「真剣で私に恋しなさい!S」について

何も言う事はありません!!!

真剣で私に恋しなさい!S 初回版

いやですね、こうやって感想を書くじゃないですか、そうすると、当たり前ですが、最初の書き出し・最初の一行・最初の一文字があるわけです。全体を通してこういったことを書こうとか、こういったことが書きたいとか、あるいはその時思いついた何かとか、その辺をきっかけとしてボクなんかは感想を書き始めていくんですが、えーとこの『まじこいS』の感想はですね、もうその時点で四日くらい何にも書くことを思い浮かばなかったのです。てゆうか今も思い浮かんでいません。思い浮かんでないからこそ、こんな意味のない文章を書いてしまっているなうって感じでもあるのですが(笑)。まあ、ですので、この感想に関しては、思いついたことを思いついたままに、つれづれなるままテイストで書いていきたいと思います。だからグダグダってしてるし意味の乏しい文章も多いだろうし―――つまりは無駄に長いってヤツになりますが、ご容赦下さい。

えーと、それでまあつまり。『まじこいS』の感想。端的に申し上げると、この状態が示しているように、何も言う事はない、なのです。完璧だから。最高だから。

『まじこいS』は最高で、完璧で、全てが揃っていて、だから最早、ボクなんかが感想で記すことがない。そうですね、『まじこいS』の「S」は「すべて」のSだったんだよー! とか言ってもいいくらい、およそ『真剣で私に恋しなさい』に関わりうる(許容量内に収まりうる)すべてがあったと言ってもよろしいのではないでしょうか。良くも、悪くもです。前作の良かった部分は全てパワーアップして帰ってきており、ついでに前作の悪かった部分も大体パワーアップして帰ってきております。続編というと、よく、前作の「長所を伸ばすか」「短所を減らすか」という二者択一……っていうか二つの方向性が想起されると思われますが、この『まじこいS』に関しては「長所も伸びてるし短所も伸びてる」と言った方が的確ではないでしょうか。もうホント、どっからどこまでも『まじこい』を貫き通していて、どっからどこまでも『タカヒロ』全開なわけです。たとえば、『無印まじこい』においてボクが唯一(と言っていい)ちょっとだけど苦手だったのが、百代さんの暴力性を全然隠さない上にそれと平気で同居しているっていうか作品自体が無頓着だよねっていう―――つまりそれが「素」で行なわれてるんじゃないか、ってところなのです。なんか、たとえば、ちょっと言動を間違えたら、殺されるってことはなくてもボカーンって殴り飛ばされそうだし(実際ガグトとか幾らでも殴り飛ばされてますが)、それでいてその閾値が微妙に掴みかねるという部分とか。分かりやすく喩えれば「竜の逆鱗」であって、その戦闘能力は竜の如くであるのだけど、しかも何かのはずみで怒らせちゃえば、逆鱗を踏みかねない=ボカーンってやられかねない、なんて思ってしまうわけです。実際にそういうことになるシーンは多くはありませんが、しかし少なからずある。いや、そもそもこの人「不機嫌なとき」が凄く多いんですよね。川神の火薬庫みたいな超危険的人物(あくまで「的」を付けますが)にも関わらず、しょっちゅう不機嫌である。その最たる理由は「戦闘欲求」であって、だからこそ不機嫌の発散は「バトル」か「大和に絡む」かの二択しか基本的にはなくて(……まあ逆に言いますと、大抵の場合は「都合よく」挑戦者が現れたり大和に絡めている(だからそれすら出来ないで溜まりに溜まった時どうなるかを僕たちはあまり知らない)とも言えるわけですが)、別に周りに無差別的暴力を振るってるわけでもないし、たとえばいつも金欠だからって何かしらの犯罪に走るわけではない、そういう意味で、ちゃんと出来ている人だといえば出来ている人なわけだし、信頼できるといえば信頼できるんですけど、しかしどうにも、そこに圧力とか圧迫感を抱いてしまうわけです。大和や風間ファミリーのメンツならどんだけ姉さんが不機嫌でも対処法を心得ているだろうけど、モブの人たちとか、たとえば僕たちがもし『まじこい』世界に入ったとしたならば、そんな不機嫌な百代さんにどう絡めばいいのだ。本質的には武人であり武士娘であるのだから、だからこそ信頼できるわけなんですけど、しかしここでいう本質というのは設定である(ゲームですからね。