あまり良い回答になってないかもだけど、(吟遊詩人がよく持ってる)リュートという楽器は、ポジショニングさえ手の感覚として掴んでしまえば盲目でも弾ける(らしい)。よって結果的にリュート弾きの盲目率は高くなる→吟遊詩人といえば盲目というイメージができあがる RT @cari_meli
2011-02-15 01:41:43琵琶法師もそうでしょうか。@kaorekaora @cari_meli> 結果的にリュート弾きの盲目率は高くなる→吟遊詩人といえば盲目というイメージができあがる
2011-02-15 01:48:52文学などでは盲は目の見えない代わりになにか超人的能力を与えられている場合が少なくないと思うのだが、これはプラトンの古来より視覚が五感のなかで最も優れているとされたこととなにか関係あるのかね?
2011-02-15 01:47:47テイレシアス? “@cari_meli: 文学などでは盲は目の見えない代わりになにか超人的能力を与えられている場合が少なくないと思うのだが、これはプラトンの古来より視覚が五感のなかで最も優れているとされたこととなにか関係あるのかね?”
2011-02-15 01:50:22@cari_meli それだと日本のお話には適用できないですよね。推論ですが、目が見えない=我々とは違う異質のもの=一種の畏れから、超人的能力を与えるられたとか?
2011-02-15 01:50:43人間と神の仲介役とかによくありますよね。畏れからってのはありそう。 RT @nmh198: @ それだと日本のお話には適用できないですよね。推論ですが、目が見えない=我々とは違う異質のもの=一種の畏れから、超人的能力を与えられたとか?
2011-02-15 01:54:17@cari_meli 僧になるというのは、現世の快楽をすべて捨て去るということで相当な覚悟が必要とされます。それよりは、食い扶持を稼ぐ手段を探す上で琵琶なり竪琴なりをひき、それが「盲人と言えば…」という社会通念になったのかと。
2011-02-15 01:55:25ふむふむこれはしっくりくる。 RT @96_yuki: @ 僧になるというのは、現世の快楽をすべて捨て去るということで相当な覚悟が必要とされます。それよりは、食い扶持を稼ぐ手段を探す上で琵琶なり竪琴なりをひき、それが「盲人と言えば…」という社会通念になったのかと。
2011-02-15 01:59:53@cari_meli 昔の日本では、不具の人は宗教的観念上、一種常人とは違う特殊な存在で「ケ」の世界(定住・農耕)の住人たりえないとされ、それは「ケガレ」→差別と短絡できるものではなく、「ケ」=日常世界の対義→「ケガレ」と同時に「ハレ」=非日常の霊的世界に通ずる存在とされた…
2011-02-15 01:49:59@cari_meli という観念が前提にあり、音楽や詩もまた昔の人は神秘的なもの、「言霊」と考えた…それを操る吟遊詩人は、ある種の聖職者・シャーマンで、神や霊といった非日常世界との取りなしをする役目…不具の人は「ケ」の外の世界に属するため、その不思議な力が宿ると考えられた
2011-02-15 01:59:16うーん。。ユダヤ教の世界だったら、目の見えない人は基本的には、"罪人"なので、畏れる気持ちがあるとは思えぬが…。按摩さんに盲目の人が多いのは、目が見えなくても出来るからなんだっけか。
2011-02-15 01:59:52分かったことは、バックグラウンドが違いすぎるのでホメロスのような吟遊詩人と日本の琵琶法師を一緒に考えてはいけないということ、だな…。
2011-02-15 02:01:32@cari_meli 江戸幕府は盲人に針治、按摩、琴三味線を独占させて、これが日本法制史において福祉事業の役割があったとして評価されているよーーちなみに私は宮城道雄リスペクト
2011-02-15 02:00:48なんと、法で定められとったんか RT @komomo_cat: @ 江戸幕府は盲人に針治、按摩、琴三味線を独占させて、これが日本法制史において福祉事業の役割があったとして評価されているよーーちなみに私は宮城道雄リスペクト
2011-02-15 02:03:01