サム・ペキンパーの「わらの犬」は前半と後半のギャップがとりわけとりざたされて、このカタルシスこそが褒めそやされている。しかしバイオレンスを持ち味としたペキンパーの技量はむしろ前半の丁寧な心理描写にこそ表れていており、ダスティン・ホフマン演じる主人公に、現実的な身の振り方として悲しからずや共感するところも多い。それゆえに単なる痛快と斬れぬ妙味があるわけだ。劇中では登場人物たちの愚かさが目立つなかで、近代的な理性をつかさどるのが学者稼業にある主人公である。その主人公が最終的に転向する様がペキンパー流の皮肉だろうが、最後の「(帰るところが)分からない」という主人公の言葉を劇中に添えていることを考えれば、必ずしも暴力を首肯しているとも思いがたい。果たして理知は暴力に相対するものなのだろうか。ポルキウス・ラトロとセネカは次のような対話の断片を残している。

――知性はどこから出てくると思うかね?
――知性は闘争への欲望から出てくるものだ。
――その場合、知性が他人を打ち負かす手段を与えてくれるものであるならば、その目的は真理ではなく、勝利であるはずだ。
――いや、論争が目指すのは勝利ではなく、勝鬨なのだ。さてこの勝鬨だが、これは勝利において満たされるわけでも、相手を死に至らしめたときに満たされるわけでもない。その要件とは、民衆の叫びであり、行進であり、祭典であり、流された血の光景であり、赦しの可能性なのだ。
――叫び、それはわかる。血、それも見える。だが赦しとは?
――赦すということは「命を助けてやる」ということだが、「自分は死を宣することも、とりやめることもできるほどに強い」ということでもあるのだ。


これは弁論の勝利こそが理性を示すという古代ローマの実情を揶揄したものであるが、要点をまとめれば理性の目的である勝鬨は「①民衆の叫び ②流された血の光景 ③赦しの可能性」によって満たされるということだ。しかし、これではつまるところ宗教あるいはイデオロギーじゃないのか。これら権力において理性が人民統制の装置として暴力をコントロールするのは相応のことで、さらに暴力が理性のペルソナの下に巧妙に隠されたうえで増長するものであるのは「わらの犬」を思うまでもなく、よく在ることではある。思えば劇中後半の攻防において主人公が数に優る暴漢どもの暴力に優ったのは理知に拠るものではなかったかだろうか。(近代)理性に逆説的に内在する暴力の形姿はわらの犬のカタチをしている。