「設定」はたとえばらっきょにおける「根源」的な強度・強制(勿論奈須きのこのソレよりは全然弱いけど、あと順番逆(根源→キャラクタではなく、キャラクタ→設定)ですけど、しかし「(たとえ多少矛盾していても)理不尽にそうなる」という強度と強制力)を大抵勝手に持っちゃうわけです)わけでして、やはりそこに生きていない(ゲームの世界の中の人間でもなければ、川神市の人間でもなければ、風間ファミリーの一員でもない)ボクといたしましては、「サブマシンガンをいつも小脇に抱えている友人がいつも不機嫌で、絶対こっちには撃ってこないと分かってはいるんだけど……」みたいな圧迫的心境に陥るわけです。つまり、百代さんの暴力性が隠されていない。……いや、ていうか、「あまりにも武力が強大すぎて隠れない」と断じた方が良いかもしんないですね、そういうことです。で、ここに入れられてるフォローがどう考えても道理に適ってないっていうかやりすぎっていうか=つまり投げやりなんじゃねって思えるくらいで、それすなわち→(タカヒロの/あるいはまじこい世界の)「素」なんじゃねえかと思えてしまうのです。うーんとこの辺は多分ボクと異なる見解を示す方も沢山いるっぽいデリケートな部分の話題のような気がするのでちょっとビクビクしながら書くんですが、なんでモモ先輩がモブからあんなに絶大な人気を誇ってるのかがよくわからん。いや、てゆうかこれ理由ないんじゃないだろうか。モモ先輩はオールジャンルにおいて最強を誇る武神なので人気も最強なのですよ、くらいの飛ぶ抜けたことが理由でもよろしい……つかむしろその方がモモ先輩っぽい。百代さんはよく自分のことを「美少女」って自称し続けますが(そして百代さん以外は(大和除いて)殆ど彼女を美少女と呼ばない!)、そうすることによって自身をこの世界での「美少女」に仕立て上げてしまったわけです。作中で「美少女」と呼ばれ続けると、プレイヤーから見て全然美少女に見えなくても、その世界では美少女”ということになる”―――いわゆる渡○さんメソッドですが、それと同じ様なものです(さっき書いた「設定うんぬん」ってのはこういう系統の話)。しかし、百代さんの場合は、「作中で言われている」じゃなくて「自分で言い続ける」ことにより、自分を「作品の中で美少女”ということにした”」のです。これが凄い。いや実際、大変申し訳ないですが、ボクは百代さん別に美少女に見えなかったのですが、しかしずっと美少女美少女言い続けているので、「ああ、『まじこい』世界では百代さんは美少女なんだな」とか普通に思うようになってしまいました。つまり、これが百代さんの凄さ、(文字通り)次元を超えた強さです。作品内で最強の武力を誇るのみならず、その豪快なまでの強さは、作品外―――つまり設定部分、メタ部分まで塗り替えてしまったのです。自分で自分のことを美少女と言い続けることによって、設定部分まで打ち倒し、自分を本当に「美少女」ということにしてしまった!  うん、百代さんに関しては、こういう捉え方の方があってるかなと思うのです。その圧倒的なまでの力で、立ち位置や概念まで塗り替えてやった!  えーとそれで話戻りまして、たとえば百代さんって端から女の子を掻っ攫っていくし、何かがきっかけで対立してもまず勝ち目はないし、ただ歩いてるだけで攻撃喰らうことはないけど、機嫌損ねれば攻撃喰らう可能性はあるわけで(たとえば『S』でも準がそのような理路で攻撃喰らってましたが)、そんでもって風間ファミリーはともかく、それ以外のモブの人たちに何か直接的な利益を与えているわけではないわけです(すげーバトルを観戦できるとかの間接的な利益はありますが)。にも関わらず、何でモブの人たち男女問わずにこんな人気なんだろうかと(しかも、その人気っぷりがあまり実像を持って描かれていない(たとえば『S』においては、モブ集団が「モモ先輩わーきゃー」みたいに慕い讃えてるシーンが2・3回描写されますけど、その箇所以外では、女の子侍らせてどうこうという百代さんが主体的に関わっている場面を除くと―――つまり外から、客観的に見える百代さんの人気ですね、それがその2・3回以外”まったく”描かれていない)、だからですね、投げやりとか素とか設定とか思ったのです。これは勿論非難しているんじゃなくて、こういうやり方はタカヒロとして正しいとも思っています(そもそもボクがタカヒロ(を意図的に)貶すとか……ありえん!(信者発言)))…………と、自分で見て()多すぎてわけわかんね文章書いてしまいましたがw、ここまで書いたところでその一番の理由が分かりました。モモ先輩の人気の理由。もしかして単純に「メチャクチャ強いから」ではなかろうか。いや普通の学校だったら、それだけで大人気になるわけないんですけど、しかし幾度も語られてるようにここは武士の末裔たちが多く通う学園、言わば武士学園、しかも(『つよきす』竜鳴館と同じように)自分自身の力を磨き・それで生きていくことを良しとする教育方針、そしてその中で闘い育ってきた学生たち……そう、ヤバイ今ごろ気づくのかよ私、どんだけダメなんだよとちょっと愕然ingなのですが、そうでした、川神学園の生徒はモブひとりひとりまでちゃんと「強い」のでした。