンダーをアイソーである彼女は持っているということを表すシーンであった。
つまり、クオラこそ、70年代ハッカー世界や、80年代ゲーム世界が奇跡的にも(あるいは偶然にも)生み出した、復活した「失われた未来」なのだ。今度こそ、これで世界を変えられるかもしれない。


そんなわけで、本作はゲーム世界から未来の希望を現実にお持ち帰りするという、しかもその希望は黒髪でショートカットの女子という、素晴らしい映画だったんじゃないかと思う、実のところは。
勿論、「良い父さん」を演じるジェフ・ブリッジスの演技のテンポがカッたるいとか、ディスクゲームやライトサイクル以上の映像的見せ場がクライマックスに用意されてないとか、そもそも○○○が最後までマスクとらないってどうなの? とか、エンターテイメントとして色々と問題はある。でも、自分はこの映画をあんまり嫌いにはなれないな。



さて、ラスト。サムはクオラを乗せて親父のバイクで疾走する。この時サムが感じる希望は、次世代ゲーム機が発表された時のドキドキ感や、次世代アーキテクチャーが発表された時の期待感みたいなものだ。でも、実際に次世代機が手元にやってきて、「次世代」じゃなくなった時、それが普通になった時の日常感を、我々は知っている。
グリッド世界ではとびきり魅力的だったオリヴィア・ワイルド演じるクオラが、現実世界では何故か劣化したように感じたのは、光の加減とか化粧の合わなさ以外に、そんな理由もあったのかもしれない。
しかし、それはそれでOKだな。