アラン・リピエッツ『サードセクター 「新しい公共」と「新しい経済」』

 献本いただきました。どうもありがとうございます。サードセクターとは、市場でもなく政府でもない生産単位のことです。例えば
「したがって、「サードセクター」となる生産単位は、社会保障負担と商業税を免除されて、雇用者一人当たりのRMI(雇用促進最低所得)に見合う補助金を受け取れば、公的機関にとってのコストはゼロであって、しかも社会には新しい財をサービスのフローを供給することになる。もっとも、それは、このセクターによって他のふたつのセクターが排除される、つまり「食われて」しまわない限りのことである」(35頁)
とその特徴が記述されています。

 このサードセクターで従事する人たちの労働は「市民であるボランティア」と「賃金生活者である専任者」との協力という、いわば半ボランティアによって運営されていることにも特徴があり、また提供されるサービスは、単なる「アリバイ支援」ではなく、「社会的ハロー効果」(社会的な絆をもたらし、社会への癒し的効果をもつもの)として記述することが可能という特徴をもちます。

 このようなサードセクターの役割は若年雇用の統合においても効果を発揮すると本書では記述されてもいます。フランスでの法的整備を特に念頭においているので日本での応用がイメージしずらい読者がいるでしょうが、本書でリピエッツの提唱しているサードセクターは、このreal Japan.orgで一連の著者たちが寄稿しているCFW(キャッシュ・フォー・ワーク)の試みと原理的に共通していると思います。

 資金調達(補助金や税制などを含む)での政府系機関の役割、最低賃金以下での給与、若者雇用採用の重視、さらにボランティア精神の重視(インセンティブの根源)、そして被災地の再生とそこでの社会的紐帯の再生の重視など、リピエッツのサードセクター論とかなりの部分で共通しているでしょう。これに例えば、藤井良広氏の第三部門的な金融ファンドの創設手法を組み合わせるとより、このサードセクター論はひろがりをもつのではないでしょうか。

 もちろんこのCFWについては僕は批判的な意見も持っていますのでそれはここをご覧ください。

サードセクター 〔新しい公共と新しい経済〕

サードセクター 〔新しい公共と新しい経済〕

一部、人名表記がフランス語読みになってましたが再版のときに直してはどうでしょうか? プットナム⇒パットナム

井野博満編著『福島原発事故はなぜ起きたのか』

 今回の福島原発事故は、「想定外」でもなんでもなく著者たち「反原発」といわれてきた人たちが常に何十年も前から主張してきたリスクが顕示されただけだという。確かに彼らの主張をほとんど裏付けているのがいまの原発事故であることは間違いないだろう。

 「完全な技術というものはありえない。人間の認識や経験には限界がある。とするならば、事故が起こった場合でもそれが破局的にならないような技術でなければならない。原子力発電はそのような受忍可能な技術ではない。加えて、使用済み核燃料(死の灰)を、われわれの手が届かない千年も先の遠い未来にわたって管理することを強要する……被爆労働が避けられないという現実とあいまって、原書力発電は人類と共存できない捨て去るべき技術である」(5頁)

 これが本書の著者たちの立場である。僕はこの本は編集の方から贈られたものであり、感謝を申し上げたい。僕の立場は原発の新設は反対であり、既存の原発についてはその安全対策を徹底的に行い、長期的には原発依存から脱却することが必要である。それは岩田規久男先生が指摘しているように、日本の電力会社は原発費用を料金体系に組み込んでいない=費用を内部化していないことに問題があるからだ。しかしこの内部化の結果、おそらく原発は到底まともな電力源とはなりえない(リスクが大きすぎるのだ)。日本の火力発電や製造業などのエネルギー効率を高めた技術を前提にして、原発依存から離脱していくことがのぞましい。いきなりの原発停止(浜岡原発は即時停止、廃炉が望ましい)や、従来のままの原発依存でもない、漸進的な改革を僕は志向したい(漸進的改革については『経済論戦の読み方』でふれた)。

福島原発事故はなぜ起きたか

福島原発事故はなぜ起きたか

経済復興: 大震災から立ち上がる

経済復興: 大震災から立ち上がる

経済論戦の読み方 (講談社現代新書)

経済論戦の読み方 (講談社現代新書)

荻原真『なぜ宮崎駿はオタクを批判するのか』

 本書は宮崎駿のさまざまな作品を<共生>をキーワードにして軽快に論じていくエッセイ的な本である。僕はこの著者の方とは面識もなく出版社とも縁遠いのだがいま読み終わってなるほど、と思った。昨年、『季刊 東北学』に寄稿した「宮崎駿リア充」とテーマが重なっている。

 本書では宮崎駿作品には<共生>というテーマがあるという。「人間と自然の共生」「多民族・多文化との共生」「障害者との共生」「男女の共生」などだ。これらの<共生>を『風の谷のナウシカ』や『ハウルの動く城』などの多様なアニメ作品を主軸にして読み説いていく。文章は読みやすい。多少、著者の認めるようにアニメなどの作品本体と離れて議論が自由に伸びるところもあるが。

 さて著者は宮崎駿のたとえば「人間と自然の共生」のメッセージというか価値判断をそのまま受容して、オタクたちに「だから、まず自然と親しみましょう」あるいは、「男女の共生」ゆえに「生身の女性を前に憶してはいけません。結果、二次元少女やフィギュアだけに目を向けてはいけません」とまさに意見している。

 非常に倫理的なメッセージが強い。僕の先ほどの論文は、宮崎が「現実を見よ」といえばいうほど、オタクたちはそのような態度とは異なり、「ゲンジツ」(こころの消費)に走るだろう、というパラドクスに近い状況を解説した。おそらく宮崎の<共生>には、オタクとの共生は選択肢として排除されている可能性が強い。しかしそれを宮崎自身は意識しているようには思えない。

 もちろん宮崎は現実を何がなんでも排除するオタクを想定し、その自分と異なる「物語」や他者のアイデンティティの可能性をはなから否定している人を問題視している、という可能性もある。僕の意見ではむしろ前者の可能性の方が濃厚なのだが。

 本書ではこの点の分析がない。むしろ宮崎のメッセージをそのまま無条件にうけいれてしまい、何か異様に説教臭い展開が残念でならない。

なぜ宮崎駿はオタクを批判するのか

なぜ宮崎駿はオタクを批判するのか