これは武力・格闘のみならず、人間的な強さ、たとえば逆境に打ち負けないとか苦境に倒れ挫けないとか困難から逃げないとか、そういった方面なのですが(作中で描かれる、スグルや熊ちゃんやヨンパチにすら溢れるそういったバイタリティ!)、そういうのが非常に優れてるんでした。ああ、そうだ、そうです。基本方針としてこの世界は(タカヒロの世界は、と言い換えてもほぼ同義)、殆どみんな「強い」。えっとですね、ボク自身その辺(モモ先輩という圧迫感)がちょっと苦手だったのですが、twitterでもその辺が苦手だっていう意見を見かけましてね、いやこれはモモ先輩に限らずですね、ありきたりな他者論を用いると破綻するくらいの数と言ってもよろしいでしょう、板垣方面の人たちとか、(シナリオによっては)そう遠くない距離にいるのに、ちょっと触るところ間違ったら爆発しそうな火薬庫だし、クリスの親父さんなんかマジ歩く地雷ですし、マルさんは『S』でだいぶ丸くなった(てゆうか可愛くなった)御身をお見せあそばれておられますが、無印の頃はもっとマルギッテさんマジ猟犬って感じではありましたし、S組メンツなんて基本的に「いわゆる他者性」の固まりですし、ある意味一番の隣人と言えるクッキーですらなんかいきなりキレるし第二形態になるともっとキレるしと、要するにそういった、暴力性を伴った(隠さない)他者性という圧迫感が、普通に、おおっぴろげに、そこら中を闊歩していた(『S』では「さらに」となります。ヒュームさんとかこの方面の極みですね)わけです。つまりそういうところが苦手っていうお話を聞いたことがあって、いやボクもちょっと苦手風味なんですが、ああしかし多分、タカヒロにおいては、その前提自体が間違っている。他者性とは、私たちが理解している他者のさらに裏にある奥にある向こうにある他者、いわゆる<現実的>な方面の他者。他者における象徴化不可能領域(実際は順序が逆、そもそも象徴化自体が(たとえば無邪気な真摯さで他者と付き合おうとするならば)邪道なわけですが)。昔ゼルダの伝説で弱いニワトリいじめまくってたらヒッチコックばりに逆襲してきたっていう小ネタがありましたが、そういう、知ってることの裏側にある我われに飼いならせない/届かない一面(一面、って言い方も便宜的ですが……つかこの辺の話は便宜的・便宜上のオンパレードになりますので以下この手の但し書きは省略)。で、そこで最も威力を振るうのが当然ながら「暴力」であって(なにせ<現実>方面に属していますから)、だからこそ他者性はより脅威(<現実>に対して対抗できないのである)なんじゃないでしょうか。…うーんなんか話の流れが数年前の自分みたいで非常によろしくないですね(大失笑)。ちょっと戻しましょう。喩えるなら、『まじこい』世界ってのは「人間のサファリパーク」みたいな一面もあるわけです。ちょっと間違うと他者性的な暴力に触れてしまうかもしれない、ただ普通にやってる限りはまず襲ってこない、そんな世界―――っていうか、そういう暴力性が全く隠れていない。他者性的な暴力性が平気で大手を振って歩いている(ある意味では従来の他者性そのものが失効しているとも言える)。だから、ありきたりな他者性論を用いると破綻するんですよ。元々ありきたりな他者性が間に合わない世界なのです。まさにタカヒロらしいとも言えるでしょう。基本的にタカヒロさんってば現代風に言えば肉食系とかオラオラ系とか、普通に言うと体育会系とか、努力・友情・勝利とか、そういうものを基盤に置きつつソレを絶対視しない・重要視しないという味付けをすることによって(あと「楽しい」を大前提に置くことによって)、この素晴らしき世界たちが成り立っていると思うのです。で、絶対視してないからこそ、重要視してないからこそ、そういったものの短所である暴力性を全然隠さないし、そして何より、それが隠れてなくても全然大丈夫な人たちばかりであるわけです。えーとこれでボクが苦手とかほざきやがった箇所の論破はセルフで完了です! 要は、みんな強えーのです。モブに至るまで。それも単に初期設定として「強い」というわけではなく(だけではなく)、たとえば川神学園とか竜鳴館の教育方針がそうですが、みんな鍛えてるし努力している。そもそもこんな環境にいれば自然と鍛えられるっていうのもありますし。だからボクはこの世界が大好きなのです(注:多分ボクはここでは「やっぱりタカヒロは最高だな!」みたいな話しかしません)。



そんなことより紋様ちゃんの話しようぜ!


紋様ちゃんターイムッ!!


さあ、5000文字も改行無しで一気に書いて読者さんをどばっと減らしたところで真打ち登場、紋様ちゃんのお話でもいたしましょうか。
いやね、紋様ちゃんですよ、紋様ちゃん。ボクは紋様ちゃんに出会うために生まれてきたんだ……と一人呟いてしまうくらいマジ紋様ちゃん最高です。好きです。大好きです。すまない、ロリコン以外は帰ってくれないか。いまだに一日数回「紋様ちゃん……」と精神の中で反芻して意識が飛んでしまうこと多々あります。ああホント、この人にボクの心は破壊されたよ……。

……さて、紋様ちゃんの魅力をいざ語り尽くそうかと思いましたが、しかし世の中には語るまでも無いことがありまして、そして「紋様ちゃんの魅力」というのはそういった事柄の筆頭に挙げられる事象でもありまして、つまり語るまでもないですよねぶっちゃけ。
この健気で頑張る姿! お兄さんやお姉さんやお母さんたちに迷惑をかけたりしたくないし、手のかかる妹とも思われたくない(ヒュームら従者に対しても、こういう感情を持ってますね)……だから、なるべく頼らずに、一人で頑張るんです。我慢するんです。だって彼女は「九鬼」紋白なのだから。姉や兄に追いつけ追い越せ! 母や九鬼の力になって役立て! どうして彼女が「九鬼」紋白なのかというのは、その身体に九鬼帝の血が流れているからでは”決してありません”。と、紋様は考えています……というか紋様にとってはそうなのです。それでは納得できないし、実際(姉や兄と違って?)母の愛を得られていないのだから、ああだから、彼女にとって彼女自身は”まだ”「九鬼」紋白ではない。 「我はまだ家族になりきれていない」 と、彼女自身が語るように。その額に自らバツ印を傷つけたのは何故か――もちろん「九鬼」紋白になるためです。これほど自らの力で頑張るのは何故か――それもまた「九鬼」紋白となるためです。
ああ、だから紋様は最高だ! ほら、大和にまで気を遣っているでしょう。我を助けろ、我のために働けではない。あなたが大変じゃないなら助けをいただく、が、そうでないなら、我は一人でやる……一人でやらなくてはならない。それが九鬼紋白の存在証明。そうであるから(この時の)九鬼紋白は「九鬼紋白」でいられるのです。
えーとこうやって文章打ってたらマジ胸がせつなくなってきた……どうしよう死のうか(死ねよ)。こんなに頑張ってんだ、こんなに健気で、こんなに我慢してるんだ。大和が 「紋様は凄い頑張ってるよ。少なくとも俺基準ではそう」 といって彼女の頭なでてあげてますが、本当に我われも紋様の頭をなでたいですよ! 叶うことなら!

大和「頭を撫でられるのが好きなら周囲にそう言いなよ」
紋白「われは頭を撫でる方でなくてはならんだろ…」
大和「まだ撫でられる方でいいんだってば!」

そうですね、ボクは(プレイしてて)この辺から紋様好きになりすぎて死にましたね。
「私はこうしたい(こうされたい)」と「私は(九鬼紋白は)こうあるべき」、その二つの内で紋様は”常に”後者が勝っているのです。前者と後者が合致した時こそが一番彼女の健気さが発揮されるわけでもあるのですが(たとえば、「私は母と仲良くしたい・褒めてもらいたい・役に立ちたい」と「九鬼家の一員として(母の)力になるべき」とが合致したのがこの「人材集め」なのですが)(そして人材集めである理由はもちろん、「母がかつて人材派遣業を行なっていた」からだと思われます。つまり母と同じ道を歩みたいのです)、同時にその例が示しているように、その時こそ彼女は苦難する。後者のタテマエに、前者のホンネが駆逐されるような感じで。実際のところ紋様はそれすらも乗り越えていく強さを持っていましたけどね。だからこそ最高だ! まあそれはともかく、ここにおける前者は後者の抑圧の中で徴候のように出てくるばかりであって、それこそが愛らしいのです。

気がつけば、紋様がくいくいと袖を引っ張っていた。
紋白「大和! 我は午前から習い事であったが…」
紋白「全てこなしてみせたぞ」
大和(! 了解しました紋様)
俺なりにその意図を察して行動してみた。
大和「そつなくこなし、お見事です紋様(なでなで)」
紋白「おお…」

たとえばこのシーンなんかが典型的ですけど、ここで習い事をこなしたと報告してきた紋様に「そうですか。じゃあ午後も頑張って下さい」とか返したとすると、おそらく「うむ…」とか言うだけですぐ引き下がっちゃうと思うんですよ。思うんですよっていうか、紋様だったら絶対そうなりますよね。本当は褒めてもらいたい(この場合イコール撫でてもらいたい*1)のだけど、褒めてとは決して口にしなくて、せいぜい「察して」の念がこもってるばかりなんだけど――実は「立ち絵」の表情を見てると、その辺が凄く表れています。やべこの子超顔に出るし、そして相手に気を遣わせないためかそれを一瞬で(ワンクリック程度で)消す――、相手がもし察してくれなかったらそれはそれですぐ引き下がっちゃう。この健気さこそが紋様のステキなところ! ああ、察してあげたいし撫でてあげたいし褒めてあげたいですよ!
この子は、こんな風に、こんなやり取りから(しかもこんなやり取りは、それが(大和に)察してもらえたときも、(母などに)察してもらえなかったときも合わせて、幾度も幾度も描写されるのだ!)分かるように、なんとまあ孤独なマラソンを続けてきたのだろうと。ゴールは果てしなく遠くて、それを成し遂げるには自分の力でなくてはダメで、精一杯を越えた精一杯さで頑張らなくちゃダメで、途中にご褒美もなくて、そしてゴールしてもらえる賞品はありふれた家族の情愛……しかも、それでいて、(後に母の本音として明かされるように)走れば走るほどゴールが遠ざかっていっているのです。紋様が頑張れば頑張るほど、母の気持ちは遠ざかっていく。そんな、報いも救いも何処にあるのか分からないような戦い……だからこそ僕たちが紋様ちゃんを支えてあげなきゃならないんじゃないですかー!!
ああそうです、だから大好きなんです。そこが魅力なんです。

紋白「我は地を統べる者ができるようにと、神が念じてつくったものだ!」

実際に紋様がそういう存在というわけではない(たぶん)。実際に神様が地を統べるために遣わした根源に「支配者」が刻まれた存在ではない(たぶん)。しかし、「九鬼」紋白であるためには、そうでなくてはならないのです。―――いや、正しく補足しましょう。いわゆる妾の子状態、九鬼家の本流に半分しか血が繋がっていなくて(それ故)完全には家族となれていないからこそ、誰よりもそうでなくてはならないのです。紋様は、誰よりも「九鬼」でなくてはならない。(九鬼家の中では)その出自が誰よりも「九鬼」ではないから。誰よりも「九鬼」でないからこそ、誰よりも「九鬼」にならなくてはならない。
まあとはいえこれは、そんな悲壮感溢れるお話ではありません。我慢して頑張って健気だけど「強い」――それ故強い/強いからこそそうあれる紋様を、僕たちが支えてあげる……いやごめん願望混じってた、実際は大和さんが支えてあげるというお話。
そう、強いんですよ。過去色んなところで書いてきましたが、タカヒロ世界の登場人物はおしなべて強い。もちろんヒロインさんだって強い。そもそも、普通の子だったら、こんな状況とっくに折れてても・諦めててもおかしくないわけです。しかし彼女は折れないし、諦めない。願いは叶わず、欲しいものは得られず、苦労して頑張ってもほとんど見返りはなくて、苦しいだけで厳しいだけで傷だらけのこんな状況でも、誰かに甘えたくても誰かに認めてもらいたくてもそれすら叶わないこんな現状でも、紋様は折れないし諦めない。だから紋様は素敵なのです。傷だらけになりながら一人きりの荒野のなかでも真っ直ぐに前を見据えるようなこの気高き美しさ!
その辺の極めつけはこのシナリオのラストで到来します。母から決定的な言葉をもらっても、でも、それでも、諦めない。歩むことをやめない。「九鬼紋白」で在り続けることを決して諦めず折れずやめない。しかも、 「我は母上が大好きですからな! 逃しませんぞ、フハハハハ!!」 という言葉、この文字列がまさにそう表しているように、ここで纏っている空気は悲壮感とは程遠いんですよ。むしろそれは(それこそが)、ヒュームや局が言うように、豪快で、まるで帝様のような……まさに「九鬼」の豪胆さ。
これが紋様の素敵さです。だから僕たちも支えたくなるんです、この小さな未来を。

紋様の、涙をはじめて見た。
紋白「み、見るな、大和、みっともないので見るな……」
大和「みっともなくなんかありません」
大和「それは紋様が一生懸命真っ直ぐに局様を思って生きてきたから、出てくるものです」

どれだけの苦境の中、どれだけの我慢の中、どれだけの困難の中、どれほど報われなくても、どこまでも頑張り、どうなっても諦めなかったからこその―――つまりそれは、「一生懸命真っ直ぐに」生きてきたからこそ、辿り着いた、この場所、この報い、このゴール、この涙。
語るまでも無いとか言いつつ、長々と書いてしまいましたが、これら全てが紋様ちゃんの魅力です。


それ以外の話しようぜ!


えーと紋様ちゃんの話終わっちゃったのでまあその他について、ぐだぐだ語りましょうか。

基本的には全部面白かったですね。いや「基本的には」って言葉はいらねえな。普通に全部面白かったです。本編ヒロイン5人のアフターストーリーはまさにファンディスクによくありがちな作り……に決して終始するだけではなく、たとえば百代さんのとかそうですけど、その中でも世界や話を広げてて面白かったです。たいていのファンディスクにおけるアフターストーリーって、他のヒロインはろくに出てこなくてその子と二人の世界バリバリで、ましてや主人公でもヒロインでもない視点から話が展開されるなんてことは全くと言っていいほどありえないのですが、『まじこいS』においてはそういうこともちょくちょくやってくる。つまり、こういうアフターストーリーにおいても、いつも通りの『まじこい』であったということですが。その辺がなかなか良かったです。そしてまた、アフターストーリーではなく追加ストーリー、心やマルさんなどの追加の物語は、それぞれがそれぞれで味がある。


エセロリことにょわ子こと心さんシナリオ。とにかく虚勢と虚栄を張り続ける女の子です。その家柄と教育(母との会話の回想とかちょっと出てきますが、見るからに家柄を誇って庶民を見下す系でしたね)故に、心さんは虚勢と虚栄とありもしない威厳を張り続けなければならなかった。この家柄とこの教育の下では、高貴で人気者で優れている人間じゃないと「不死川心」として認めてもらえないわけです(そういう価値観・基準である)。だからこそ嘘っぱちでも友達が居ると言い続けて、たとえ何であろうと山猿と見下し続けて、自分は高貴だと言い聞かせ続けてきた。彼女にとって(不死川にとって)理想は「言う」じゃなくて「自然とそう」「本当にそう」なんでしょうけど、現状それとは異なるわけで、しかしその現状を(不死川としては)認めるわけにはいかない、だから虚勢も虚栄も張り続けるわけです。そんな彼女を調教するルートがこちらになります。まあ大和が言っているように、そういう虚勢を張りながら本音では素直に友達が欲しかったりする、そういう不器用などうしようもないところが「放っておけなく」て、それが彼女の魅力でもあるのですけどね。


マルさん。

ナレーション「人間には相性というものがある」
ナレーション「マルギッテと自分が最高の相性である事実を、彼はこれから実感していく運命にある」

本当に相性が良い二人に対して、プレイヤーは何も言う事ができません。つまりお前ら勝手にやってろ感が強いw いやね、相性最高なんですから、放っといてもこの人たち最上級な関係になってスペシャルな日々を過ごせちゃうんです(ということが丸分かりなのです)。


燕さん。この人のルート……燕との未来が、「主導権を握られる」か「主導権を握る」かの二つしかないのが面白いです。つまりですね、大和と燕の関係にはこのどっちかしかなくて、中間項が存在しないのです。どっちかが前に立って勇往邁進していく、後に立った方はそれについていく、そういう様な関係以外には落ち着かない。「大和が主導権を握る」方は、しょっぱなから大和が主導権握ってるわけじゃなくて、燕がパンドラメモリ閲覧に失敗したところをきっかけに大和が(完全に)主導権握りますが、この途中までの、「特にどちらが主導権を完全に握っているわけではない」という一般的な段階でどうしても落ち着けないからこそ、最終的に大和が主導権を握ったと言えるのではないでしょうか。これはこの二人の相性問題みたいなものでもありますし、そもそもの最初のきっかけ(百代の弱点を知るために大和に近づく)からしてこういう帰結になったのではないでしょうか。好きになった方が負け、を突き詰めたようなカタチ。そりゃ 「大和クン…陥落たな」「私の…彼氏クン…ううん……」「彼氏様……」 という両極端のどっちかに行き着いちゃうわけです。というか、この二人においては、どちらかにしか行き着けない。なんにせよ、こういう極端さをバンと打ち付けるところなんかも面白いですね。


小雪。ユキのルートは、幼少期からやり直さないと起こらないわけです。つまり、リュウゼツランアフターではどう足掻いても友達レベルまでしか達せられないように、現在からの地続きにユキのルートは存在しない。それどころか、「彼女の表情に感情がしっかり宿るのは本人のルートのみ*2」とタカヒロが明言してしまってることから、現在からの地続きには表情に感情が宿ることすら無い。この辺もまた、ひとつのタカヒロの真骨頂ですね。過去の出来事は消えなくて、要すると「詰んでるものは詰んでる」のですよ。一子が”才能無いから”という身も蓋も無い理由で武道の道が詰んでしまった、そしてそれはもうどうしようもない(詰んでるものは詰んでる)などが典型例ですが、どうしよもないところはどうしようもないままで、詰んでるところは奇跡とか起こらないでちゃんと「詰む」あたりがマジタカヒロで素晴らしいと思いますね。現在から伸びる道に小雪と恋仲になる未来は「絶対にない」(=詰んでる)からこそ、その前提条件――現在から伸びる道という前提条件を覆すという無茶ワザを使わざるを得なかった。これはそれだけ、子供の頃の大和くんが小雪にした仕打ちが重く、大きく、取り返しの付かないものだということでもあります。取り返しのつかないことだからこそ、ここでは(タカヒロでは)、このように、”本当に取り返しが付かない”


あとはシナリオ以外の部分。


ちょくちょく入る「京トラップ」について。選択肢を一個間違うと(京から見ると間違ってないけど)、共通ルートだろうが誰かの個別ルートだろうが、強制的に京エンディングに一直線というアレ。ありとあらゆる未来への可能性が伸びている本作ですが、純粋にすべての未来を並べると、一番可能性が高いのは「京との未来」ということなんですよね。風間ファミリーED時のナレーションも言っていましたが、

ナレーション「ある意味、当然の結論を直江大和は選択した」
ナレーション「いずれは椎名京と結ばれそうな道ではあるが、それもまた彼の選んだ結果である」

普通に今歩いている道の延長線上を生きる(それがこの場合風間ファミリーED)場合、京と結ばれる可能性が最も高い。本当に誰とも結ばれなかった場合、京と結ばれる可能性が最も高いのです。これは勿論、京が行動しているから、つまり京が「自分の手で」この未来を掴み取っているとも言えるでしょう。これもまたある意味「タカヒロ的」ですね(つうかこの作品はどこを切り取っても「タカヒロ的」と言えるくらいタカヒロっぷりが全開ですが)。努力し、頑張り、自分から動いて、目標を目指し、そして辿り着けるときは辿り着く。逆に、「辿り着けないときは辿り着けない」と、詰んでるものはしょうがないがはっきりしているシビアさもまたタカヒロの持ち味です。京が大和に辿り着く可能性が一番多いとはいえ必ずしもそうならないことが示しているように。てゆうか、辿り着けないときは辿り着けないとはっきりしているからこそ、辿り着けるときは辿り着けると、これもまたはっきり出来るのでしょう。だからタカヒロさんは最高なんですよ!(全肯定信者発言)


とはいえ、そんな信者脳のボクでもあんまりよろしくないなーと思うところはあって、それが「アニメ演出」です。たとえばバトル物アニメの普遍的な問題として「凄すぎるバトルを凄すぎるまま描写できない」というのがあります。具体的には<壁を越えた者>の方々のバトルとか、実際には常人の目にほとんど映らないレベルの超スピードだったりすると思うのですが、しかしアニメーションに落とした場合、そのまま描くことは不可能である。とんでもなく速い動きをとんでもなく速い動きそのまんまとして描いてしまうと、そもそも視聴者に(殆ど)見えないというどうしようもないオチに行き着いてしまうため、速度を落さざるを得なくなる。演出やカメラ構図、また脚本というのは、そういった問題をどうにかする力があるので(目にも映らない超スピードで描かなくても「目にも映らない超スピード」を表現することは可能である)、実際のところあまり問題になることもありませんが、『まじこい』の場合は比較対象がエロゲの文章とスクリプト演出が導き出す想像力ですから、どうにも分が悪くなっちゃいます。つまり、よくある話ではありますが、アニメとして表現されると「案外ショボクね?」という問題が出てしまう。その最たるものが平蜘蛛でして、アニメ演出だとなんか普通にビーム撃ってるだけとか、メカを呼んで物理で殴ればいいだけくらいしか見えなくて、スピードも威力も、その凄さがイマイチよく分かりません。てゆうか特典本のタカヒロの解説読んで「あーあれ凄げえんだ」とはじめて理解できたほどです。とはいえ、アニメ演出が全部悪いってわけじゃなくて、これはこれでエロゲテキストでは到達出来ないケレン味を出していました。エロゲテキストとスクリプト演出を余裕で無視してぶっ壊すデウス・エクス・マキナとしてのアニメーション演出、というのが確立されていた。それはこの、細かいことを吹き飛ばす……あるいは細かいことなど気にせず許容する豪快な器を持ったSUPERな作品においては、その器に相応しい(単純に豪華絢爛だしね)演出だったと言えるのではないでしょうか。


最後に。「キャラクターが増えまくってるけど出番も存在感もない奴多くね?」問題。てゆうかボクはこれを肯定的に捉えてます。前作の問題ですね、「風間ファミリーの閉鎖性」。言い換えるなら、内部と外部の問題、ある集団やコミュニティなどに参入できる人と参入できない人の問題。そこに確かにいるんだけど「参入できない」という人の存在。今作における「キャラクターが増えまくってるんだけど〜」をその問題に当てはめると結構落ち着くのではないでしょうか。風間ファミリーから『まじこい』そのものへと問題の対象をスケールアップというか巨視的に見てみましょう。西方十勇士とか、梁山泊なんかもっとですけど、あんな風に登場して魅力の片鱗が描かれながらも決してそれ以上にはなれない。『まじこい』認識世界・既知世界の中心が(主人公であり主観人物なのだからある意味当然ですが)直江大和だとし、そこから近ければ近いほど『まじこい』認識世界そのものにも近い―――つまり『まじこい』という集団・コミュニティ・世界への参入度として見てみれば、大和とも風間ファミリーとも絡まない……絡まなければ絡まないほど、『まじこい』世界に参入できていない、要するに「外部」、みたいな捉え方も出来るのではないでしょうか。しかし参入できなくても、外部でも、確かに彼ら彼女たちは存在している。……これはそういうことであり、つまり『S』におけるある種のユキであり、しかし状況と人間の違いが、彼女たちをユキに仕立て上げることを断じて拒む。
その最たるものが橘天衣さんでしょう。『まじこい』世界に参入できるかと思えば、とてもありえないところでシナリオ自体が終わってしまう。大和や風間ファミリーが彼女の存在を認めても、『まじこい』世界そのものが(このようにシナリオが超途中で終わってしまうように)彼女の参入を認めていないのです。いやまあ、天衣さんシナリオがあそこで終わる理由は、これこそが彼女の不幸属性の極みであって、道を歩けば鳥のフンが落ちてきて、お金を持てばポケットからいつの間にかなくなって、ボタンを押せばそれだけで電化製品が故障するのと同じように、シナリオがはじまったと思えば終わってしまうという、いわば「究極の不幸(不幸属性の極み)」がここにあるわけです……とボクは理解しているのですが(ていうか他に「ここで終わってしまう」ことの理由が思いつかん)。まあ理由は何であれ、現状、結果的に、彼女は最も『まじこい』世界――大和主観というエロゲ『まじこい』が作り出す既知認識限界に、ほとんど参入できてないわけです。しかしそこに「存在している」ことは確かである。だから、触れられなくても、届かなくても、幸せを見届けられなくても、そのことだけは認めてあげなくちゃいけなくて、そしてそれだけで充分なんじゃないかと。なにせ、参入できなくても、タカヒロキャラクタは「強い」ということを僕たちは既に知っている。この人たちは勝手に生きて勝手にそれぞれの(それぞれなりの)幸せを手に入れられるのです。ボクはリュウゼツランから地続きのユキだって、彼女なりの幸せ(およそ我われが思い描く幸せ、何よりエロゲというものがコード的に規定する幸せとはかけ離れているとしても)を得られると思うのですけどね。いや紙芝居作ってマシュマロ食べて、そしてトーマや準と仲良く出来ている限り、彼女は「幸せ」なんじゃないかと。それを僕らの基準で侵す(たとえば、ルートがある=主人公と結ばれることがエロゲキャラの幸せだなんて見做す)ことは許されないと思うのです。まあその辺の解釈は人それぞれでしょうけど。しかしですね、たとえば紋様の母との問題が、他のルートだと燕が、あるいは英雄らが紋様を後押しして――つまり「紋様ルートにおける大和の役目」に近いものを他ルートだと別のキャラが担っている――その問題を解決しているように(描かれていないけど、大和がいなければ鯉がどうにかしたかもしれませんね)、「主人公がいなければ問題が解決しない」なんてものは、そんな弱さは、タカヒロには存在しない。過去作においてもそうです。この、紋様の問題を誰かがどうにかする〜というのは、たとえば『きみある』におけるミューの問題でも全く同じようなことがありましたが(別のシナリオでは鳩ねえが錬の役割を担っている)、このように、駄目になるということはない。前作『まじこい』では、大和がいることで百代さんは自身の戦闘衝動を抑えられましたが、大和に頼れない別のシナリオでも、なんだかんだいってそこら辺折り合いつけられている。……っていうか、この辺の話は今まで何度となくしてきたので、そっちを参照*3ということでしょーじき割愛させて頂きたいのですが。とにかく、「強い」のです。タカヒロのキャラクターたちは「強い」。そしてこの強さこそが、はちゃめちゃなくらい飛びぬけてて、暴力性がすぐ隣にあって、不可能なものは不可能・詰んでるものは詰んでると切り捨てられて、登場人物として存在していても世界に参入しきれないくらいシビアであって、そして、エロゲの制度的欠点にして長所でもある「主人公と結ばれないヒロイン」という未来も生じる、この『真剣で私に恋しなさい!』の世界を生み出して、支えているのです。言い換えると、普通の強さを持ったキャラクタじゃこの世界は生まれないのです。この世界に耐えられないのです。強くないキャラクタばっか配置して物語を描いても、こんな世界は生まれない。だからこそ、『まじこい』は素晴らしいのです!

*1:紋白曰くの「良い事をしたら頭を撫でる。基本だな!」的に。

*2:特典本のP86より

*3:http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-30.html / http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-41.html / http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-51.html / http://d.hatena.ne.jp/then-d/20111211/1323612230 のタカヒロ論(タカヒロ・るーす・丸戸論)あたりを参照